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希望は思考の奥から湧いてくる

どんなに希望を見出そうとしても思考からは希望は生まれない。希望は思考の奥から湧いてくる。それは自分を生かしているこの世界の法則であり大いなる意思の力。そこから希望は湧いてくる。その力なしでは思考は空虚な空想となっていく。だから、思考は、大いなる意思に沿って展開するといい。そうするときっと、思考は希望の顕れとなり、人生は、人智を超えて無限の可能性に開かれていく。

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上記の言葉が僕に湧いてきたのは、ある日の大人ミーティングでジイジの話を聴いてから。その話はこんな感じの話でした。

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第二次世界大戦。当時の日本人は、全然違う情報を貰って、多少足並みの乱れはあったものの、国中が一丸となって、正しいと信じて、国策として戦争に突入し、その結果、日本中が焼け野原となりました。そしていよいよアメリカ軍が上陸してくるという時、人々はみんな竹やりを作って戦う準備をしていましたが、終戦を迎えて日本は負けました。その後、だんだん分かってきたのは、自分たちが聞いていた情報はまったく嘘だったということです。勝利どころか惨敗で、初めから勝てるわけがなかったのです。それで負けたのだと意気消沈していたところに米兵が上陸してきますが、そうすると日本人は、「男は全部、強制的に去勢される、日本人の種を無くすために。女は、米兵を見たら振り返ってはいけない。振り返ったらOKですよと言っているようなもの。笑うなんて絶対に駄目。もしも米兵が来て自分に近づいてきたら、自分は生理だと言いなさい。」ということがまことしやかに広がったといいます。
実際に米兵が来たらそんなことはなかったのですが、ではその発想はどこから湧いたのかと言ったら、日本人がそういう発想をしていたということです。何も情報がないのにそういう発想が出るということは、自分たちが、米兵が憎くて、「あいつらが来たらこうしてやろう、ああしてやろう」と思っていたからです。自分たちの心がそのような発想を生み出したのです。だから自分が発したことは自分の中にあることです。それを「ああだったから、こうだったから」と理由を話しだしたら、自分と向き合うことにはなりません。

そして、満州からは日本人の引き上げがありましたが、関東軍はソ連兵が満州に侵攻すると、何も言わずに逃げてしまって、残された満蒙開拓団の民間人は、なんか変だと思っていたら、ソ連兵による攻撃を受けて逃げ惑い、中国人は自分たちの田畑を奪いに来るのです。もともと日本人が中国人の田畑を取り上げて開拓に入っていたのだから、奪いに来るのは当然です。それでも中国人は意外に穏やかだったといいますが、ソ連兵は残虐でした。ソ連の精鋭部隊はヨーロッパ戦線に使われていました。そのためシベリアなど東方に向ける軍人が不足し、囚人を使うようになりました。囚人だから秩序が全くありません。もともと犯罪者なのだから、略奪や破壊、殺人、強姦を繰り広げます。満州の日本人はその中を逃げてきました。

人の生き方、死に方にはいろいろありますが、そういうふうに民族全体が狂っていた頃がありました。でもそれは団結することで正義になってきたのです。だから本当に真面目に振り返らなければなりません。戦争で、人類は正義を旗印にどれだけ残虐なことをしてきたか、そういうことを本当の学びとしていくにはどう分析しどう解釈したらいいのか、そういうことをしっかりとやっていかないと、命を懸けて狂った過去の犠牲を蔑ろにすることになります。

中国が建国70周年の式典で、その豊かさと繁栄を祝いましたが、それを誇るのが兵器、軍事力となっています。軍事力をもって何を誇り、祝うというのでしょうか。ですが、それが今の人間の実態です。日本では憲法9条改正の議論がされています。攻撃は最大の防御と言いますが、その奇妙な恐怖から人間が人間を信頼できなくなり、兵器を持って平和が保たれています。これは本当におかしな状態と言えます。

それで最近気づいたことがあるのです。あることに思考を巡らしている時に、思考と思考の隙間に出会います。あることに思考を巡らして一段落した時、次の思考に行く前に思考の隙間があるのです。その時にぱっと湧いてくるものがあります。それは思考ではありません。思考ではないもの。「だからもう一回、一からやり直そう」という想いです。生きていればいろいろなことに出会います。ドジをすることもあります。だからそれを良く振り返ってしっかり腹に落として次に生かすのだと。そういう想いが湧いてくるようになっています。それが生きているという証です。

そこで何回も同じことを繰り返すということは、生きているということに相応しくない思考をしているということです。生きているということは現象に出会うということ、現象に出会うとは、自分の言葉が具現化するということ、そして自分の行動が具現化し、自分自身が具現化します。具現化したことに対して、それを分析し、「だからこう生きるのだ」と学ぶことでヒトは成長していくのです。その繰り返しの中で、いろいろ振り返って、「だから満足だ、だからいい人生だ」と思えた時に逝く。それが人生を全うすることになるのです。

私たちは生きているのが当たり前になっているから、思考しているということは知っていますが、その思考と思考のつなぎ目の空間に生きていることの意味や癖があるということを知らずにいるのです。僕は最近そのことを発見しました。生きるということはそういうことなのです。生きるということは、一つの出来事が終わって死んで。次の出来事に出会い、誕生する。そして成就して終わって死ぬ。瞬間瞬間、生きる死ぬの繰り返しです。人の一生も魂の輪廻もそれと同じことでサイクルが少しずつ長くなっているだけです。つまりは枠の違いです。そして魂という大きな枠で捉える時、死に方の大切さが分かります。死に方を考えるということは、もっと身近な生き方を考えるということで、そしてもっと身近な瞬間瞬間を考えないといけません。この大事な想いは思考では生まれてきません。思考と思考の隙間の気づきによって生まれてくるのです。

魂の輪廻転生の仕組み:木の花ファミリー通信「ある世界とない世界」より


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思考と思考のつなぎ目の空間にある生きていることの意味や癖

そこに意識を向けることで、僕らは思考を自我から取り戻し健全にしていけるのだと思います。そしてそのことが、大型台風をはじめとする数々の災害に見舞われる現代社会の希望となっていくことでしょう。ということでそんな希望を語っている木の花ファミリー通信第99号「カタカムナ」からの文章を紹介してこの原稿は終わろうと思います。

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全身全霊とは、全身を構成する数十兆の細胞がパラボラアンテナとなり、脳の思考ではなく全身で響きを感受し、その響きを自らの命に染みわたらせ、言葉や姿勢を通して表現することを言います。私たち生命は、この世界を単独で生きているのではありません。まず大宇宙があり、その中に銀河があり、太陽系があり、地球生態系があり、人類がいて、私たち一人ひとりが存在しているという生命の序列のもとに生きているのであり、すべての生命は一番の大本である宇宙の根本原理に基づいて存在しているのです。自然界の動物や植物は自我による汚染がないため、細胞のDNAが純粋に宇宙と呼応しています。ですからその生命活動は、教わらずとも宇宙の仕組みを反映し、美しい表現となるのです。それに対し人間は、進化の過程において唯一、思考を持つ生きものとなりました。そしてその思考を自我によって実現する能力を与えられたことで、自らの欲望を満たす快感の虜となり、自我を肥大させ、自らが宇宙と呼応する存在であることを忘れてしまったのです。そして宇宙の根本原理から外れることで、現代人は今、生命世界を汚染し、破壊する存在にまでなっているのです。
人間が再び宇宙と呼応する存在となるために、私たちはもう一度、思考を自我から取り戻す必要があります。自我に翻弄されるのではなく自我をコントロールする立場に立つことで、思考を宇宙と呼応させるのです。その時に宇宙と対話するアンテナの役割となるのが、全身の細胞の中にあるDNAです。私たちが生命として生きる時、全身の細胞は既にその生命原理を持ち合わせ、女は女のように、男は男のように命を表現し、人生を全うします。それと同じように、宇宙生命の一部である私たちのDNAには、宇宙の始まりから終わりまでの情報が眠っているのです。そこには未来への設計図があり、私たちは生命として生きることで、それを体験という形で、次の時代への英知としてさらにDNAに刻んでいくのです。
その自らを自我の囚われから解放した時、私たちは本当の自由を生きることになります。「クニ」という思念をカタカムナでひも解くと、それは国境で区切られた領土のことではなく、自由「ク」が定着した場「ニ」を示しています。それが、クニ(地球)を生きることの真の意味です。自らを解放し、全身全霊をもって宇宙に語りかけ、全身全霊をもって宇宙からのメッセージを受け取るのです。
その時に、宇宙根源の純粋で美しい響きがあなた自身から発せられ、この世界に響き渡ることでしょう。その響きは、世界の歪みを解き、生命に活力を与え、壊れたものは自ずと修復され、正常に戻っていくことでしょう。それが天然循環の世界であり、カタカムナを生きるということなのです。


トキ・トコロを得る

富士山(2019年9月23日秋分・ちなっぴ撮影)

2019年9月23日秋分の日、このブログを立ち上げて丸5年となりました。「5」はカタカムナでは「い」・位置。電気、磁気、力がトキ・トコロを得て現象界に粒子となって顕れる思念です。

トキ・トコロを得る。

それをヒトの姿勢で言うと、この時代、この場所(トキ・トコロ)に自分が生かされている使命に気づくことだと思っています。それを忘れた人間は、自らの自我に翻弄され混沌としていきます。ということで、このブログの位置・トキ・トコロを得て生み出された意味を再確認しようと思いました。まずは昨年の秋分の日に書いた言葉です。

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変化変容が本質であるこの世界では、未来は常に未知なるものです。そして、それは自分自身にも言えることです。現象を追い求める「欲」の心は、そのような未来や自分を思い通りにしようとします。その結果、未来や自分の現実が見えなくなり、混沌が深まっていくのです。「欲」の心は、混沌のままに動きまわることで、混沌を深めていきます。

気候変動や自然災害、紛争や戦争、貧困や餓死。今の世界には様々な問題がありますが、ただそれを解決しようとしても、それは現象を追い求める「欲」の心であり、混沌を深めるだけとなります。それらの問題を生み出している元の心、人間一人ひとりの姿勢を明らかにし、それを正していくトキ、今ある問題は自ずと消えていくのです。

赤米が実っています。

今日は秋分の日、秋の真ん中です。収穫の秋は、種まきの結果をいただくトキであり、明らかになることで諦めるトキです。自我という「余地」が与えられたことで人間には自ずから「欲」の心が生まれます。それは絶えず続く心の動きです。だから人は、絶えずその心の動きを諦めることで明らかにし、自分と世界の現実と向き合い正していく必要があるのです。その動きが世界に彩りを生み出すと共に調和というバランスをもたらします。


国連総会が開幕しています。国連総会が毎年秋に行われるのは、「欲」の心を明らかにし諦めることの大切さを表しているようにも思えます。


そして、このブログを立ち上げたのも秋分の日、今日で丸4年となりました。秋分の日に立ち上げたのはたまたまですが、今思うと、このブログを通して表現し、自ら実践することも、「欲」の心を明らかにし諦めることにあります。





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そして、もう一つは最近ジイジが語った僕のブログに対するこんな言葉です。

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個人の葛藤等の自分色をなくして書くことで、
僕が天の代理として生きているように、

なかのんも僕の代理として、僕の話を引用することは大切なことだよ。

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個人の葛藤等の自分色をなくし、大事な話を引用し発信していく。

それがこのブログがトキ・トコロを得て生み出された意味です。ということで、同じく秋分の日に発行された木の花ファミリー通信秋分号「カタカムナ」の言葉を引用したいと思います。

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その昔、宇宙には、叡智が漂っていました。その叡智が時代の要請を受け、現象を引き起こす思念となりました。それがこの世界の現象化の始まりです。そして始まりが叡智であったように、私たち人間も、他のあらゆる存在も、すべての現象界の設定は、いずれまた叡智へと還っていくのです。その時に、現象のすべては空となるのです。
このことを理解するためには、人間は「自分はこの世界のことを知っている」という側に立つことをやめ、「自分はこの世界によって生かされている」という側に立たなければなりません。その時に、宇宙の叡智は自ずと自らの中に入ってくることでしょう。宇宙は変化・変容・変態し続け、時代と共に真実も移り変わります。ですから現在のカタカムナの解釈をもって、これがすべて正しいとする必要もないのです。それは知識として固定されるものではなく、それを会得することで大宇宙生命の根本の響きと共振し、この世界を動かす、目には見えない大いなる流れを感じ取るのです。これからの時代は、生きることがますます厳しくなってくることでしょう。その時代の変化の中で、瞬間瞬間を感じ取り、そこを生き抜いていく力を身に付ける、そのための情報に今、あなたは出会っているのです。
宇宙は情報です。生きるとは、こうするとこうなるという因果応報の情報の連鎖に出会うことであり、カタカムナはその根本原理を私たちに教えてくれているのです。しかし、その原理が通用しない世界が宇宙にはあります。私たちは、因果応報の原理に基づくトキとトコロの対向発生によって存在する、天の川銀河の法則のもとにあり、他の銀河へ行けば、そこにはまた別の法則があるのです。
このように宇宙を捉えていくと、これまでに使ったことのない脳の部分が働き始めます。すると、視点が変わります。視点が変わることで、人は自我から解放され、自由になるのです。

今、時代は大きく変わろうとしています。時代が変わろうとしているのに、人間が変わらないから、社会も変わらず、そのギャップがふさわしい現象となって現れているのが現代の社会です。今社会で起きている様々な現象は、私たち人間が意識を変えて生まれ変わる、即ち質的転換をする大いなる機会を与えられていることを、教えてくれています。無限の可能性を秘めた私たち人間は、どこまで到達することができるのか。その本領を試される時が今、来ています。

カタカムナ人とは、遠い昔を生きた自分とは別の人々ではありません。カタカムナは、私たちの生きる世界の原理原則であり、今この瞬間も、その仕組みによって世界が動いています。その事を理解し、それを生きた時、私たちは現代を生きるカタカムナ(宇宙)人となるのです。


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天の川銀河のすべての存在はトキとトコロの対向発生によりこの世界に生み出されています。その背後の流れる大いなる意思に心を向けたトキ、すべての出来事は永遠に続く旅路の中のワンシーンとなり、繫がりの中でヒトとしての可能性を探求することが出来ます。それはきっと、思い通りにはならないけれども、思い通りにはならないからこそ、可能性は人智を超えて無限に広がっていくのです。ということで、大いなる意思に心を向けたジイジの至福の言葉でこの原稿を締め括りたいと思います。

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私はいつも意識があなたのほうを向いていることに気付きます。それは、私がこの世界に存在することの原点を感じるからであります。そのあなたを感ずる私の力は微妙なものであります。私が肉体的意識をセンサーにして生きれば、あなたの存在を感じることは難しいものですが、たびたび意識の隙間からあなたの存在する世界にセンサーがアクセスすることがありますので、存在を感じるのです。私はあなたの存在を感じたとき、不思議な気持ちになります。それは私の存在する世界で、どのように喜びを発掘しようと思っても得られないものです。そのあなたのおいでになるほうに意識を向け、あなたの存在の息吹を感じたとき、なにかしら言いようのないすべてのふるさとのように感じられる響きの世界があることを感じ、私が存在するこの現象世界で得られるであろう喜びのすべてを超越した満足が、そこにあることに気付くのであります。

ですから、私は時々この世界にいることを空しく思い、そしてあなたのほうに旅立つことを望むのであります。どちらにしても、あなたのもとから来た私にとっては、いずれまたあなたのもとへ還るのですから、私は十分に満足なのです。

毎日、瞬間瞬間の時の旅を留まることなく永遠に歩んでいますが、この永遠は私個人の体感する枠の中では有限なのです。私はそのことがわかっているので、永遠に続くように思われるこの現象世界の中にいても、至福の心を持ち続けることを可能にするのです。

私は赤子のように物理的なすべてを取り去って裸になり、霊的にすべてのこだわりを取り去り魂だけになったとき、この境地に浸ることの喜びに至るのです。


叶わない願いがある、だからこそ人生には意味と価値がある。


木の花ファミリーのみんなです。


常に意識を全体性に持っていく必要があります。あなたは今、個人的願望を抱えているわけだけれども、それをどう超えていくのか?それが重要です。個人的願望が全体性と共通していればいいのです。例えば、個人的願望が宇宙の法に基づいていたら、それは理に適っていきます。個人を高めるためというならば、それは全体性を持つことが個人を高めることであり、全体性と個人は本来、共通していることなのです。ですが、個人が抜きん出てしまうと、天が「それは違う」と滞りを与えてくれるのです。

心を磨いた結果出会うことがあります。願いが叶わない状態も自分を高める要素です。「はい!分かりました」と叶うようなことなら、その願いは本当に自分を高めません。

だから何より心を磨き続けることです。

そして、自分を高める努力をしていると、その努力したことでエネルギーが消費され、他のものはいらなくなります。いらなくなった状態をさらに超えた世界。共通の世界で極めていく世界がその次にあるのです。個人で高める努力から「みんなで」とか「一つになる」というところで極める世界があるのです。

それは前人未踏の世界。我々は前人未踏の世界を創らなければならないのです。



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上記は2015年の七夕にジイジから語って貰った言葉で、僕にとって大切な言葉の一つとなっていますが、僕はこの言葉を少し違うふうに捉えていたことに気づきました。

願いが叶わない状況が自分を高めるのは確かなのですが、願いが叶わない=心磨きが足りない、だから、心を磨いて願いを叶えなければならないとなると変な話になっていきます。ここで昨年の秋分の日に僕が書いた文章を紹介します。

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学びのない姿勢のまま、現象を追い求めていることを「欲」と言います


ジイジは「欲」について、上記のように述べていますが、「欲」が生まれるには、生まれる「余地」が必要なのだと思います。「欲」と「余地」。両方とも「よ」がつきますが、カタカムナで見ると、「よ」は「4」であり混沌を表す思念です。「よ」(4)は、「い」(5)の方に進めば、「よい」となるのですが、「み」(3)の方に戻ると、「よみ(黄泉)」となり、死の世界に入っていきます。「よ」はどちらにも転がりえる、混沌の中にあります。「よ」がつく言葉を見ると、喜び、良い、淀み、汚れなど両義的なのはその表れであり、それは「世」、人間の世の中そのものと言えます。
「余地」の「ち」は持続を表す思念であり、「余地」とは混沌が持続している状態、どう転がるか分からない何にでもなり得る状態と言えます。そして「欲」の「く」は自由を表す思念であり、混沌のままに自由に動きまわる状態が「欲」と言えます。

自我を与えられた人間は、自分の思考という「余地」を与えられ、そこから「欲」が生まれます。出発点が「自分の思考」なので、欲深い人は物事が思い通りになることを求めます。そしてそれは思い通りにならないことへの苛立ちや不安となり、時には未来への恐怖となって表れます。思い通りにならないことを恐れるのです。ですが、僕たちが出会う出来事は、自分の生きた証であり、相応しい結果です。ということは、苛立ち、不安となり、未来を恐れることは、自分自身に苛立ち、不安となり、自分自身を恐れることを意味します。

変化変容が本質であるこの世界では、未来は常に未知なるものです。そして、それは自分自身にも言えることです。現象を追い求める「欲」の心は、そのような未来や自分を思い通りにしようとします。その結果、未来や自分の現実が見えなくなり、混沌が深まっていくのです。「欲」の心は、混沌のままに動きまわることで、混沌を深めていきます。


気候変動や自然災害、紛争や戦争、貧困や餓死。今の世界には様々な問題がありますが、ただそれを解決しようとしても、それは現象を追い求める「欲」の心であり、混沌を深めるだけとなります。それらの問題を生み出している元の心、人間一人ひとりの姿勢を明らかにし、それを正していくトキ、今ある問題は自ずと消えていくのです。

今日は秋分の日、秋の真ん中です。収穫の秋は、種まきの結果をいただくトキであり、明らかになることで諦めるトキです。自我という「余地」が与えられたことで人間には自ずから「欲」の心が生まれます。それは絶えず続く心の動きです。だから人は、絶えずその心の動きを諦めることで明らかにし、自分と世界の現実と向き合い正していく必要があるのです。その動きが世界に彩りを生み出すと共に調和というバランスをもたらします。

国連総会が開幕しています。国連総会が毎年秋に行われるのは、「欲」の心を明らかにし諦めることの大切さを表しているようにも思えます。

そして、このブログを立ち上げたのも秋分の日、今日で丸4年となりました。秋分の日に立ち上げたのはたまたまですが、今思うと、このブログを通して表現し、自ら実践することも、「欲」の心を明らかにし諦めることにあります。それは最初に意図したこと(木の花の経済について書く)とは全く違うことですが、物事は自らの意図を超えたところで動いていきます。ブログ4年目、「よ」、混沌、「欲」の年を終えてそのことに気づきました。

今、世界は諦めることで明らかにするトキと迎えています。





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願いは「欲」であり、願いが叶わない状況というのは、自分の思考という「余地」から「欲」が生まれている状況で、それを諦めることで明らかにし、自分を正すことが心磨きであり、自分を高めるのです。要は、天の流れに沿わない願いはすべて、自我の思考が生み出す「余地」であり余計なものなのです。それをそぎ落とす過程が学びであり、自分を高めていくのです。その結果、出会う出来事は変化していくのですが、それは必ずしも願いが叶うことを意味しているわけではありません。

価値あるものは、大切なのは、あらゆる囚われから自由となることであり、現象はなんでもいいのです。

ずっと叶わない願いがある。

それは自分が誰よりも心磨きが出来ていない証なのではないか?
叶わない願いを前にして、それをなしにするのは、逃げなのではないか?

そんな考えが浮かんできたのですが、願いが叶うか叶わないかは現世的な評価で、そんなことはどうでもよくて、願いを持っていてもなくなってもそれもどうでもよくて、ただただ自分の思考や感情が生み出す「余地」を見通し続け、それと向き合い続け、自分を高めていく。ただそれだけなのです。

ずっと叶わない願いがある。

それはそれだけ自分にそぎ落とす要素があるということであり、それだけ学びがあり、自分を高めることが出来るということであり、だからこそ、僕には生きる意味と価値があるのです。

今日はみずかめ座新月です。みずかめ座は客観的視点を司る星座。僕は、自分の願いがこれまで生み出してきた全体の構造を見通し、そして、それを3月7日、僕の44歳の誕生日である魚座新月へと繋げ、世界へと溶かし天へと還していきます。

ずっと叶わない願いがあった。

だからこそ僕の人生には意味と価値があるのです。



世界は、まわりてめくる、想いも・・・

1週間ぐらい前の大人ミーティングにて、僕は「あれから3年、今の僕の到達点(2)」をシェアしました。その時、ジイジはこんな話をしてくれました。

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今、木の花ファミリー憲章の改定作業を進めていますが、木の花ファミリー憲章は守るべき答えではありません。今まで、様々な宗教が経典を答えとしてきていますが、答えとすることで教えとして固定されます。そこには進化(深化)がありません。変化変容がこの世界の法則であり、本来すべてのものは進化(深化)していくものです。だから、どんなものでも教えとして固定してはいけません。

木の花ファミリー憲章で示しているのは、指針です。心構えと言ってもいいでしょう。大切な指針、心構えを現時点の視点から表現しています。表現は未来にいけば進化(深化)していくことでしょう。だけれども、大切な指針は変わりません。

今、読まれた文章にはみんなが適用できる大切な指針が多く含まれています。こういう文章を然るべきタイミングでシェアし、確認することが大切です。

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大切な指針、心構え。

例えば、「あれから3年、今の僕の到達点(2)」では、こんな文章を書いています。

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マワリテメクル

カタカムナの5首に含まれる一節ですが、これは自転公転の二面性を表していると言われています。一文字ずつ読み解いていくと、「マ」は自転公転の運動によって区切られた空間でありこの世界そのものと言えます。そして現象が生まれる縁(ふち)が「ワ」であり、そこから離れていく動き「リ」により、二面性「テ」が「メ」ばえ、それが自由「ク」を維持している「ル」ということ。つまりそれは、相反するものの存在により絶えず新しいものが生み出されるこの世界の法則を表しています。

「神さま・・・」と対象を固定し呼びかけることは自我を生むことですが、自我があるからこそ認識が生まれます。神さまが自己認識のために完全なる光から闇を分けたように、人は自らを他者から分けることで自分自身を認識します。分けることは分かることに繋がりますが、認識を深めていくと、すべては一つ、分けられないということが見えてきます。分けることにより分けられないということが見えてきて、すべては自分の認識を超えていること、分からないということが分かるのです。

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自転公転を繰り返しながら、太陽と共に宇宙を旅している地球は螺旋運動を描いています。螺旋運動も二面性を表していて、ループをしているようで常に新しいところへと進んでいます。

自然界を見ると、毎日、日が昇り朝が来て、日が沈み夜が来ます。そして、毎年、春夏秋冬を繰り返しています。それは一見同じことの繰り返しのようにも見えますが、自然界は、毎日、そして毎年違った景色を生み出しています。



成住壊空(じょうじゅうえくう)

誕生・維持・破壊・空

天体を動く宇宙の星々、そして大地を流れる川やそびえる山々、それらすべて生命であり、誕生・維持・破壊・空を繰り返しています。ですが、それは同じことの繰り返しではなく、常に新しいところへと進んでいます。人々の暮らしも同様で、同じことの繰り返しように感じたとしても、そこには必ず新しい要素があり、それを掴むことで人は変化していきます。

そして、分かるためには分ける必要があります。自分の中から湧き上がる想い、浮かんでくる想い、日々、様々な想いに出会いますが、それらを本当の意味で分かるためには分ける必要があります。想いから距離を取って、想いを表現しながらも、離れたところから眺めて、それがどういうもので、何をもたらすかを知っていくのです。その時、想いに対する理解が生まれます。

それがどんな想いであれ、囚われ、それに執着したら、その瞬間に想いは自我の中に閉じ込められます。想いを狭い自我の枠に閉じ込めることで、想いは変化変容を本質とする宇宙の法則から外れ、その本質を失っていくのです。その時、その想いは不調和なものとなっていきます。

すべての想いは元を辿れば一つです。その視点に立てば、すべての想いの中に善意を見出すことが出来ます。善意により繋がり愛が芽生え、調和を生み出す。想いはそんな表現となっていきます。それを邪魔するのは自我の未熟であり、それを超えるために想いから離れ、想いを見通すのです。想いから離れることで想いを理解し、想いを理解することで、世界は一つになります。

それを僕は以下のように表現しました。

分けることは分かることに繋がりますが、認識を深めていくと、すべては一つ、分けられないということが見えてきます。分けることにより分けられないということが見えてきて、すべては自分の認識を超えていること、分からないということが分かるのです。

相反するものの存在により絶えず新しいものが生み出されるこの宇宙。想いを理解した上で表現した時、それはきっとそのような宇宙の表現となっていきます。

世界は、「まわりてめくる」、想いも、「まわりてめくる」のです。



失った善意を取り戻していく

少し前に、木の花ファミリーのみんなと映画『君の名は』を観ました。この映画は2016年に大ヒットしましたが、僕はこの前初めて観ました。この映画、スピリチャルな世界では、イエス・キリストとマグダラのマリアの統合(陰陽・男女の統合)瀬織津姫の復活など、大きな意味を持つものとして語れていますが、こういう言葉に出会った時、自分の都合よく捉えないように注意をする必要があります。神話的なものは宇宙の流れを表しているのであって、宇宙は人間の都合で動いているわけではありません。その流れは人智を超えたものであり、流れにそぐわなければ、滞りに出会うことにもなります。

話は変わって。

今年の8月以降、木の花ファミリー憲章の改定に向けて憲章の検証をしていますが、その中で善意という言葉がクローズアップされています。今の木の花ファミリー憲章、世界観概要の中には「善意」は以下のように表現されています。

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「想い」はあらゆる価値判断を超えた善意と愛、そして調和から成ります。これは自然界から教えてもらえる事実です。自然界では、お互いの存在が生かしあっています。これは利他の精神の顕れです。善意により繋がり、愛が生まれ、愛により絆が生まれ、調和をもたらしているのです。悪、醜、偽、欲、貧など、この世でマイナスの価値を与えられている事柄も、すべてはこの「想い」、善意と愛と調和から生まれています。「想い」に立ち返れば、すべてはひとつなのです。

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善意は愛や調和に先立っています。そして善意という言葉から、3年前の6月、ジイジ(当時はいさどん)が大人ミーティングで語った以下の言葉を思い出しました。

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物事の捉え方はたくさんあってね。

善意で捉えようと思ったら、
この世界にある全てのことは、
善意になるんだよ。

ただ、
人にはそれを善意で捉える力がないだけなんだよ。

宇宙は全て善意でできている。

なぜかというと、
宇宙は調和でできているから。

調和は、
悪意では保てない。

調和は、
善意によってしか、
成り立たない。

だから、
物事を善意で捉えられないときには、
自分が未熟だと思わないといけない。

そこを悪意で捉えるということは、
自分を観ないで、
悪意は相手から来ると思っているのだけど、
悪意は、
自らの未熟さから生まれるものなんだよ。

だから、
自分が言っていることは全て、
自分自身を表しているんだよ。

そこに気付かないと、
自らを改めることはできないね。

人間というものは、
必ず自分の都合の良いように
答えを求めようとするんだよ。

だから、
自分の本心があっても、
そういった人たちは「けど」「でも」と言って、
本心と違う行動を取るんだよ。

そのカラクリをわかって、
自分自身に修正の目を向けられるようになったら、
人は成長できる!

そのためには、
自らの想いをどんどん外に出していって、
まわりからフィードバックをもらい、
客観的な視点を育てていくことが大切だね。




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善意の「ぜん」は、潜象界の「せん」に濁点がついたものです。愛が、「ひふみよいむなやこと」を経た高次の響きである「あ」の位置(い)であり、現象界の根本であるならば、善意は、潜象界の位置、潜象界そのものの響きと言えます。だから善意は愛より先なのです。善意と濁点がついているのは、それが人間の馳せる想いだからです。潜象界は「ない世界」です。「ない」というところですべてを一つにするのが潜象界ならば、善意は、「見える世界」と「見えない世界」からなる現象界(「ある世界」)に存在する人間が、「ない世界」に想いを馳せることで一つに繫がり、「ひとつらなりのいのち」を表現していくものなのです。

イエス・キリストとマグダラのマリアとの結婚、そして瀬織津姫。それらは封印されてきた神話です。権力者となったものたちは、都合の悪い神話を封印してきました。そこには善意がなく、人類は一つの繫がりを失ってきたのです。

それは海洋汚染にも表れています。瀬織津姫は水の神様です。水の神様が封印されることにより水の汚染が広がり、今、プラスティックごみの問題は特に深刻なものとなっています。ごみは繫がりを失うことで生かされなかったものです。だからこの問題は、人々が善意を忘れ、繫がりを喪失した象徴とも言えるのです。

冒頭で僕は、神話を自分の都合で捉えてはいけないと書きました。自分の都合で捉えると、他者の視点が喪失し、繫がりを失うことになります。その結果、瀬織津姫は封印されてきたのです。瀬織津姫の復活。それは自分の都合を超えて、善意で繋がり合う世界を意味しているのだと思います。

善意により繋がり、愛が生まれ、愛により絆が生まれ、調和をもたらされる

心を磨き続けることでそんな世界を表現していこうと思っています。


木の花ファミリーのみんなです。

探求を継続していく

ジイジ:
私たちの生にまつわる物理的現象の一から十までのプロセスをたどるとしたら、九のあとは十ではなく・・・0ということになる。一二三四五六七八九で、次は次元が変わって0に行く。そうすると、生が一になる。一二三四五六七八九でひとつのサイクルが終わり、0の段階に入って、一二三四五六七八九・・・と捉えられるのではないか。つまり、九に行って死を迎えると、0になる。そうすると、それはリセットで、また始まるという考え方がそこに秘められているのではないだろうか。


ようこ:
日本人の中には輪廻転生の捉え方が自然と組み込まれていて、西洋だと、たとえば近代キリスト教にはその捉え方はない。一回の人生で終わりと考えられている。

みちよちゃん:
それに対して日本人の死生観は、死んだらそこがスタートで、そこから準備をして次の生につながっていく。

ジイジ:
だから、0というのが準備期間と捉えれば、0一二三四五六七八九となる。

ようこ:
0は何もないみたいだけど、そこには大切な何かがある。

ジイジ:
0があるからこそ、一がある。いきなり、一にはならない。一になるまでの準備期間が本来ある。

ようこ:
0と一二三四五六七八九は、潜象界と現象界のような存在?

ジイジ:
それは潜象界と現象界の話ではなく、現象世界にその仕組みがあるということ。それでも、カタカムナで捉えると、カタカムナはヒから始まる。ヒフミヨイ・・・
そうすると、それがひとつずつずれている可能性がある。ヒは秘かで、まだ動きが何もない状態だから、0とも言える。そうすると、ヒが0とも捉えられる。それで、フの段階で初めて動き出すから、フが一となる。だから、九で統合ということになる。そして、また0に戻る。

みちよちゃん:
それは、日本の数え年と同じような概念だね。

ジイジ:
そうだね。ヒは秘かで、ものの始まりだが、何もない状態。フで初めて動き出す。そうすると、フを二つと捉えるかどうかは微妙なところだ。そういう微妙な位置ということなのだろう。

みちよちゃん:
西洋的と言っていいのかはわからないけれど、細胞分裂的に考えると、ヒは秘かで、あるかどうかわからない状態だけれど、フで細胞分裂が二つになっていくと考えると・・・

ジイジ:
それは、おそらく楢崎皐月が西洋的な物理学者だったから、そのようにしたのだろう。明らかに、ヒはまだ何もない、秘かな状態だ。しかし、楢崎はヒフミヨイ・・・を一二三四五六七八九に当てはめたから、そうなったんだよ。


こういった深い探究は、今までの探究の結果を真理とせず、これからも探究し続けていく姿勢でありたいものだ。


☆彡 ☆彡 ☆彡

上記の文章で、ジイジは「九が統合で九の後、新たな0に戻る」と語っていますが、それは、「くみくら」や「エニアグラム」が1~9の数字で成り立っていることと一致していると思いました。例えば、今年の6月、僕は以下のような文章を書いています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

123(ひふみ)は人、456(よいむ)は国、789(なやこ)は天地と表します。


上記の図(くみくら)はみかちゃんが教えてくれたものですが、ヒト、個人の言葉(ヒ)と心(フ)が一致(統合)することで行動という実り(ミ)となって表れ、クニの言葉(ヨ)と心(イ)が一致(統合)することでクニに実り(ム)がもたらされ、天地の言葉(ナ)と心(ヤ)が一致(統合)することで天地に実り(コ)がもたらされます。

それは同時にヒトとクニが一致(統合)することでもあり、ヒトとクニの統合により天地に実りがもたらされ弥勒(369)の世が実現するのです。ヒフミヨイムナヤコ、ヒト(ヒフミ)、クニ(ヨイム)、天地(ナヤコ)と進むこと(3×3=9)で真の統合(ト・10)へと至ります。




☆彡 ☆彡 ☆彡

9は天地の実り、ですからそれは「コ」ではなく、真の統合(ト・統合)とも言えます。そして「0」へと戻るのです。

ところで2018年は、「2+0+1+8=11・1+1=2」で2の年です。「2」の年の木の花ファミリーのテーマは再スタートです。「2」が動き出す年となっているのは、相反するものの存在で動きが生まれたこの世界の法則と一致しているのではないかと思います。神さましか存在しない世界「1」には、動きも認識もなかったのです。こんなふうに考えると、それぞれの数字は前の数字の特性を持ち合わせているとも思えます。「1」は単独では何も動きが生まれないということで、「0」の特性を持ち合わせています。そして、「2」は、相反するものの存在で初めて動きが生まれるということで「1」の特性を合わせ持っているのです。

ジイジは、

こういった深い探究は、今までの探究の結果を真理とせず、これからも探究し続けていく姿勢でありたいものだ。

と語っています。だから僕も、ジイジの言葉を正解として固定せずに、それをきっかけとして探求し続けていこうと思っています。

話は変わって。今日はティク・ナット・ハンの誕生日です。ティク・ナット・ハンは誕生日を「継続の日」と表現しています。「ありのままに観て、ありのままに聴く」で紹介したティク・ナット・ハンの姿勢、怒り、恐怖、欲望から自由となり、すべてをありのままに観て、ありのままに聴くこと、僕はその実践を継続し続けます。そして、これからもずっとずっと継続していく宇宙の流れの中で、一つの物語を担っていこうと思っています。




あれから3年、今の僕の到達点(2)

ロータスランドの絵。雑多な日常(絵の前の棚)に仏が生まれ宇宙の光が降りてきます。

あれから3年、今の僕の到達点」にも書いたように2015年10月2日は僕にとって大きな転機でした。大人ミーティングでは、僕の話題が多くを占めたのですが、そんな中、みちよちゃんは以下のオーロビルのマザーの言葉を訳していたそうです。

☆彡 ☆彡 ☆彡

The Mantras of Bliss and Transformation !

Are you ready to change yourself completely? 
You will have to throw off your ideas,ideals,values,interests,and opinions.
Everything will have to be learnt anew.
If you are ready for all this,then take aplunge;
otherwise don't try to step in.


至福と変容のマントラ

完全にあなたを変化させる準備ができていますか?
あなたは自分の考え、理想、価値、興味、意見を捨てるでしょう。
全ては新しいものとして学ぶべきことです。
もしあなたがこうした全てに準備ができていたら、飛び込んで。 
さもなければ、それには踏み込もうとしないことです。

☆彡 ☆彡 ☆彡

その言葉はまさに当時の僕に向けられた言葉で、この言葉を受けて、ジイジは以下のように語りました。

☆彡 ☆彡 ☆彡

僕があなたに伝えていることは、決してあなたに不愉快を与えるものではありません。どれ程の想いを込めて、そして願って、あなたの追い風になろうとしているか。そういうことが分かったら、今の状態でいる自分が、いかに恥ずかしいことで申し訳ないことであるかに気づくでしょう。

「あなたは自分の考え、理想、価値、興味、意見を捨てるでしょう。」というマザーの言葉。それは自我を捨てて、天のままに生きるということです。僕は昔、それを天のマリオネットと表現しました。でも、その考えは今は変わっています。昔、夜、外に出て上を見て、月が出ていれば月、星が出ていれば星、曇っていたら、その上に星や月を想像して語っていました。

「神さま、私はあなたの意志に沿うものです。」

そうすると、そういうことを語っていた時、その間違いに気付きました。「あなたの意志に沿うものです」ということは、あなたという意志があって、そして、それを受けている自分がいるということです。でもよく考えてみたら、あなたという意志はわたしに表れています。だから、本当のそれが通じた時に、私の意志はあなたそのものなのです。

あなたはわたし、わたしはあなた。

その時、「神さま」とそこに気持ちを向けたり、「あなたの意志」というようにそこに特定を持った時に、すでに自分、自我を成立させているのだと気づいたのです。

まわりてめくる。

すべては新しい出来事として学ぶべきことです。常に新鮮で新しい毎日が来るわけですから。

これを世間の価値観で生きる人たちはなんだろう?と思うかもしれませんが、すべての人が行きつく先はそこなのです。まだ社会がそこまで熟していない時に、我々が先駆けとしてこれをやっています。その構造が分かるならば、本当にそのことの貴重さ、尊さ、有難さを思って、あっさり一目散にそこに向かうでしょう。

なかのんはブログで立派なことを書いています。今の状態でそれを書くことは、偽物を書いて罪を犯しているような話で、それは自分の価値をどんどん落としているのです。でも、だからブログを書くなということではないのです。ブログに相応しいものになるとしたら、そんな状態でいるはずはないのです。

そこは僕のためではなく、あなたの価値を上げるということと、世の中の為にあなたに目覚めて欲しいと僕は願っています。

そして価値あるものとしてあなたのいろいろな思いが表現されていく世界を実現しなければなりません。愚かしいところで、目覚めない状態で自分の願いを叶えるということは、自分にとっても世界にとっても何もいいことはありません。そこを分かるということだと思います。

我々は何をするかというと、僕と同じような話をみんなにしろって言っているのではないのです。「みんなで」という気持ちで暮らし、それを人々に見てもらいたいのです。こんな素晴らしい世界がいっぱいに広がって欲しいから、人々に見て欲しいのですよ。たったそれだけです。

それは日常、みんなが気持ちよく「さーと」心が通っていって、「ああこれだったんだね。これがやりたかったんだね。」そういうことを言葉ではなく空気を感じて、「神さまの目的はこういう世界だったんだ」と理解することです。

これはとても身近にあって、アカデミックでもなんでもありません。哲学とか立派な話でもなんでもありません。

「あぁ、いい空気だね。」
「こういうところに生涯身を置きたいね。」
「こういう生き方を自信を持って、安心の場所でやりたいね。」

そう感じたら誰だって出来るんですよ。

僕はこういう話をしばらく避けてきましたが、みんなが僕の気持ちに共鳴するならば、僕からどんどん発信されて、「そうだね、そうだったね。」となるんだったら、いくらでも話す価値があるなと思うのです。

でも待ちの姿勢で話を聴いて、良い話だったねとなって後で忘れていくならば、僕もジレンマを感じてしまいます。みんなで良い響きを生み出していく。そんなふうでありたいです。

なので、お願いだから、人の心を調整するような時間をこの場に持ち込まないで下さい。自分の心は自分で調整して下さい。もうそういう段階です。それでも、残念ながら、充分に果たせなかった時に、それを投げやりにならないで、表に出して、みんなにそれを正す方法を請うて下さい。自分に実力がないのですから。

そして、みんなに助けてもらって、心から「ありがとうございます」と言って進んで下さい。そうしたら、あなたの未熟も「良い場創りに役だったね。」ということになります。

みんなが他者のことを思い合う。そういう心の表現に繋がるのですから。

だから未熟でもいいのです。本当にみんなに託していく。そういう場創りが大切です。そしてそういう場はいつでも表現出来るのです。道を難しい道だと思わないでください。

☆彡 ☆彡 ☆彡

マワリテメクル

カタカムナの5首に含まれる一節ですが、これは自転公転の二面性を表していると言われています。一文字ずつ読み解いていくと、「マ」は自転公転の運動によって区切られた空間でありこの世界そのものと言えます。そして現象が生まれる縁(ふち)が「ワ」であり、そこから離れていく動き「リ」により、二面性「テ」が「メ」ばえ、それが自由「ク」を維持している「ル」ということ。つまりそれは、相反するものの存在により絶えず新しいものが生み出されるこの世界の法則を表しています。

「神さま・・・」と対象を固定し呼びかけることは自我を生むことですが、自我があるからこそ認識が生まれます。神さまが自己認識のために完全なる光から闇を分けたように、人は自らを他者から分けることで自分自身を認識します。分けることは分かることに繋がりますが、認識を深めていくと、すべては一つ、分けられないということが見えてきます。分けることにより分けられないということが見えてきて、すべては自分の認識を超えていること、分からないということが分かるのです。

この世界は自分の鏡です。人は世界という鏡を通してのみ自分を知ることが出来ます。だから他者や世界に働きかけることは自分に働きかけることであり、他者や世界からの反応は自分自身の顕れです。そして自分を磨くことは世界を磨くことであり、世界という「鏡(カガミ)」から「我(ガ)」を取ることで「神(カミ)」という尊く美しいものを見出すのです。これらすべて相反する動きの中にあり宇宙は常に新しいところへと向かっているのです。

自我は浮かんでは消える波。自我を捨てるとは波を離れて海である自分に気づくことです。この世界にはたくさんの波、自我が存在しますが、海に至ればすべては一つなのです。波である自我の動きを見通し、他の波と同じように眺めて、表現すること。それが価値あるものとして想いを表現していくことで、僕が実践し続けていくことです。

ということで、ここでちょうど1年前に書いた文章を紹介します。

☆彡 ☆彡 ☆彡

きっと自我は人々の未熟としてずっとあり続けます。そして、そこから様々な喜びや苦しみが生まれ続けます。ですが、客観的視点があれば、それらの体験、人びとの未熟をみんなの学びにしていくことが出来ます。未熟があるから想い合える。そんな空気を生み出すことが出来るのです。だから自我はあってもいいのです。自我を持ちながらもそこを超えようとする意志を持つ時、客観的視点がすべての出来事を生かし、豊かな繋がりとなって表現されていくのです。それが生きていることの醍醐味であり、僕ら木の花ファミリーが先駆けとして表現しようとしている世界、「ここはなんだろう・・・あれ?!」という世界です。



☆彡 ☆彡 ☆彡

こんな気持ちで、これからも自我の動きを見通すことで、みんなと学び合って豊かな暮らしを表現しようと思っています(^-^)


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