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未知の境地に心を開く


昨日(12月22日)は冬至でした。冬至について地球暦のサイトでは以下のように書かれています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

地球暦が二十四節気のひとつ「冬至」をお知らせします。

The day when the length of a day becomes shortest.
春分から270度経過した仲冬の半ばの地点です。

“日短きこと至(きわま)る”という意味の「冬至」は、
一年で太陽が出ている時間が最も短い日。つまり、夜が最も長い日です。

“陰極まりて陽に転ず”の一陽来復(いちようらいふく)のときで、
今日から少しずつ太陽の出ている時間が長くなり、
反対側の夏至へ向けて光が増えていきます。
冬至は、古くは生命の終わりを意味し、
新しい命の再生復活のときと考えられていました。

これまでの厄を払い、禊や浄化、大掃除などで清めることで、生活を一新し、
心機一転して新年を迎えるときです。


無病息災を願い、かぼちゃや芋類をはじめとした陽性の食べ物を食べて免疫力を高め、
冬を乗り切りましょう。

☆彡 ☆彡 ☆彡

冬至は「古い生命が終わり、新しい命の再生復活の時」です。

そんな冬至を前にして、木の花ファミリーから2つの文章が発信されました。



2013年11月に出会ったカタカムナ
2014年は毎月勉強会を開催し、2015年3月からは研究会を開催してきました。
それを終了するのは、知識欲を満たすのではなく、その精神を実践するということであり、
生活で実践するためのカタカムナの学びを構築していく試みでもあります。

カタカムナを実践するということは、自分の願いを満たすことではありません。

自分のご利益のために学ぶ。
自分の視点で解釈をしていく。

そんな姿勢ではカタカムナの精神を極めることは出来ず、
ただ知識欲を満たすだけになってしまうのです。

カタカムナの精神を極めるために必要なのは、
木の花ファミリーで20年間最も大切にしてきた、
群れで成立するための心磨きです。
心磨きについて上記の文章では以下のように説明しています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

これは、己の外に出て自らを観察する能力を磨く事であり、誰の側にも立たない、
言わば宇宙視点で自分さえも突き放して観ることができる境地を指すものです。

☆彡 ☆彡 ☆彡

このような実践を日々行うことが何よりも大切であり、
その中で新しい学びを構築していくのです。

カタカムナ研究会の終了はその決意の現れでもあります。

そんな決意の下、迎えた冬至ですが、
大人ミーティングではメンバーの未熟さが目立つ結果となっています。

そんな大人ミーティングについて、いさどんは以下のように言いました。

☆彡 ☆彡 ☆彡

大人ミーティングには、未知のものに心を開く姿勢が足りないのです。
未知のものの心を開くとは、自分の解釈を超えていくことであり、
その時、無限の世界、無限の可能性が開かれていくのです。
もし、その場に高い視点からの言葉が降りてきたとしても、
自分の解釈の中にいたのでは、それを受け取ることは出来ないのです。

☆彡 ☆彡 ☆彡

話しを聴いていて、それは日常の姿勢が現れているのだなと思いました。
日常生活を自分の解釈の下に送っているから、
それがそのまま大人ミーティングに現れているのです。

例えば、僕は昨日、みきちゃんひとみちゃんから
一年に一度の境地」についてのフィードバックを貰いました。
それは「苦しみに焦点が行き過ぎている」
「わざわざ苦しみに行きたがっているように見える」というものでした。

この投稿で僕は「苦しみを超えて、一年に一度の境地にいく」と書いています。
そして、そのことを前向きな態度として捉えていました。
ですが、これは僕の解釈であり、僕の物語なのだと気づきました。

一年に一度の境地。

ということは、それは過去に経験したことがある境地ということです。

なぜ過去に経験してことがある境地を求める必要があるのでしょう?
その態度が、自分を狭い世界、自分の解釈の中に閉じ込めるのです。

あー、あぶない、あぶない(^_^;)

こんなふうに気付かぬうちに自分を自分の中に閉じ込めていくのです。
ですが、群れでの生活がそんな僕を助けてくれるのです(^-^)

そう、なんにせよ、過去の特定の心の状態を求めるのは執着です。
それがどんなに素晴らしいものであったとしてもです。
未来は無限に開かれていて、未知(みち)の道(みち)なのです。

冬至を迎えて。

過去の特定に境地を求める自分は死んで、未知に心を開く自分が復活しました。

未知(みち)の道(みち)を満ち満ちた気持ちで楽しもう!!!!

冬至の朝の太陽です。
12月16日 収穫感謝祭にて
冬至の朝の富士山です。



不寛容や違いを超えて生きていく。

昨年のノーベル平和賞授賞式の際、
僕は「不寛容の心と向き合う」という記事を書きました。

昨年はカイラシュさんとマララさんがノーベル平和賞を受賞しましたが、
僕は児童労働に取り組むカイラシュさんの話を一度だけ聴いたことがありました。

カイラシュさんは平和賞の授賞式で、今日の最大の危機は不寛容であり、
思いやりにより不寛容を超える大切さを訴えました。

不寛容は社会の断絶をもたらします。
その断絶を超えるために必要となるのが対話です。
その対話の重要性を示したチュニジアの「国民対話カルテット」が
今年のノーベル平和賞を受賞しました。

国民対話カルテットについては、六辻さんのブログ
チュニジア「国民対話カルテット」のノーベル賞受賞-その軌跡と意味
がとても参考になりました。

人々の意見を尊重する民主主義は、違いが表面化し、時に分断の危機を迎えます。
ですが、その分断の危機を国民対話カルテットは対話により乗り越え、
統合へと導き続けているようです。

その国民対話カルテットは、ノーベル平和賞の受賞式で、

「今こそ世界で対話を進め、お互いの多様性や違いを認め、
平和的に共存する方法を見つけなければならない」

と対話の重要性を訴えたようです。
 ※あとで全文を確認します。

ですが、対話も「ただすればよい」というわけではなく、
思いやりなど他者を尊重する心をそれぞれ育む必要があるのでしょう。
そういう心が育てば、自然と対話が生まれるのだと思います。

ところで、民主主義はイギリスの産業革命に後押しされ発展してきました。

産業革命から現在まで250年経ちました。
それは地球の誕生から現在までを1年と例えるとたったの2秒だそうです。
その2秒の間の価値観が大きく自分たちに影響を与えていると思いませんか?

個人の幸せを追い求めることが今では当然とされていますが、
それは近代から現代に掛けて形成された価値観です。

みんなの幸せを追い求めることが結果自分を幸せにする。

そんな暮らしもあるのです。

たった2秒の価値観。

そこを離れて人間そのものを見ていく。

その時、違いよりも共通するところが見えて人と人とが分かり合えます。

そんなふうに生きていくことを心掛けましょう。

木の花ファミリーのみんな@日本平動物園



思い通りにならないことが自分を育んでくれる

昨日(11月12日2時47分)は新月、冬を迎えて初めての新月です(11月8日が立冬)。

冬について地球暦のサイトには以下のように書かれています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

◎冬は精神的な充電期間

「ふゆ」は「冷(ひ)ゆ」「振(ふ)るう」「震(ふる)う」や、動物が出産するという意味の「殖(ふ)ゆ」などからきた言葉。冬になると、山の動物は冬ごもりし、大地からは緑が消えます。新しい一年のはじまりとなる春までの充電期間でもあるのです。

☆彡 ☆彡 ☆彡

冬は、内面を見て、精神を熟成させる期間と言えるのでしょう。

そして、新月は「新しい始まり」であり何かを決意したり宣言したりするのに適しています。

僕の心を通して宇宙の心を育んでいく。

より強く、そのことを意識していこうと思いました。

立冬を迎えた翌日の11月9日、10日。
木の花ファミリーではカタカムナ研究会が開催されました。
そして、そのレポートをひとみちゃんとあわちゃんが書いてくれています。

天然生活in木の花ファミリー:カタカムナ研究会at木の花ファミリー

地球外生物「あわりーぬ」のブログ:2015年11月カタカムナ研究会の感想



カタカムナは12000年前に日本に存在した文明であり、
彼らが生きる中で体得してきた宇宙物理学です。
そこには物事の生成と発展の様子が描かれていて、
そこから物事の本来の姿や宇宙の法則を知ることが出来るのです。

ですが、それを頭で学ぶだけでは本来の姿を体現することは出来ません。
宇宙の法則を生きるとは、宇宙の心を生きることです。
それは個人の心を超えたところで繋がっていきます。
そのために日々の心磨きが大切になり、
僕らは共に暮らすことで、「個」を超えて繋がっていこうとしているのです。

カタカムナ研究会は毎回そのことの確認の場となっています。

大切なのは日々の暮らしの中で心を磨き、心を育んでいくことです。
そして最近つくづく思うのは、
思い通りにならないことが自分の心を育んでくれたということです。

以下3つのブログに書いているように、
今年の夏、僕は思い通りにならないことに出会い、
そして滞りを経験しました。

正しい自己認識が世界を変え、世界に平和をもたらす

相応しいものになっていく

空っぽへのあこがれ

思い通りにならないこと。それは自分のエゴを浮きぼりにしてくれます。
ですが、滞りを通して自分を知り、それを超えていく時、
滞りはエネルギーへと転換していくのです。
その時、自分の心に深みが増すことを感じています。

そして、僕は新たな気持ちで宇宙の心を育んでいくのです。

そんなふうに思って迎えた昨晩の大人ミーティングでは、
11月13日に放映されたNHKスペシャル「縄文 奇跡の大集落」をみんなで観ました。

縄文人は、農耕を行わず、狩猟採集の生活により10,000年間続く社会を築き上げました。
それは世界で他に類のないことです。
農耕は自然に働きかけ、自然を壊すことにも繋がります。
それをせずに豊かな自然を活かし調和していく縄文の暮らしは、
現代社会に沢山の示唆を与えてくれています。

番組では、「1万年後に生活する人々のことを考える」大切さが語られました。

ところで、今、木の花ファミリーには、アメリカでトランスパーソナル心理学を学んでいる
トーマスとディアが滞在しています。
彼らは大人ミーティングの前にいさどんと面談をしていましたが、
この番組を観た後、トーマスは以下のように語りました。

☆彡 ☆彡 ☆彡

いさどんとの面談は素晴らしい時間でした。

語る必要のない人と出会った。それを感じました。
私たちは言葉を超えて分かり合うことが出来ました。

縄文のコミュニティの暮らし、その精神性は素晴らしいものだと感じました。

今、コミュニティを語る時、環境の大切さを語る人は多くいますが、
心について語る人は少なく感じます。
ですが、環境は自分のことを語りません。
だから私たちが語っていく必要があるのです。

私たちはみんな楽器です。お互いに奏で合い、響き合う楽器です。
美しい響きを奏でるために私たちは自分を空っぽにしていく必要があります。

私たちはお互いに映し合っています。
自分の中に自我があると、その自我を相手の中にも見て、
正確にとらえることが出来ません。
自分を空っぽにすることにより、相手を正確にみることが出来るのです。
そして、空っぽ同士が奏で合う時、美しいハーモニーが響き渡るのです。

それがコミュニティの姿であり、外の環境を整えることではないのです。

☆彡 ☆彡 ☆彡

このトーマスの話を受けていさどんは以下のように語りました。

☆彡 ☆彡 ☆彡

コミュニティを語る時、環境負荷について語られることが多くありますが、
外にある環境を整えようとしてもコミュニティは上手くいきません。

今まで人類は農耕により巨大都市を築いてきました。
その巨大都市はあるところまで行って目的が達成すると滅びる定めにありました。
外の環境を整えるだけでなく、人間の内面を見ていく必要があるのです。
外を見る目と内面を見る目が一致している必要があります。
どのような精神の元、その構造物を創るのか?
そこを確認することが大切なのです。

木の花ファミリーは21年間、コミュニティを形成してきました。
そこにはモデルがあります。
それは宇宙の構造であり、地球生態系であり、一人一人に身体の構造です。
そこでは特定のものが「自分」を主張することなく調和して成り立っています。
人々が助け合って暮らすには、それをもたらす精神性が必要になるのです。
もし、調和を阻害しているものが内面にあるならば、それを取り除く必要があります。

自分のためと同時に全体のため。

それが成り立つ精神性が必要なのです。
それは広くて大きなエゴなのです。
エゴは否定されるものではありません。
スケールを大きくしていくものなのです。

一人一人の精神が大きくなれば、コミュニティは自動的に出来上がります。

トーマスとディアはインドネシアでコミュニティを創り、教育を実践すると言います。
それは新しい時代への知恵が湧く教育となるでしょう。
扱う対象は多方面でも、すべては一つの方針に沿って行われていくのです。

その方針になるのが精神性です。

歴史は今までたくさんの偉人を生み出してきました。
ですが、コミュニティは一人の優れた人がやって成り立つものではありません。
それは自然の姿と異なります。
なぜ今の時代にコミュニティが必要かというと、
お互いに助け合う。それが生命の本来の姿だからです。

私たちは群れることで助け合います。

群れること忘れると何が起きるか?

個人の幸せを追求した現代人の生き方がそれを示しています。

今年、我々は地球談話に出会いました。
そして、宇宙遊牧民、モンゴル人のムルンと出会い、対談しました。
トーマスとの出会いはそれらに並びます。

今、時代は転換期を迎えています。
別の場所で暮らしていても時代が切り替わる時には共通の意識で出会うものです。
この出会いが宇宙の働きの結果だと確信しました。

今、言葉で語る人は多くいます。
ですが、大切なのは語ることを現象化することです。
それを我々は行ってきました。

こういう精神の元、コミュニティを創るならば、我々のファミリーが広がるということです。
それは宇宙の心の元に暮らすファミリーです。

☆彡 ☆彡 ☆彡

僕は2人の話を聴いて、心が湧き上がりました。
わくわくします(^-^)

ところで話しは変わって・・・

11月8日、立冬の日。

国連気候変動会議(COP21)を前にして
2つの報告書が公表されました。
それらによると、気候変動をこのまま放置すれば、
今後15年のうちに世界の最貧困層が1億人以上増加し、
計7億6000万人の住む土地が水没する恐れがあるようです。
(※気候変動で「最貧困層1億人増」「7.6億人が家を失う」恐れ参照)

今、地球は危機的な状況にあると言えます。

ですが、トーマスとディアとの出会いに僕は希望を感じています。

こんなふうに共に心を育んでいく人たちと出会っていく。
それは人類の精神革命へと繋がり、心豊かな未来を生み出していくことでしょう。

この時、気候変動という「思い通りにならない」人類の滞りは、
エネルギーへと転換していくはずです。

そんな未来がとっても楽しみです(^ー^)

トーマスとディアは11月21日~23日に開催される
「地球会議in木の花ファミリー」 ~時代の扉は、既に開いている~に参加する予定です。

この3日間はとっても豊かな語り合いになること間違えなしです。
わくわくする未来のヴィジョンを語り合いたい方は是非、ご参加ください。








客観性はすべての出来事を生かしていく。

今、太陽系で木星と海王星が太陽を挟んで180度に位置を運行しています。
これは約13年に一度の天体イベントとなります。
(11月5日が最大) ※地球暦「木星と海王星の開き」参照。

コミュニティや「みんなで」ということを表す木星と、
精神性やユーモアを表す海王星の開きは、
みんなで精神性を深めていく、
そしてその深めた精神性が社会に広がっていくことを表しているのではないでしょうか?

そんな中、木の花ファミリーでは11月3日の晩、
今年の8月に放送されたNHKスペシャル「女たちの太平洋戦争」をみんなで観ました。

アジア太平洋戦争に「従軍看護婦」として派遣された女性たち。
その証言を元に作成されたこの番組は、戦争の悲惨さを描いています。

このように戦場の様子が赤裸々に語られるようになったこと自体、
時代の流れを感じさせますが、この番組を観て、いさどんは以下のように語りました。

☆彡 ☆彡 ☆彡

我々は今までも戦争の映像を観て、人間についての認識を深めています。
それは悲惨な世界を描いていますが、あの時、世界大戦があってよかったとも言えるのです。
もし世界大戦がなく、そのまま科学技術を発展させたら、
もっと早く地球環境に限界が来たのではないでしょうか?
加えて、痛みを知らない人類は、
もっと軍備を発展させた状態で世界大戦を起こした可能性もあるのです。
そう思うとあの段階で痛みを与えてもらって良かったとも言えるのです。

☆彡 ☆彡 ☆彡

この言葉を聞いて「そうだよな」と思いました。

安心感を育んでいく」にも書きましたが、
今、多くの国々は損得勘定で繋がったり離れたりしています。
第二次世界大戦での「痛み」は人類に戦争は「損」として刻み込みました。
それは確実に戦争に対する抑止力になっているでしょう。

それでも小さな戦争はなくならない現状があるのですが・・・・

それは人々の心が本当に意味では変化していないからでしょう。
それを表すように地球環境からは厳しいメッセージが伝えられています。

今年の12月にパリで開催されるCOP21(国連気候変動枠組条約第21回締約国会議)に向けて
各国は温室効果ガスの削減目標を出しています。
ですが、それぞれの国が出している目標を達成したとしても、
気温上昇を2度未満に抑制することが出来ないと言われています。
 ※「COP21が求めるもの 低酸素でレジリアントな社会」参照

今、人類はその生活を根本的に見直す必要があるのですが、
まだ間に合うのは先の世界大戦の「痛み」のお蔭とも言えるのでしょう。

時は相応しく刻まれているのです。そして今があります。

続いて、11月4日、5日の大人ミーティングでは、
21世紀のいのちの捉え方」をみんなで読みました。

人は必ず死にます。それは客観的な事実です。
なので情を挟まずに、死から客観的に学んでいくことが大切なのです。

「21世紀のいのちの捉え方」には以下のように書かれています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

生死の流れからすると、亡くなった人たちは必ず次へ行かなければいけないのです。
ですから、そこでは未練を持つのではなく、
その人との出会いから感情を入れずに学ぶことが大切なのです。
学ぶことがその人の死を生かすことになるのです。

生きている者からすると、その人の生き様を見せてもらったのですから、
「あの人はこう生きてこのような結果を迎えたのだから、
自分はこのように生きていこう」と自らの生き方につなげ、
学ぶことが、人の死を生かすことになるのです。

☆彡 ☆彡 ☆彡

客観的な位置に立つことにより、人の死を生かしていく。
それは先に話題に挙げた戦争についても言えるのだと思います。

多くの命が奪われた戦争。
その悲惨さを直視し、感情的になるのではなく、
冷静に客観的に見ることで人間について学んでいく。

今、生きている人々がこのような態度になった時、
戦争で亡くなった命が本当の意味で生かされていくのでしょう。

客観性はすべての出来事を生かしていくのです。

それは個人個人の人生にも言えて、
一人一人いろいろな癖を持ち、人生で滞りを経験しますが、
客観的な位置に立ち、出来事から学ぶ時、滞りも生かされていくのです。

そして、「21世紀のいのちの捉え方」はカタカムナを踏まえて、こんなふうに言います。

☆彡 ☆彡 ☆彡



死を迎え、肉体の衣服を脱いだ先は、見えない世界で魂として存在しています。
ただ、それでも「ある世界」にいるので、
見える世界と見えない世界を行ったり来たりしています。
それを繰り返しながら、学びを積み重ね、「ある世界」の仕組みを悟ると、
今度は「ある世界」と「ない世界」を行ったり来たりすることができるようになるのです。
神は「ない世界」に存在します。
そして、「ない世界」へ行くためには、一切の情がなくならないといけません。
ですから、人間もいずれ「ない世界」へ行き、この世界の単なる原料に還っていくのです。

そこでの「ない世界」というのは、ないけど、「ある」を包含しているのです。
そこには何があるのかというと、現象界を創るための響きがあるのです。
聖書でも、「はじめに言葉ありき」と表現され、
想いだけがあり、それは響きなのです。

響きという音の思念があるだけですから、
潜象界にはたとえば「ア」という音と「イ」という音がそれぞれ存在しているのです。
音には全て意味があるのですが、それはこの世界を創る素材であって、
それがこの現象界に現れてきて、「ア」と「イ」が縁があってつながると、「
アイ」になるのです。
それは、一人ひとりの人間の魂についても同じことです。
たとえば「アイ」という魂をバラバラにして潜象界に送ると、
「ア」と「イ」の響きだけになって、それは「ない世界」の状態です。
そして、そこに縁が生じ、現象界に現れると「アイ」という魂になり、
「アイ」という人生(現象)が表現されるのです。

☆彡 ☆彡 ☆彡

僕たちは「ある世界(現象界)」に暮らしていますが、
みんな、「ない世界(潜象界)」から生まれています。

潜象界には48音の響きのみが存在し、すべての存在がそこで「一つ」となります。
僕たちは、48音の響きの元、すべて解体され、すべて繋がり一つとなります。
その響きは、客観性であり、すべての存在を生かしていくのです。

それは「宇宙の心」と呼べるように思えました。

僕たちは「宇宙の心」の元、個性豊かな存在として生み出され、
それぞれの方法で「宇宙の心」を奏で、育んでいくのです。

なかのよしふみ(なかのよしふみ

これが僕の与えられた響き。

この響きがいろいろな響きと出会い、音を奏で、心を育んでいく。
育む心は「僕の」心でなく「宇宙の」心。

「僕の・・・」という意識は幻だから。

主観性。「僕の・・・」という幻の世界。

それは自分を他から切り取ることで生まれる幻の世界であり、
宇宙の心が与えてくれたプレゼントであり自由な世界。

でもその自由は狭く、僕を苦しめます。

苦(9)を超える(9)ことで、宇宙と一体となり統合(10)されます。
充分(10)な幸せを味わえます。

その時、僕は「僕の」心ではなく「宇宙の」心を生きていることでしょう。
それはすべての存在を生かす客観性に基づく心です(^-^)



さてさて、この文章を読んで「カタカムナって何?」と興味を持った方。
11月9日、10日で木の花ファミリーにて「日本古代の叡智に学ぶカタカムナ研究会」が開催されます。
とても充実した学びになること間違えなし!是非、ご参加下さい。

そして、こんなふうに客観的視点に立って未来のヴィジョンを描いていきたい方。
以下のイベントをお勧めします。きっとわくわくする未来を描けるはずですよ。









4(混沌)から5(位置)へ。それは世界に広がりをもたらす。

今日(10月24日)は霜降(そうこう)。そして、21日から土用に入っています(地球暦のサイト参照)。
土用は季節の移り変わり目。地球は今、秋を終わらせ、冬を迎えようとしています。

先の地球暦のサイトには「霜降」について以下のように書いてあります。

☆彡 ☆彡 ☆彡

一年を一日にたとえたら、「霜降」は夜8時くらい。家族団欒で食卓を囲み、一日の出来事を回想しているような頃合いです。今年の収穫を感謝し、来たる冬を迎えるための心づもりをするときです。

☆彡 ☆彡 ☆彡

そう、霜降の日は、今の自らの行いを振り返るのに良い時期と言えるのではないでしょうか?

意図していないことに自分が現れている。
最近、よくそう思います。

例えば、何かをしようとしている時、別の用事を頼まれる。
その時、自分の中にどんな感情が沸き起こるか、どんな反応をするか?
そういうところに自分の人間性が現れると思うのです。

もっと言えば、その意図していない出来事を招いているのは自分自身です。
自分の中の自覚していない部分がその出来事を引き起こしている。
そんなふうにも言えるのです。

なので、意図していないことに開かれることで、
自分を知り、学びを深めていけると思うのです。

意図していないこととは無意識。
だから僕は秋分の日に、


と宣言をしました。

秋分から30度経過した今、その宣言を新たに意識していこうと思います。

社会に目を移せば、フォルクスワーゲンによる排ガス不正問題や旭化成のマンション傾斜問題、東洋ゴムによる免振ゴム及び防振ゴムでのデータ改ざんなど大手企業によるデータ改ざんが話題になっています。

これらはそれぞれの企業にとって意図していないことしょうが、データを誤魔化していた普段の姿勢が表に現れたものです。まさにそれぞれの企業の実態を表していると言っていいでしょう。

その背景には、過度に経済成長を求める現代社会の歪みがあるように思えますが、なんにせよ、それぞれの企業は問題を通して自分たちを知り、改善をすることが出来るのです。
そして、もしその背後に社会の歪みがあるならば、企業の改善は社会の歪みの改善にも繋がっていくのでしょう。

そう考えるとそれは天からの恵みとも言えるのではないでしょうか?

時代は今、闇のピークを越え、光の時代へと向かっているのです。
 ※2012年12月21日 太陽系は約25800年振りに銀河の冬至を迎えました。

僕は?
 空っぽへのあこがれ

これらの記事に描かれている僕の滞りは意図していないものでした。
ですが、そこに自分の現状、「よごれ」「よどみ」が現れているのです。

 ☆彡 

話しは少し変わって、僕は毎朝、富士山を眺めて「お祈り」をしています。
 ※「お祈り」については「あわりーぬ」のブログを参照して下さい。


10月24日(霜降)富士宮からの富士山です。※AM6時頃


今日は、山中湖にお弁当配達に行った時も「お祈り」をしたので、
富士山を挟んで南西と北東で「お祈り」を捧げたことになります。


10月24日(霜降)山中湖からの富士山です。※お昼ごろ


湖で「お祈り」を捧げていると、波の音や風の音が
「お祈り」に合わせて変化する感じが心地よかったです。

ところで、このお祈りはカタカムナを取り入れているのですが、
僕の名前、よしふみ「よ()」は「4」であり混沌を表す思念です。

「よ」(4)は、「い」(5)の方に進めば、「よい」となるのですが、
「み」(3)の方に戻ると、「よみ(黄泉)」となり、死の世界に入っていきます。
「よ」はどちらにも転がりえる、混沌の中にあります。

「よ」がつく言葉を見ると、喜び、良い、淀み、汚れなど両義的なのはその表れでしょう。

自分の中には混沌がある。

それは確かで、その混沌が「相応しいものになっていく」や「空っぽへのあこがれ」で
描かれているような滞りを時々僕にもたらしてきました。

それは「いやなもの」に感じます。

ですが、思いは満ちた(3)後、混沌(4)の中で広がり、
意志(5)の元、この世界に位置(5)を得るのです。

混沌はこの世界に広がりをもたらすもので、必要なものでもあるのです。

「よ」を名前にいただいた僕は、自らの持つ混沌としっかり向き合い、
この世界に広がりと豊かさをもたらす役割をいただいているのです。

だから僕は混沌を愛する。

そう宣言し、混沌「よ」(4)の中に天の意志「い」(5)を見出し、
それらが描く未来を楽しんでいこうと思います。

そんなふうにわくわくする未来のビジョンを描きたい方!
以下の2つのイベントがお勧めです。是非、ご参加下さい(^ー^)

☆彡 ☆彡 ☆彡

10月31日・11月1日 古代日本と遊牧民族の叡智が融合し、未来を創造する~モンゴルの草原から来た青年の吹きおこす風 ~第1章「大地」



最近、永世中立国を目指すことが伝えられたモンゴル(高知新聞「小社会」参照)。
中国、ロシアと大国に挟まれたモンゴルのエルベグドルジ大統領は
永世中立を旗印にアジアの紛争防止に力を尽くそうとしています。
そこからは国の理性が感じられます。

そのモンゴル出身の若者ムルンくんと木の花ファミリーは、今年の8月に出会いました。
ムルンくんは木の花ファミリーに「天の故郷」を感じ、このイベントは企画しました。
(※出会いの様子は「あわちゃんのウルルン木の花滞在記『お祈り』」をお読みください)

今回のテーマは「大地」。
ムルンくんといさどん、そして参加者が大地をテーマに語り合うことで、
未来社会のあるべき姿を描き、行き詰まった現代社会の突破口を示します。
 ※9月10日に行われた2人の対談は「地球談話を実践する人々」をお読みください。
是非、共に語り合い、希望ある次世代の生き方を地球上に実現しましょう!






真の平和を地球にもたらすために今わたしたちにできることは、
一人一人が広い世界観を持ち、個々の自我を超越することです。

それは精神革命と言えるでしょう。

第9回の大人サミットとなる「地球会議in木の花ファミリー」は、
精神革命が引き起こす次世代の「クニツクリ」の場となっていくでしょう。

是非、共に語り合い、これからの未来を本気で創り上げていきましょう!




カタカムナ文明はどこにあったのか?

雨に地球の心を感じる」で紹介した網野善彦さんの話をもう少ししたいと思います。毎日新聞の書評では網野さんの研究について以下の3点の特徴を挙げています。

(1)日本列島社会論

国号日本が出来たのは七世紀末頃から。縄文弥生の時代には、日本も日本人もいませんでした。日本列島には列島人がいるだけで、アイヌ、琉球、西国、東国、畿内など地域によって多様な社会を形成していました。近代の日本国の概念で日本史を観ることは出来ません。

(2)水田農業中心史観への批判

列島人の生業(なりわい)は稲作だけではありません。海山では漁業商業・採集があり、関東では大半が畑作でした。水田農耕が進んだ畿内が先進地で、東北、関東、九州など周縁は後進地と言うことは出来ない。

(3)海民の日本論。

日本には海山の民がいる。江戸時代の鎖国の影響により、日本列島は海で守られた孤立した完結社会との固定観念が生まれていますが、海で大陸など外界と活発に交流していました。日本国の境界を曖昧にし、地域が直接に列島外と繋がっていました。北海道産の多い昆布が沖縄で最も食べられているそうです。

網野さんは上記の問題提起により日本認識そのものを世に問うていました。日本国という国家の枠からではなく、もっと広い人類の視点から物事を見ていたのです。

これを読んだ時、カタカムナ文明のことを思い出しました。そして、それがどこにあったのか疑問になりました。地域により多様な列島社会。それらすべてにカタカムナは浸透していたのでしょうか?

8月24日、25日と木の花ファミリーではカタカムナ研究会が開催されていました。丁度良い機会だったので、僕は上記の質問を講師の芳賀さんにしてみました。芳賀さんは以下のように話してくれました。

カタカムナ講師の芳賀さん


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カタカムナ文明はアシヤ族と言われています。アシヤ(芦屋)市は、兵庫県にあります。もしくは、アシヤ(芦屋)町というのが九州の福岡県にあります。カタカムナ文明があった場所は、そのどちらかでしょうが、楢崎皐月が平十字に出会い、巻物を写し取ったのは兵庫県六甲山です。それを思うと兵庫の可能性が高いとも言えます。この地域でカタカムナ文明は発展しました。ただ、これはこの場所で8鏡文字が生み出されたということであり、カタカムナの精神、波動は広く伝わっていったと思われます。網野さんが言う通り、この時代、国家という概念はありませんでした。国家など関係なく地域毎に交易し、それによりカタカムナの精神も広がっていきます。カタカムナは中国にも伝わり、レベルダウンし老荘思想となっているのです。列島内にも当然伝わっていたのです。※ちなみに木の花ファミリーの近くにも大鹿窪遺跡という当時の遺跡があります。

余談ですが、この時代、勾玉というものがありましたが、勾玉があのような形をしているのは、重なることにより交易が成立することを示すことにありました。勾玉は最初丸い形をしていたのですが、交易の発展の中であのような形になったのです。地域と地域が国家という枠組みを超えて繋がっていたのです。

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カタカムナは宇宙物理学です。それはこの世界の発生と消滅のプロセスを表現している普遍的な法則です。カタカムナを生きる時、群れとなる(人と人が協力し調和する)必要があり、それは一つの地域での実践となります。ですが、カタカムナが実践される時、その精神は地域を超えて宇宙に広がるものなのです。

一昨年の11月、楢崎皐月さんが復活させたカタカムナに木の花ファミリーは出会いました。カタカムナを学ぶ人は増えていますが、実際に群れで暮らしているのは今のところ木の花ファミリーだけなのではないでしょうか?

カタカムナの実践は波動となり世界中に広がり宇宙へ達します。それは一人一人のエゴのより歪んだ流れを元に戻すことであり、時代の流れを促進するのです。その精神は普遍的なものであり、それを通して人は今持っている枠組みを超えていくことが出来ます。当然、国家という枠組みも超えていきます。

今の思考の枠組み、常識を超えていく。

それがカタカムナを生きるということであり、網野さんの研究の姿勢でもありました。
木の花ファミリーで暮らすことにより僕はその実践をし続けようと思っています。
その先にある未来はきっと僕の想像ははるかに超えたものです。
それがどんなものか? とっても楽しみです(^-^)

8月24日、25日に開催されたカタカムナ研究会の様子(詳細はこちら


カタカムナを生きるとは?

一昨年の11月、木の花ファミリーはカタカムナと出会いました。その後、昨年の4月から講師に芳賀さんを迎えてカタカムナを勉強し、学びを深めていきました。1月26日、27日の2日間。自分たちの学びの状況、そして、カタカムナを生活に取り入れ、生きていくとはどのようなことかを確認するため、芳賀さんも交えて話し合う時間を持ちました。

カタカムナを生きるとは?

このことを考えるためにはお互いについて深く理解し合う必要があります。芳賀さんに僕たちのことをより深く理解してもらうために、まず以下の文章を読みました。

2015年「船出の年」を迎えて (いさどんブログより)

東洋の叡智が花開く時代 ~雑誌「世界建築」より (木の花ファミリーブログより)

いさどんの心と鬼の面 (宇宙の秘密みかこのブログより)

僕といさどんと木の花ファミリー (このブログの記事です)

カタカムナから観た経済システム (このブログの記事です)

今 地球上に生きる全人類の皆さんへ (いさどんブログより)

そして、芳賀さんからも人生をカタカムナに掛けてきた想いが語られ、お互いをより深く理解し合う時間となりました。その中で確認し合ったことは以下のようなことです。

みんなで丸くなって話し合っていました。
大切なのはカタカムナを生きることであり、カタカムナの知識はあくまでそのためにあります。知識ばかりに目を奪われると、本来の目的、カタカムナを生きることから離れてしまう恐れがあります。カタカムナとは宇宙の法則です。つまりカタカムナを生きるとは、宇宙の法則を生きることであり、それが出来ていれば、カタカムナの知識は不要となります。宇宙の法則は、直観からもたらされます。直観を磨くこと。そのためのツールの一つとしてカタカムナはあるのです。
そして、今年2015年はどんなことが起こるか想像が出来ません。フランスでのテロ、イスラム国により邦人誘拐事件など年の初めから大きなうねりを感じさせます。世界の先は見えません。ですが、それは悪い意味ではないのです。時代が新しくなるということなのです。人類は大きく変化していく必要がありますが、未来は明るい。そんな予感は確かにあります。今、次の時代を担う新しい魂が沢山降りてきています。僕たちは未来に繋ぐために直観を磨き、宇宙の法則に沿って生きていくのです。

まとめてしまえば、上記のようになりますが、木の花のみんなの意識が纏まらない場面、お互いの意思疎通が行かない場面など、様々な場面があり、とても学びの多い時間となりました。

例えば、26日の夜に、こんな場面がありました。

芳賀さんは人生の危機をカタカムナに賭けることで乗り越えた経験を持っています。話し合いの中でその経験が語られた時、僕は以下のように伝えました。

芳賀さんが今、とても大切な話をして下さっているのは分かります。ですが、それは個人的な人生の話ですよね?カタカムナが何のためにあるかと考える時、今の社会を変えるためにあるのだと思うのです。世界と自分が一つだという事実。その事実に気づき、自分ごとを超えて、世のため人のために生きること。カタカムナはそのためにあると思うのです。カタカムナを生きるとはそういうことだと思っています。

それに対して芳賀さんは以下のように答えました。

幸せでない人は他の誰かを幸せにすることは出来ません。世界平和を願ったところで、自分が不幸ならば、その波動が人々に伝わります。だからまず、個人が幸せになる必要があるのです。幸せな個人の波動が世界に伝わっていくことで、世界は良くなっていきます。

芳賀さんの言葉を聴きながら、浮かんでくる想いはあったのですが、僕は言葉を飲み込み、その場では話しませんでした。それは上手く伝えられる自信がなく、芳賀さんと不毛な議論になることを怖れたからです。

その僕の判断を聞いたいさどんは以下のように話しました。

今回の話し合いは、お互いを理解し合うことが目的です。ならば、正直に本音を語り合うことが重要になります。なかのんは「上手に伝える自信がなかった」と言いますが、なぜ上手に伝える必要があるのでしょうか?それを必要と思うのは、なかのんが結果を所有しているからです。「分かり合う」とか「理解し合う」とかそういう状態を頭で思い描き、そちらの方に持っていこうとしているからです。ですが、それでは本当の意味でお互いに理解し合うことにはなりません。まずは正直に思ったことを伝えることが大切です。

結果を所有している。

木の花ファミリーメンバーの多くがその状態だったため、充分な話し合いとはならなかったのです。そして、僕が飲み込んだ言葉は翌日、みんなから様々な切り口で芳賀さんに伝えられました。

個人が幸せでなければ、人々を幸せにすることは出来ない。そのことは僕たちも充分承知しています。それでも僕たちは、自分ごとを超え、自分を手放して生きる道を選んでいます。それは、その時、他者の幸せが自分の幸せとなるからです。そんなふうに生きる時、どんな時も自分は幸せでいることが出来ます。なので、自分の幸せについては考える必要がなくなるのです。ただ天と共に生きることを心掛けていればよいのです。それが宇宙法則を生きることであり、カタカムナを生きることなのです。

そんな僕たちの生き方についてあらためて芳賀さんに共有しました。そして、さらにお互いを理解し合うことが出来たのです。学びの多い時間を過ごすことが出来ました。

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思惑を持って結果を所有する。

その姿勢は時に視点を歪め、真実が見えなくなります。そして、その結果思わぬ影響を及ぼすことがあります。例えば、後藤健二さんの安全が気になるイスラム国による邦人人質事件ですが、識者と言われる人の中には、「安倍政権の積極的平和政策が中東諸国の対日不信感を深めていたところに、今回の安倍総理の中東歴訪が、この不信感を呼び覚ました」と論じている人がいるようです(野口雅昭さん「邦人人質事件に関する「識者」の論調」より)。これなどは明らかに安倍政権に対して批判的な人が、その視点から論じているように思えます。なぜなら、中東諸国に目立った対日不信感などはないようなのです。加えて、この意見は、イスラム国と中東諸国を同一視してしまっているのです。残忍なテロ組織であるイスラム国と中東諸国を同一視するこの発想は、中東諸国に対する偏見に繋がるのではないでしょうか?偏見は差別、そして時には争いに繋がります。そんな可能性に識者と言われる人たちは気づいているのでしょうか?

そして、僕はイスラム国について残忍なテロ組織と書きました。ですが、そのイスラム国は僕らが生み出したとも言えるのです。見つからなかった大量破壊兵器を口実にイラクを攻撃したアメリカ。その攻撃がイスラム国の台頭を生み出しています。日本はその戦争を支持しています。日本はイスラム国の誕生にしっかりと繋がっているのです(イスラム国による人質事件。の巻 -雨宮処凛より)。この時、アメリカ政府や日本政府は、自分たちに都合のよい別の未来を思い描いていたことでしょう。思惑通りにはいかず、大きな不幸を生み出している。この現実に目を向ける必要があるでしょう。

それぞれの国が、自分の立場から過去を眺め、思惑を持って結果(未来)を所有しようとしています。それが現代の混乱や苦しみを生み出しているのではないでしょうか?そして、それは個人個人の人生にも言えるのではないでしょうか?

先に紹介した「今 地球上に生きる全人類の皆さんへ 」を読んでみて下さい。そこでは、そんな人々に新たな視点を提供しています。この文章についていさどんは大人ミーティングで以下のように語りました。

この世界が因果応報によって動いているのは確かです。ですが、因(過去)にとらわれる必要はないのです。現象に反応して、それに合わせて次に現象を生み出していく。それは因果に翻弄されている状態です。経験にとらわれていてはいけません。太陽はこの宇宙を未知なる空間へ螺旋を描きながら回っています。まだ一度に行ったことのない空間、未知の空間です。人生も同じです。常に新しい未知の世界へと進んでいるのです。そこでは、「今までこうだったからこうなる」という約束はありません。常に新しいがあります。だから、それをただいただくだけなのです。

過去も未来も所有しない姿勢となり、ただ今を頂いて生きていく時、人は自由になります。宇宙法則に基づいて生きることになり、カタカムナを生きることになります。そして、その視点から世界を見た時に多くのことに気づくはずです。

正しいを考えることは、悪も生み出します。今までたくさんの主義主張が、この世界に正邪をもたらし、それが争いに繋がりました。それらすべてを融合し、超えていくことで未来を顕していくことが出来ます。そのためにはただ心の目を開けるだけでいいのです。

上記の文章でいさどんは以下のように述べています。

今地球上に生きる人類の皆さん、なぜ一つの生命である地球上で人類は他の生命の存在を無視するのでしょうか。なぜ地球上で一つの種である人間が、違いによって戦う必要があるのでしょうか。あなたも私も同じ一つの体の一部です。それは互いを生かし合う美しい無限な生命の調和とつながりの連鎖です。たったそれだけのことに気付くだけです。これまで生命が時と共に変化してきたように、地球の歴史の中では大陸が移動したりと変化はありましたが、陸地同士が主張し合い戦ったことは一度もありません。今の時代に限って、地球上に存在している細胞(人間)が、癌化しているだけなのです。今、それを私たちは気付き、その習性を改めればいいだけです。

すべての存在はみんな一つ。みんなで共に未来を描いていきましょう。


お金とは何か ~カタカムナの単音思念から~

ティク・ナット・ハンの病と木の花ファミリーの暮らしとお金でも書きましたが、お金をカタカムナの単音思念で見ると以下のようになります。

「金(かね)」

「か」はこの世界に遍満する微細な見えないエネルギー、そして「ね」は「根(ね)」、根源のもの、無限に広がる思念です。つまり「金(かね)」とは、この世界に時空を超えて無限に遍満している微細なエネルギーのことを現わしています。

ちなみにこの思念とは、宇宙の発生、発展、消滅に伴う「響き」のことであり、それは耳には聴こえてこないけれども宇宙空間に満ち満ちて鳴り響いています。その「響き」を人間の可能な発生に合わせて、48音の記号に定めたもので、言葉の定義とは違い、幅広い意味を包含しているのです。それは厳密に定義するのではなく、直観からのイメージを膨らませることで、そこに近づくことが出来る性質のものです。お金に関しても、その単音からイメージを膨らませることで、それがこの世界にどのように発生し、発展しているのかが掴めるのだと思います。漢字はその助けになっています。上記の「金(かね)」に関する記載はそんな方法による考察です。

この世界に時空を超えて無限に遍満している微細なエネルギー

それがお金です。

今村仁司さんが書いた『貨幣とは何だろうか』という本があります。この中で今村さんは、人間特有なものとして、墳墓と貨幣を挙げ、それらが死の観念に結びついていると語っています。この視点はとても面白いと思いました。

すべての生命は死を迎えますが、自らの死を意識して生きているのは人間だけだと思われます。そこに人間の独自性があります。「死」と向き合う方法が求められます。

木の花憲章世界観概要にも書かれていますが、この宇宙には「想い」のみが存在している地点がありました。その「想い」が圧縮して爆発し、相反するものが生まれました。相反するものは離れては惹かれあい、宇宙の振動(響き)を生み出しています。

生きることは死に近づくこと。

生命のその姿はまさに生と死という相反するものが離れては近づく(惹かれあう)姿でしょう。

離れたものが再び近づく。

そこには媒介となるものが存在します。それが墳墓であり貨幣であると考えられるのです。

それぞれ別々の存在としてこの世界に誕生した生物。個性を磨き際立たせることは、全体から離れることでもあります。ですが、無限に遍満している微細なエネルギーである「金(かね)」が、離れていく個を繋ぎ合わせるのです。

お金とは媒介物であり、それは関係性のあり方を現わしています。

とまあ抽象的なことを書いてきましたが、わけが分からないかもしれません。
そこでもう少し違う書き方をしてみます。

生と死、善と悪、光と闇など相反するものが存在するこの世界では、それらを再び近づける媒介物が必要となります。その一つがお金ということです。お金は人々を繋げるのです。ということはお金がどんな姿をしているかで、その世界の人々の関係性が分かるのです。

お金はニュートラルなもので、人々の心がお金を通した関係性を生み出します。
ということは、お金のあり方は自分自身の心を振り返る材料になります。

今、アベノミクスの是非が問われていますが、国民一人一人がアベノミクスという政策を通して、社会全体の心を振り返る機会となればよいのだと思っています。アベノミクスは簡単に書けば、通貨の流通量を増やすことで景気を活性化させようとする取り組みですが、そこに自然への配慮は果たしてあるのか?人々にとって何が幸せかについての検証があったのか?そういうことを真剣に考える機会とすることが大切だと思います。

木の花ファミリーの暮らしはそんな視点を持って営まれています。


2014年決算月を迎えました。決算報告書は、社会と僕たちの関係(交流)を現わす数字であり、そこにはたくさんの物語があります。野菜の売上からは畑作業をしているみんなの姿が浮かびます。そして、落花生の売上からは龍姿郎の姿が、お米の売上からは田んぼ隊のみんなの姿が、生はちみつの売上からはいさどんやちなっぴーの姿が、食事の売上からはキッチンスタッフ恵みいただきますに来て下さるお客様に姿が・・・。挙げたらきりがありませんが、こんなふうに一つ一つの数字に物語があり、それは僕たちの心を現わしています。

木の花ファミリーに関わるみんな、そして世界を意識して、決算に臨みたいと思います。


「恵みいただきます」にてみんなで撮った写真です。食事の売上の背後のある姿の一つです。

ティク・ナット・ハンの病と木の花ファミリーの暮らしとお金

ティク・ナット・ハンはベトナム出身の禅僧です。「行動する仏教(Engaged Buddhism)」の命名者で、ベトナム反戦運動を非暴力で貫きました。南軍北軍分け隔てなく両方の兵士を助けることで、両軍から誤解され、命を狙われるというシビアな状況に陥り、ティク・ナット・ハンは亡命を余儀なくされますが、仲間は非暴力を貫き両軍を助け続けたようです。1967年にはキング牧師の推薦でノーベル平和賞候補にもなっています。
現在は南フランスにあるプラムビレッジで暮らしています。そして、気づきの瞑想を実践し世の中に広げています。呼吸と共にあること、呼吸に意識を向けることを大切にしています。

ティク・ナット・ハンは次の時代の仏陀について以下のように述べています。

次の仏陀は人間の姿で現れることはないだろう。次の仏陀はコミュニティの姿で現れるかもしれない。それは他者を理解しようと努め、互いに慈しむ優しさを持ち、大事なことを常に意識しながら、人々が暮らすコミュニティである。これこそ地球の命をつなぐために私たちにできる、最も大事なことではないだろうか

ティク・ナット・ハンは今、プラムビレッジというコミュニティで暮らしています。それは次の時代の仏陀を現わすための実践なのでしょう。そして、それは木の花ファミリーも同様です。上記の言葉は木の花ファミリーが目指し実践していることを現わしています。そのため僕たちはティク・ナット・ハンの存在にずっと親しみを感じていました。

そのティク・ナット・ハンは現在、脳内出血のため入院中で厳しい状態にあるようです。プラムビレッジの僧侶は、マインドフルネス(気づき)の実践(一人一人が目覚めること)により、ティク・ナット・ハンにエネルギーを送って欲しいと求めています。そして、私たちはみんな、一つの大きな身体の細胞なのだから、この瞬間、一人一人が安定し、平和な心で過ごすことが、ティク・ナット・ハンへの一番の支えになると続けています。

一人一人が目覚めることが、お互いを支え合うことになり、遠く離れた人たちにもそのエネルギーは届いていく。心が通じ合っていれば、離れていてもお互いの思いや行動がシンクロしていく。この世界はそのように出来ているのです。

木の花ファミリーでは今、いさどんやようこちゃん、みちよちゃん、まゆちゃんがインドに出張しています。いさどんという精神的支柱がいない中、自分たちでどこまで場を創っていけるのか?また物理的な距離を超えてどこまで心をシンクロさせることが出来るのか?つまり、一つの大きな身体を現わすための実践の機会となりました。

ですが、それは僕たちがまだまだ心の解放や洞察が足りていないという現状を再確認する機会となりました。みんなの思いが響きあわず、なかなか良い場が創れない日が続きました。どうすればよいか?そんなことを模索する日々でした。そんな中、11月26日の大人ミーティングは繋がりを実感出来る時間となりました。



11月26日大人ミーティング後の写真
この日は、ケア滞在者の心のシェアや「僕といさどんと木の花ファミリー」を共有することで、メンバーの中で感動が響きとなって人から人へと伝わっていく時間となりました。そして「繋がること」の大切さを確認し合う時間となりました。そこに別室で書道をしていたまっちゃんが戻ってきました。まっちゃんはなかなか納得がいく作品が書けずにいましたが、とうとう書けたと言うのです。そして、「繋がり」の大切さに気づいたとシェアしました。一文字一文字は上手に書けていたのに、全体としてみたらしっくり来ない。そんな作品を何度が書く中で、字と字との繋がりの大切さに気づいたというのです。そして、それを意識して字を書いた時、心の底から納得がいく作品が出来たのです。まっちゃんの感動がその作品に入り、その作品がみんなを感動させていきました。こんなふうにしてみんなの心が一つになった時、今度はインドにいるようこちゃんからメールが届きました。それは「28日に木の花に帰った時、みんなと心を一つにして迎えたい」とい内容でその場で起きていることとまさに一致していました。「すご~い!」とみんなで感動を共有することが出来ました。

大切なのは、感動する出来事から、それを生んだ要素を学び、持続していくことです。その点はまだ不十分で27日は課題を再確認する時間となりました。

そして、今日、インドからみんなが帰ってきます。大きく成長し大きなうねりを持ってくることは間違いありません。そのうねりに乗れるように。これからが本番で、とっても楽しみです。

この僕たちのエネルギーはティク・ナット・ハンにも届いていくことでしょう。


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こんなふうに心は物理的距離を超えて人と人とを繋いでいき、みんなで一つの身体を表現することを可能とします。それは「木の花ファミリーで金庫番になって・・・・」で描いている世界です。この中で僕はお金を血液と表現していますが、お金は心と同じ機能を持っています。お金は時空を超えて存在し、知らない人同士の交渉を成立させることが出来ます。

「金(かね)」

カタカムナで見ると、「か」はこの世界に遍満する微細な見えないエネルギーです。そして「ね」は「根(ね)」、根源のもの、無限に広がる思念です。つまり「金(かね)」とは、この世界に時空を超えて無限に遍満している微細なエネルギーのことを現わしています。

お金とは何か?

この問いについては、お金とは何か?~「自分のお金」と「みんなのお金」~で書いていますが、
またあらためて別の角度からも書いてみたいと思っています。


すべては自分を映す鏡

天然循環経済学への系譜/二宮尊徳と大原幽学 を読んだ森野さんからメールをいただきました。以下、そのメールを紹介しますね。

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学生時代、ひょんなことで農業経済の教室に出入りすることになったのがきっかけで、農業やその歴史に関心を持ち来ることなっちゃいましたが、専門的な研究をするというよりか、もう少しじぶんに内在する不分明な気持ちに近いところで暇をみながら楽しみ半分で読書したりしてきただけで、あまり語ることもしませんでした。

ましてや、金融再編でいまはなき相互銀行業界で活躍された大内健二さんは、『虜囚』という著作のなかで、

どうも日本人は同じ日本人の言ったことには目をくれない癖がある輸入ものは粗悪品でも上等品だという外国崇拝の考え方が残っている」

と、書かれていますが、それはいつの時代でもそうらしいので、農学や農業の歴史に登場する人物の思想や実践は趣味の範囲にとどめおこうと考えてきたわけです。

それに、ぼくの生まれたのは、かつて那須烏山藩の相模の国の飛び地で、那須烏山で尊徳仕法を手がけて領民を救済した円応和尚らがそこでも仕法を実施しようとし病に倒れることになる(円応を失った尊徳の悲しみはたいそうなものであったそうですが)場所で、阿夫利嶺を望むところでした。尊徳の生地、栢山(かやま)のある足柄平野とは箱根、足柄、丹沢の三方に山をみる地ですが、違う方向から同じ山嶺を望む場所でしたので、どことなく親しみがあり、皮膚感覚的なレベルでの関心でもありました。

最近、少しそういう方面のこともツイしゃべっちゃうようになり、歳のせいかな(笑)。

かつての思想や実践に尋ねる場合、人々は、それを鏡にして自分を写しているんですね。尊徳なら尊徳という鏡にじぶんを写している。

尊徳の一元相対の思想は、戦前なら日本主義的な方向から一生懸命読まれた。敗戦後は民主報徳です。時代時代で、その鏡に写す人は変わり、映る姿も変わるようです。

近世の経済論で有名な、平田篤胤の学統に属する佐藤信淵など、かつては、例えば、羽仁五郎がそこに独自の社会主義があるとして喜んだり、大川周明が、近代を乗り越えた戦時統制経済の預言者と読んでみたり、帝国主義の先駆者だとか、古臭い封建主義だとかいう人がいたり、評価がさまざまというよりは、そこにじぶんを写す人の数だけ佐藤信淵がいたということにすぎないのでしょう。

東アジアの風土で育まれた農法・農業という鏡に外国の方々が自らを写してみて、その姿に「パーマカルチャー」なんて言ってきたのは微笑ましいですね。

じぶんを写して見る鏡はたくさんあったほうがいい。なにしろじぶんというものが最大の謎で課題であるかもしれないですから。たやすくなにかに心酔しがちな精神を昨今、よくみかける気もしますし。

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森野さんからメールからいただくと、そこには自分にあまり馴染みのない言葉があり、思索を巡らすきっかけとなります。


相互銀行という言葉から、無尽会社、そして無尽へと日本の金融の歴史へと思索は巡ります。
無尽とは日本の金融の一形態で、人々や法人が無尽講(むじんこう)もしくは頼母子講(たのもしこう)と呼ばれる相互扶助組織に加入します。そして、加入した人々は、組織に一定額の払い込みをし、その組織の規定に基づいた給付を受けます。日本では鎌倉時代からあるという無尽ですが、明治以後、営業を目的として無尽業者が発生し規模の拡大に伴い、1915年の無尽業法の制定、1951年の相互銀行法の制定と進んでいきました。その後、相互銀行は、相互掛金という独自の金融商品を扱いましたが、1968年の金融機関の合併及び転換に関する法律を受けて、ほとんどの相互銀行は、普通銀行となり、1992年には相互銀行法は廃止されています。
相互銀行はなくなりましたが、沖縄の模合(もあい)など機能している無尽もあり、金融機関から融資を受けられない社会的弱者に対する扶助としても機能しているようです。

無尽には、個人のお金をみんなのお金へ変換する機能があり、人々を繋がる機能があるように思えます。ですが、沖縄以外の多くの地域では衰退してしまっているようです。そこには人々の仲間意識や共有意識などが関係しているのではないかと思います。人の心がシステムを生み出し、心が変わればシステムも変わるものです。相互扶助のシステムが衰退するのは、人々の中でその意識が弱まっていたからだと思われます。日本全体で一人一人がそんな自分たちの心について振り返ることが大切で、木の花ファミリーの暮らしはそんな実践の一つです。

二宮尊徳は宇宙の万物は混沌とした一つの根元に起源し、相対する各々の事象は、独立の存在ではなく、相関連して一つの円相をなすと考えました。相対的に見えるこの世界も、元を辿れば一つとなります。この考えは、木の花ファミリーの世界観、そして昨年出会い学びを深めているカタカムナの世界観とも共通するものです。この世界観に基づき、数多くの農村の復興を果たしたことに素晴らしさを感じますが、大切なのはやはり精神性のようです。
高平市民館福島県南相馬市)のバーチャル報徳講座に「なぜ報徳仕法が続かないのか」という文章が掲載されています。至誠・勤労・分度・推譲。天の意志に従って日常生活を送り、無駄をなくし、余剰分は人に分け与えていく。尊徳が勧める道徳的態度を第一の目標にすることが大切で、それが出来ていないと、経済が豊かになると共に報徳仕法は廃れていくようです。信仰心がとても重要となります。上記の文章では、信仰に基づいて生きている例としてアーミッシュが挙げられていて、とても心に残りました。
どんな暮らしも世界観から切り離れてしまうと、抜け殻のようになってしまうのだと思います。木の花ファミリーの暮らしも、暮らしを維持することが目的なのではなく、世界観を暮らしの中で表現することを目的としています。そして、一人一人が自分を見つめ、心を磨いていくのです。

いろいろ書いて来ましたが、ここで書いていることは、森野さんのいうように僕を映す鏡なのだと思います。起きること、出会うこと、そのすべては自分を映す鏡と言えるでしょう。

鏡については、木の花ファミリーの創立メンバーの一人、古田偉佐美(通称:いさどん)は以下のような話しをみんなにしてくれています。


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鏡は神社の奥に祀られているご神体です。すべての人はお互いを映し合う鏡です。ということは、すべての人がご神体ということです。「鏡(かがみ)」という字は真ん中に「我(が)」という字が入っていますが、この「我(が)」を取ると「神(かみ)」となります。相手に映る自分の姿を見て自分の「我(が)」を知ることが出来ます。「我(が)」を知ると、それを取り除くことも出来るようになります。心を磨き「我(が)」を取り除くと「神(かみ)」となり、そこには宇宙の秩序が映るようになります。内なる鏡に宇宙の秩序を映し合う時、すべては繋がり一つになっていくのです。

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鏡(心鏡)は太陽を象徴していると言われています。
すべては一人一人を映し出す鏡です。語る言葉はその人自身を現わしています。そして、一人一人の人間は主観を持ちます。相対主義の立場からすると、このことから絶対的な真理はないという結論に至るかと思います。ですが、「鏡(かがみ)」は「我(が)」を取ると「神(かみ)」となります。「神(かみ)」となった「鏡(かがみ)」が映し出す世界は、現象世界の背後にある絶対的真理を映し出します。二宮尊徳もカタカムナも木の花ファミリーもそんな世界観を持っています。
大切なのは、今、この瞬間何を感じ、どんな判断を下していくかにあると思います。その際、歴史を振り返っておくと、現在を俯瞰してみることが出来るようになります。過去から未来に向けての大いなる流れ。それを感じることが出来るようになるのです。


10月に開催された木の花塾で語っているいさどん

カタカムナの潜象界と二宮尊徳の一元は同じことを言っていると思われます。
木の花ファミリーではその世界観を「農」に生かし天然循環法と名付けました。
そして、それを日常生活にも広げ、実践しています。
そんな話を聴きたい人は是非、11月30日に千葉市にお越しください。
出張木の花塾@千葉「すべては響き~宇宙視点の農」が開催されます。
今、インドに出張中の塾長いさどんがパワーアップして帰ってきます。




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