自我は惑いの中にある

多種多様な経験をし、様々な立場の人たちが共に暮らすこの世界では意見の相違があるのは当然です。違う立場の人が敵となって表れる。それも不思議なことではありません。その時、それを有難いこととして受け止め、そこから学んでいけば、敵は好敵手となり人は成長しあらゆる立場を超えた視点を育むことが出来るのです。

たとえば僕は老若男女100名近くと血縁を超えて共に暮らしていますが、このような暮らしをしているといわれのない非難を受けることもあります。それらは経験や立場の違いから生まれる偏見と言えますが、彼らの視点を理解すれば、僕らの決意を試す有難い言葉ともなります。そんなふうに僕らは成長して来ました。それがなくなって欲しいと思う必要もなくてただ道理を通して暮らし変遷として見ていけばいいのだと思っています。

過去から未来へと続いていく天の物語。その長い物語の中に自分は位置し物事に出会いますが、すべては流れの中にあります。敵に出会うのもその流れの中であり、そこから学ぶことで敵は消え、また新たな敵が表れるのでしょう。敵の存在を認め尊重していれば、それは絶え間なく続く成長のプロセスであり、すべては役割でありそこには「有難い」しかないのです。




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この文章にあるように、時に木の花ファミリーのことを批判する人に出会いますが、そのような時、第三者にその出来事の意味を説明することもあります。そんな時、僕は木の花を批判する人たちの言葉を徹底的に読み込んでいます。繰り返し繰り返し読み、彼らの視点から木の花を眺め、その言葉を実感を持って味わうようにしています。すると実際を離れて本当にその通りに思えてきます。今や彼らの言葉は僕の言葉ということが出来るぐらいです。こんなふうに彼らの視点を確認した後、そこから抜け出しいつもの自分の位置に戻ってきます。これは数年前からやり続けている作業で、僕はずっと批判者の文章を読み続けていますが、こんなふうにお互いの立場を行き来しながら、どちらの視点にも立たない言葉を紡ぐようにしています。

誰の側にも立たずにみんながそうだねと思える言葉を紡いでいく。

それが僕の目指すところで日々そのための努力をしていますが、批判者の実感を味わいながら自分を保つのはなかなかしんどい作業でここ最近の苦しみはそこから生まれていました。

木の花ってひどいところ。

そんな言葉を実感を持って味わいその視点で日常を送りながら、この道を歩む意志を固めていくのです。年始に批判者たちの文章をまとめて読み込みその視点を沢山味わって彼らに共感し、共感することで今、その奥をさらに見通すことが出来たのはないかと思っています。それは自分自身の奥を見通すことにも繋がります。

自我は惑いの中にある

これが今浮かんでいる言葉です。

みんな様々な出来事に出会いその中で自分の考えを育んでいて、そこにはそこに至るワケがあり、その人の正当性があります。人間の自我は目の前の出来事に反応し一喜一憂しながら自分の利益を求めていきます。それは多分みんな共通していて、だからその人の立場に立ったらその気持ちになるなと理解し合うことが出来るのです。僕はこんなふうに批判者たちの言葉を理解しています。ですが、これはあくまでそれぞれの状況に対する反応です。だから状況が変われば心も意見も変わります。なぜなら自我が求めているのはあくまでも自分の利益であり正当性だからです。そして、それは僕らの意見にも同じことが言えます。もし僕の言葉が自我からの言葉ならば、それはあくまで自分の立場や状況から生まれているものです。状況が変われば気持ちは変わります。だからもしその状態で言葉を保とうと思ったら自分に「大丈夫だ」と言い聞かす必要があるでしょう。自我からの言葉は状況に左右されますが、変化変容を本質とするこの世界では未来は未知であり絶対はありません。自我の思惑から世界を眺めたらどうしても惑うことになり、逆に一つの視点に固執したら、そのことが世界を見えなくさせます。そこに自我による決心の弱さや危うさがあり、自我による共感はそれぞれの都合を認め合うことで分断が進んでいく今の社会を追認するのです。

先に僕は奥を見通したと書きました。それは僕の言葉が自我からのものではないことの確認です。僕が生きているのは自分の意志で生きる前に生かされているからであり、自我の奥には自分を生かしている働き掛けがあります。今、僕がここで暮らすのも自分の意志より前にその働きかけがあるからであり、それは自分の損得を超えたものでありその事実は揺るぎがないものです。そこに立つ時、僕は自我の惑いを超えて思惑を超えたところでみんなと繋がっていけるのです。そして、この視点が今の社会の行き詰まりを突破するものだと感じるから、ひどいところと言う人がいたとしても僕はここの大事をみんなが分かる言葉で伝えていくのです。そしてそれは大切な繋がりや心の豊かさを生み出しているという事実を伝えることでもあります。

自我の思惑を超えたところに「みんなでそうだね」と奥のところで感じ合える言葉があります。それは自我による共感を超えたものであり、様々な立場にいる人々を繋いでいきます。そんな本当の絆が広がるように。最後に一つの文章を引用して終わりにしたいと思います。

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思惑や感情の奥に本当の自分がいて、その自分はこの宇宙と一体で常に響きあっています。自我が生み出すヒビキを超えることで、世界と響き合っている本当の自分のヒビキを生きることが出来ます。それは円が縁を紡ぐこの世界の中で与えられた自分の位置、誰とも比べることが出来ない自分独自のヒビキです。

自分の中には自我を含めていろいろな層があり、それぞれの層が発しているヒビキがあります。自分の意識がどのヒビキとチューニングしているかによって、そのヒビキに相応しい心の状態となって現実を生み出していきます。だから自分の持つヒビキを見通していこうと思っています。そして、この世界に心を開いて、世界とヒビキあっていこうと思っています。




木の花ファミリーパンチームのみんなです。年始に美味しいパンを作ってくれました。

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