大海として生きる

2013年12月、天から僕の下に「海(カイ)」という名前が降りて来ました。この名前、それ以来ずっと意識にありましたが、特に使うということはありませんでした。

それから4年後。

2017年の立春正月、僕はひっくり返ったのですが、それ以降、僕はブログで自分のことを海と表現するようになりました。例えば、以下のような感じです。

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僕は海。そして浮かんでは消える波として人生を送ります。

波としての自分に焦点を当てれば、それは自分の人生と感じるかもしれませんが、僕は本来、海そのものなのです。だから、波(自我)としての自分は他のすべての波(自我)と同様で、世界の彩りの一つに過ぎず、それはみんなのものなのです。

僕は自分を通してみんなの人生を生きる。

それは僕の人生が僕だけのものではなくみんなのものでもあるということです。




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そして昨日書いたブログでも自分を海と表現しています。

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世界の中に浮かび上がった波としての自分。それが自我。その自我を天に向かって導くこと。それが今生の自分の役割です。長い間、波としての自我を自分と勘違いして来ましたが、それは本来の自分ではなく、愛し導く対象として与えられたものです。自我は反応体で目の前の出来事に独特のパターンで反応しますが、その反応を識別し、調和へと導くこと。それが僕に与えられた使命です。

自我は盲目だから、今までいろいろなトラブルを起こしてきましたが、僕はそれらすべてを刻み込んだ上で許します。なぜならそれらは見えない中で現実に翻弄されながら一生懸命に生きてきた結果だから。ですが、これから先は不調和な振る舞いは許されません。なぜなら、海としての僕が波としての自我を導くからです。もうこれ以上、自我が愚かな行いをすることを許しません。僕の自我は天へと導かれます。


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2018年5月4日の朝日です。

僕は海。2013年に天から頂きそのままになっていた名前を身近に感じるようになっていました。そして、昨日の朝、昇ってくる朝日を前にして新たな名前が天から降りてきました。その名前は「大海(タイカイ)」。大きな海。

僕は今年の2月、祖母が亡くなった時、「自分自身が大海の表れであるように」という文章を書いています。大海という言葉を使った趣旨は以下の通りです。

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人間はみんな一滴としてこの世に生を受け、そしてこの世を旅立つ時、この世界という大海と一つとなります。ですが、あの世に旅立つ前にこの世にいながら大海と一つとなって歩むことも出来ます。それが心磨きの道だと僕は思っています。

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大海として生きる。それはずっと心磨きを続けるということです。

話しは変わって。

最近、僕のまわりで「自立」や「自分の足で立つ」という言葉が聞かれるようになっています。それで思うのは、こういう時、波としての自分が立つことをイメージすると、世界から際立ち離れていくのではないかということです。そもそも波は浮かんでは消えるもの。それをずっと保とうとするのは不自然な努力となります。

大海とはこの世界そのもの。大海として生きればすべてが自分だから、自分という波が立つ必要はなくなります。大いなる流れに合わせて浮かんでは消える、ただそれを繰り返すだけ。大いなる流れを柱とし、自分に芯を通し、出会う出来事を通して変化変容を繰り返すだけなのです。

海(カイ)から大海(タイカイ)へ

カタカムナでは、「カ」は無限絶対空間に於いて普遍的に存在する極微小の最小単位、その「位置(イ)」が定まった状態が「カイ」です。2013年、「カイ」という名前が降りてきたのは、自分があるべき位置に収まった証と言えます。そして、昨日の朝、「タイカイ」という名前が降りてきました。「タ」は分離独立。すべてのものは、エネルギーの蓄積が高まると、二つに分かれて独立する性質があると言います。大海(タイカイ)とはこの世界そのもの。この世界そのものでありながら分離独立した位置に立つ。それはこの世界の中で自分独自の役割を担うことであり、それこそが真の自立です。

この世界そのものでありながら分離独立した存在、大海(タイカイ)。

僕はこれから大海として生きます。


自我を天へと導く

5月3日はいさどんの67歳の誕生日。この誕生日を機に『いさどん』は『ジイジ』となりました(「いさどん」から「ジイジ」へ参照)。この大きなターニングポイントの前日の夜、みんなで「八番目の聖者 ~道はひとつ、心はひとつ」を読みました。この話は瞑想中のいさどん(当時)の前に7人の聖者が現れたお話、そして席が一つ空いていて、そこにいさどんが立つように言われたお話です。以下、少し文章を引用します。

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八番目に立つ聖者が、その七人の聖者のようにひとりひとりじゃないんだと。それは、19931228日に小包でいただいた言葉、「尊きものを見つけて、そこに行き、救われることよりも、自らが尊きものとなって、他を救えるものとなれ。これからは、ひとりびとりがイエスやブッダであるぞ」その言葉につながっている。

お釈迦様が、「ガンジスの川の砂のごとく衆生はおる。そのすべてに仏性あり」と言われた。「どんな人間の中にも、仏になる種が入っておるぞ」というふうに言われた。それはよくあるお釈迦様の言葉として、世の中にもそれを知っている人は沢山いると思う。

しかし、僕にお釈迦様は、そのあとの言葉を言われた。「ただし、その道を歩んだものにだけな」と。「すべてのものの中に真実の種があり、すべてのものに悟りへ行く道があるんだけれど、その道を歩まないものにはないぞ」と言われた。

そして、「これからは、ひとりびとりがイエスやブッダであるぞ」ひとりびとりが自分の中にある、宇宙の中心からくる神性、真理の種を開花させて、自分の中から光を外にほとばしらせる。そして、人に救われることばかりのもの、亡者として生きるのではなく、自分の中から光を出して他を救えるようなものになる。自分で自分を救えるもの。それが連鎖していけば、誰も救われる必要がない。ひとりひとりが目覚めて、キリストとしてブッダとして人々があったならば、この世界は救うものも救われるものもなく、それこそが理想の世界。地上天国になる。

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この文章はみかちゃんの提案によりみんなにシェアされましたが、提案した理由についてみかちゃんは以下のように語りました。

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八鏡文字

カタカムナで8(ヤ)は飽和安定、ヒフミヨイムナヤ(1・2・3・4・5・6・7・8)まで来て八鏡文字が完成します。八方ふさがりや闇(ヤミ)(8・3)という言葉がありますが、「8」まで来ると安定しますが、それは動きのない状態とも言えます。ですが、それは動き出す準備とも言えて、「9(コ)」で転がり出ることで「10(ト)」の統合、悟りへと至ります。これはヒトの歩む道を示しています。

過去の聖者が7つの席を埋めています。そして8番目の席、そこに一切衆生が座ることにより八鏡文字は完成し、世界は統合、悟り、コミュニティの仏陀へと転(コ)がり出ていきます。その時、人々は個(コ)の花を生き生きと咲かせています。7年前、いさどんの生前葬ではそのことを表現しましたが、現状は不十分です。そこから7年が経った今、本当にこの場でそのことを実現する時が来ています。

みかちゃんによる「八番目の聖者」の説明

冥王星の周期、庶民の目覚め、白陽期の開始は八鏡文字の「8」の場所になっています。

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『いさどん」が『ジイジ』となった大きなターニングポイントを迎え、時代はさらに目覚めへと進んでいます。その時代の流れの中で自分は以下のように思っています。

世界の中に浮かび上がった波としての自分。それが自我。その自我を天に向かって導くこと。それが今生の自分の役割です。長い間、波としての自我を自分と勘違いして来ましたが、それは本来の自分ではなく、愛し導く対象として与えられたものです。自我は反応体で目の前の出来事に独特のパターンで反応しますが、その反応を識別し、調和へと導くこと。それが僕に与えられた使命です。

自我は盲目だから、今までいろいろなトラブルを起こしてきましたが、僕はそれらすべてを刻み込んだ上で許します。なぜならそれらは見えない中で現実に翻弄されながら一生懸命に生きてきた結果だから。ですが、これから先は不調和な振る舞いは許されません。なぜなら、海としての僕が波としての自我を導くからです。もうこれ以上、自我が愚かな行いをすることを許しません。僕の自我は天へと導かれます。

そう、僕は愚かで未熟な自我を抱えていますが本当の自分に目覚めています。それは木の花ファミリーの暮らしの中でいさどんをはじめとするみんなに育まれたから。上記の文章に続いていさどんは以下のように語っています。

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僕は、この世界を救うものとして、この世界に派遣されるような立派なものではない。この世界を救うようなもの、イエスやブッダや他の聖者のような立場に立てるのだろうか。僕の中から、そんなおこがましいと自分をへりくだる心が湧いてきて、どうもしっくりいかない。それをずっと考えてきた。

富士山の頂上で、「その心、これからは、日の本の国全体に説くがよい」と言われた時も、「そんな、私にそんな大それたことができるわけがありません。
私にどうして、そんな能力がありましょうか」と、そうやって言われるたびに、
ずっとその言葉を否定してきた。

でも、最近になって思うのは、人間いさどんがひとりでそれをすることはできない。けれど、このいただいた心を自分の隣の人に伝えることはできる。ちょうど、自然の仕組みが利他であるように、自然は自らが存在することによって、自分が関わる両隣のために生きている。その仕組みが、いのちの仕組みとして、この世界すべてをつなげている。それが、いのちの仕組みであり、神様がこの世界をそれで治めておられる。

そして、この尊い仕組み、尊い心を自分が今もっている。それを両隣の人に伝えることができる。そして、この精神、想いは、人と人、いのちといのちのつながり、ネットワークにひとたび解き放たれれば、それが連鎖して、この世界にすべて行き渡る。そうなった時に、この世界が理想の世界になる。

「その心を日の本の国全体に説け」と言われたこと。そして、「尊きものを見つけ、そこに行き、救われることよりも」という言葉からくる、ひとりびとりがイエスやブッダ、すべての衆生に仏性がある、ということ。それは、この宇宙のもとにある一番のエッセンス。その心にひとりひとりがなれる。

そうして、八番目の聖者というのは、ひとりの人間ではなく、すべての人々の中にある仏性、神としての心。宇宙の根源から分かれてきて今がある。それを思い出した時に、すべての人の中に八番目の聖者たる資格がある。

それに皆が目覚める時代、それが今の時代。自分も八番目の聖者だけれど、すべての人が八番目の聖者である。そういう時代が幕を開けようとしている。そういう時代がこれからの時代なんだ、ということがわかってきた。

その見本とする生活が今ここにある。ベトナムの僧侶、ティク・ナット・ハンが言った言葉、「次のブッダは人間の姿で現れることはないだろう。次のブッダはコミュニティの姿で現れるだろう。それは他者を理解しようと努め、互いを慈しむ優しさを持ち、大事なことを常に意識しながら、人々が暮らすコミュニティである。これこそ地球の命をつなぐために私たちにできる、最も大切なことではないだろうか」という言葉にもつながる。

僕は、瞑想の時代にお釈迦様に問うた。「こうやって私もいつか人々の心の問題に答えながら、人々が集まり、組織ができ、新興宗教の教祖のようになるのでしょうか。」そうしたら、お釈迦さまが言葉を返されて、「これからの時代、組織をつくるのではないぞ。人々が集え。集い語り合え。語り合う中から真理が生まれる時代である。そういった中から世は開かれる」と言われた。

「そのひとりひとりはすべて今の仲間、そして地球にいる仲間たち」、そこに気づくことができた。

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いさどんが尊い心を両隣の人に伝えてきたように、そしてこれからも『ジイジ』としてその実践を続けるように、僕も自我を天へと導くことで育まれた尊い心を伝え続けていこうと思っています。

破壊を生かすために必要なこと

宇宙は、常に変化することで成り立っています。波動が高いところでどんどんどんどん変化すること ─── それが活性化です。人間が自我を持ち、欲を持つと、変化しないことを求めるようになります。何かに囚われ、現状を守ろうとするのです。しかしその自我の欲が満たされても、人間は成長しません。むしろ、その欲に支配されて、不自由に生きることになるのです。
けれども、人間が自らを手放し、自分から解放することにより、自我の枠から離れることができます。この、自分自身を手放すことを、シヴァのはたらきと言います。シヴァとは、破壊の神の物理性です。宇宙は、この世界をどんどん変化させていきます。それは、無限の宇宙の中で、トキ軸を柱にし、常に先へ先へと、未知なるところに向かって旅し続けているということです。それが生命の宿命であり、宇宙を生きる上で正常な状態なのです。その中で、私たち人間も、自らの価値観を絶対とするのではなく、宇宙が変化していく流れをいただいていく。「いただく」ということは、古いものを捨てるということです。

宇宙を生きるとは、どういうことでしょうか。それは、自分を手放すということです。ところが、現状に執着する人にとっては、それは苦痛となります。そして宇宙の流れに逆らってでも、現状を保とうとするのです。そうすると、宇宙はその人に問題ごとを与えます。それは宇宙の法則からのメッセージです。そしてそれが、神様が私たちに与えてくれている、愛です。あなたを捨てなさい。そして私と共にありなさい


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上記の言葉はシヴァの働き、破壊の大切さを述べていますが、すべての破壊が生かされているわけではありません。例えば、積み上げた積み木を崩すのも破壊ですが、また一から同じものを積み上げていくならば、破壊は生かされていません。僕たちがこの世界で出会う滞り、問題ごとも破壊と言えます。ですが、それを通して意識が変わらなければ同じことの繰り返しとなります。これも破壊が生かされているとは言えません。世界に目を向ければ、各地で紛争や戦争という破壊が起きていますが、それは人類の歴史の中で繰り返されていることで、破壊が生かされているようには思えません。

生かされる破壊と生かされない破壊がある。どうすれば破壊は生かされるのだろうと思った時、2015年10月2日にいさどんが大人ミーティングで語ってくれた言葉を思い出しました。これは反発しながらもムキになって「心は見ていく」と発言した僕に向って語られた言葉です。

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冷静に見ていくというところで、なんでそういう反応になるのか?そういう反応もしっかりとチェックしていかなければならないのです。

なかのんは、自分の状態は問題だということは言います。だけれども、駄目なところに情を掛けて執着してしまっているのです。そこはシビアになって抜け出さないと次の段階に行けません。

そこに情を持って執着していると、言っていることとやっていることが違ってきます。それは矛盾を創ります。そんなことをずっとやっていたら霊的には罪を犯すことになります。

問題があると認識しているならば、そのことを認めて改善する意志を明快に示すことです。そして、常に問題を意識して生きるのです。毎日を冷静に見ていく。緻密に見ていく。客観的に自分を離れてみていくことが必要なのです。

木の花ファミリーのようなみんなで創っている場所、これはある意味、組織みたいに見えます。そうすると、そこに共鳴出来ない不調和な状態にいる人にとっては、この組織みたいなものが個人を締め付けているように感じます。

だけれども、ここでやっていることは個人の質を高めることによって、みんなで目的を達成しようという投げかけをしているだけで、締め付けをしているわけではなくて、あなたにそのことを託し、そして同時にあなたの価値を上げようとしているのです。
その時に、日頃、語っていたり、みんなで確認し合っていたりすることをぶち壊すということは、ここ全体に対して逆風になるし、自分の価値を下げることにもなります。

客観的に見たら、そんな行動を取るのはおかしなことでしょう?それなのに、なぜそのおかしな行動を取るかといったら、その未熟な自分に執着しているからです。

それで、僕の話をしますが、僕も昔、同じところを通ってきました。僕は、お釈迦さま、そして神さまに出会い、道理を伝えられてきました。お釈迦さまが語られるのは仏道、道なのですよね。プロセスをずっと見ていく客観視点を育てられます。

そうすると自分の感情が苛立っている状態を観なければいけなくなります。普通の人は感情が出てくると、感情のままに出して、それを主張することが自由だったり束縛されていない状態と思ったりしています。ところが、僕にはもう一つの目線がありました。それも強制的に示される目線です。そちらの方から「お前の今の感情はこうだぞ」と言われると、僕みたいな道理人間、理屈人間は理屈で負けてしまうのです。

それでどうするかというと、僕は理に叶った方に行こうとします。自分の主張が愚かであっても、そこに執着したい自分がいますが、理に適った方に行かなければなりません。そのように、そちらを選べば選ぶ程、情がわいている自分を否定することになります。理に適った方を選んでは自分を否定していく。その繰り返しになりますが、その覚悟が出来ていないとだんだん辛くなるのです。

そこで「俺はつらいんだー」となって爆発したことがありました。そうすると、お釈迦さまは「それなら止めるか?」と尋ねてきました。「なんてひどい薄情なことをいうの?あなたは」と思いました。

そこでまた道理を考えました。僕が執着して道を歩むことに辛い想いをしていることに対して、そのまま執着して進むことは、その道を外れるということになります。止めるか?という話に乗るのもこの道を外れることになります。どちらの自分も認めることが出来ません。

道理のところに行くことによってのみ楽になれる。自分で自分を本当の意味で認めることが出来るのです。認めたくない自分に執着をしてそのままで行こうとしますが、それはすごいバカなことをやっているのです。それでも執着している時はつらいものです。

僕はその想いを怒りに変え、伝えました。

「何を言っているのですか。止めるわけがないではないですか。これを知らずにいかない人は世の中に沢山いますが、一度、これを知って行かないものがいるでしょうか?絶対やめない。見ておれ。やめんから。」

逆切れしたのですよね。

さっきのなかのんの言葉もある意味逆切れですよね。だけれどもなかのんは自分と向き合わない方向に切れていました。僕は「絶対にあなた(お釈迦さま)のところにいく」という逆切れ。同じエネルギーの掛け方でも違う方向に向かっているのです。

僕は辛いから泣きました。でもその涙は自分にとって肯定的です。そこまでやるんだ。その想いが自分を強くしてくれます。なかのんの逆切れは心を強くするものではなく、ある意味逃げています。そうやって逃げていくと悔やみの心が出てきます。

また自分が否定する、本当はそうではないという方向に行ってしまった

その繰り返しになり、だから定期的にその想いが湧いてくるのです。自分が嫌いな自分を演じて、自分で苦しんでいる状態です。

※いさどんとお釈迦さまのエピソードは「木の花記~金神さまの巻~」をお読みください。

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上記の話の中で、僕もいさどんも同じように「逆切れ」をしています。逆切れもその場の空気を壊すもの、破壊と言えますが、いさどんの逆切れは生かされ次へと繋がっていきました。その一方、当時の僕の逆切れは、同じ繰り返しに繋がり生かされることはありませんでした。その違いは何か?上記の文章の中には、緻密に見ていく、客観的に自分を離れて見ていく、プロセスをずっと見ていく、というように「見ていく」という言葉があります。壊れていく自分と世界、それらと向き合い見ていく時、破壊は生かされ次へと繋がっていくのだと思いました。

自我の生み出す世界は自分の願望や思惑で染まっていきます。そして世界や自分の現実が見えなくなっていきます。そのため問題ごとという破壊へと至るのですが、自我を保っていると、積み上げた積み木を壊してまた一から積み上げるように、同じことの繰り返しとなっていきます。

やる気を出して動きだしても、ちょっと壁にぶつかるとへこたれ落ち込んでいく。そしてしばらくしてまたやる気を出して・・・

こんな繰り返しになっているならば、それは自我を保っているからです。そして嫌になることで、へこたれ落ち込んでいく自分を見ていないのです。壁にぶつかってへこたれ落ち込んでいく時、そんな自分を離れて見たら、きっと新たな動きへと繋がっていきます。上記のエピソード以降、僕はそんな体験を積み上げています。

壊れていく自分と世界を見ていくこと。

そのためには自分を離れる必要があり、それこそが自分の解放、真のシヴァの働きです。そしてそこから常に未知へと進み続ける本当の道が見えてきます。

明日、4月30日は蠍座満月です。蠍座の支配星は死と再生の星、究極の破壊を司る冥王星。このタイミングで破壊の神、シヴァに想いを馳せています。


2015年9月28日の満月。この数日後にここで紹介しているいさどんの話がありました。


恵みいただきます

下之坊の藤の花

先日、下之坊へ行ってきれいに咲いている藤の花を見てきました。ここに来ると3年前のこの時期を思い出します。下之坊で僕は「匂いの世界」に入って行きました(「見えない世界、そしてない世界を生きていく」参照)。

当時の僕は視界から自由になりたいと強く思っていました。それが自分の自由を奪っていると感じていたので。その後、しばらくして僕は自らの感情に飲み込まれそして自由を失っていきました。

感情は浮かんでは消える波のようなものです。その奥には海である自分がいて全世界と繋がっているのですが、波に飲み込まれると海である自分を見失い、波(感情)だけの認識に囚われていきます。それは思惑も同様で、常に感情や思惑の奥に行くことを心掛けることが自由への道だと思っています。そこに宇宙と共に変化変容を繰り返す本当の自分、そして本当の認識があります。そこに至った時、本当の自由を得ることが出来て、視界もそこから生まれたものならば、きっと自分に自由をもたらすものとなります。今はそんなふうに思っています。

話しは変わって。

3年前、木の花ファミリーでは月に一度の食事会「恵みいただきます」が開催され、毎回200名前後のお客様をお迎えし、豊かな時間を提供していました。そしてその頃、いさどんは以下のような話をしていたのを思い出しました(「恵みいただきます」は2017年1月を最後に休止しています)。

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「恵み」とは生きることそのもの。人間は何かを貰った時やご利益を得た時に「恵み」と考える傾向がありますが、人は生きることにより物事を認識していきます。その認識こそ「恵み」です。先にこの世界があり、自分という個性が組み合わさります。一人一人個性的な眼鏡でこの世界を認識していきます。人間は他の生命とは違い自由が与えられ、自己実現の願望を持ちます。そして広い視野を持ち尊く生きることも出来るし、狭い視野に陥り地獄を生きることも出来るのです。それらすべてが恵みです。




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「恵み」とは認識。これはお釈迦様の「天上天下唯我独尊」にも繋がる言葉です。

この世界ではすべてが繋がりあって存在して、他が存在しなければ自分は存在しません。ですがそれを認識するのは「我」です。そういう意味では「我」がなければ、無に帰するとも言えます。そのため、「ただ我だけを尊ぶ」という宣言に繋がります。これがお釈迦様の天上天下唯我独尊で、認識に価値を置いた宣言と言えます。

そして別の場面で、いさどんは「いただく」という言葉についてこんなふうに述べています。

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宇宙は、この世界をどんどん変化させていきます。それは、無限の宇宙の中で、トキ軸を柱にし、常に先へ先へと、未知なるところに向かって旅し続けているということです。それが生命の宿命であり、宇宙を生きる上で正常な状態なのです。その中で、私たち人間も、自らの価値観を絶対とするのではなく、宇宙が変化していく流れをいただいていく。「いただく」ということは、古いものを捨てるということです。


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そして「いただきます」は「頂き(いただき)」が「増す(ます)」ということ。これはガンと向き合ったきょうこちゃんといさどんやみかちゃんとの会話の中から出て来た言葉です。

ということで。

「恵みいただきます」とは、出会う出来事を通して古い認識を捨て、新しい認識を得ていくこと。絶えずそれを繰り返すことで「恵み」である認識を広げ「頂き(いただき)」という無限に増していく高みへと昇っていくことなのです。

またはこうも言えると思います。

生きているということは生かされているということでこの世界の恵みをいただいているのです。人間は認識という恵みによってそのことを知ることが出来ます。そしてその恵みはいただく、古いものを捨てることでどんどん増していく、つまりどんどん豊かになっていくということです。

認識という恵み。それを生かすも殺すも僕らの自由。それを生かそうと思うならば、古いものを常に捨て続けることなのだなと思いました。

そして今日、南北朝鮮の首脳会談がはじめて韓国で行われました。そして両国の首脳が軍事境界線を超えて互いの領地に足を踏み入れました。その姿を見て、なぜかとても感動してしまいました。あまりこういう政治パフォーマンスで感動することはないのですが、今回はなぜかとても感動しました。こういう会談にはお互いの思惑があるものですが、思惑があったにしても歴史的な一歩が刻まれました。それは時代というトキの流れに刻まれ、互いの思惑を超えた展開を見せることもあるのではないか。そんなふうにも思えました。まぁ、変に期待し過ぎるのも思惑になってしまいますが。なんにせよ、新しい動きに合わせて古い認識を捨て、新しい世界を見て感じていこうと思いました。

この世界の恵みをいただき、常に認識を新たにしていくこと。それが「恵みいただきます」という言葉が伝えてくれるメッセージです。

ということで。

最後に、以前「恵みいただきます」で提供していた料理を少し紹介しますね。この「恵み」は今、カフェ&ショップ ロータスランドにて生かされています。








「正しい立場」を手放す

この世界のすべての汚れは人間のカルマから生まれている。

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数日前の大人ミーティングでいさどんはそんなふうに語り、そうだなと思いました。

仏教用語で無明という言葉があります。これは迷いのことで、人間の自我が生み出す見解(我見)が無明であり、そこからすべての苦が発生すると言われています。自我を持つ人間はみんな、自分の尺度を持ち、そこから世界を感じて世界を評価しています。その状態が無明であり、そこからすべての苦しみが生まれるというのですが、それは同時にカルマと汚れも生み出しているのだと思います。

2012年12月22日、太陽系は銀河の冬至を迎えましたが、それは25800年周期で訪れる闇のピークと言われています。闇とは光のない状態、無明です。そして無明とは自我が生み出す世界のこと。人類は星々の運行と連動し、それぞれの自我を増長させてきました。その結果が今の世界であり、貧困や飢餓、戦争や紛争、自然災害などの苦しみ、そして大気汚染や海洋汚染などの汚れでいっぱいになった世界を生きています。

ですが、闇のピークはもう超えました。

2016年6月21日、銀河の冬至前後7年間の銀河の夜明けを経て、太陽系は本格的に光の時代に向かっています。それは自我の生み出す闇を抜け出し、智恵の光のもとに生きていくということです。自我を超えることでもたらされる智恵の光。それだけが今の世界を苦しみや汚れから解き放つのだと思います。

話しは変わって。

森友学園への国有地売却を巡る財務省による決済文書改ざん問題、加計学園獣医学部新設を巡る「官邸主導」の疑惑、自衛隊イラク、南スーダンの日報問題、そして財務省次官によるセクハラ疑惑・・・

今、政権の信頼が揺らぐニュースが次々と報道されています。

それに対して野党は「正義」の側に立って政権を問いただしています。その野党の動きは社会的には正しくて必要なものかもしれません。ですが、その先に明るい未来を感じることは出来ません。野党は「正義」を掲げていますが、その奥にはそれぞれの思惑が溢れています。思惑は自我から生まれるものであり、この世界の闇を深め新たな苦しみや汚れを生み出します。

正義とは本来、立場ではなく心の姿勢です。正義を主張している時、その自分の姿勢はどうなのかをチェックする必要があります。ですが、人は正義を主張出来る立場になると、自分のことを棚に上げ、相手だけを裁くようになります。その姿勢は正義とは言えず、新たな争いの種となっていきます。

ここで思い出すのが、「正義のメッキを剥がして本当の自分を見ていく」にも紹介している阿修羅のエピソード。そのメッセージは「たとえ正義であっても、それに固執し続けると善心を見失い妄執の悪となる」というものです。自分から見える正義、正当性に心を奪われると、自分が見えなくなり、結果、思わぬ悪を生み出すことになるのです。

多くの人が正しい立場にいることを求めているのではないでしょうか?正しい立場に立つことで思う存分に持論を展開する。そこに心地よさを感じているのではないでしょうか?そしてその奥には失敗することに対する恐れ、間違えを犯すことに対する罪悪感などがあります。それらすべて自我の生み出す幻であり、無明であり、苦しみや汚れを世界にもたらしていきます。

だから僕は。

これから「正しい立場」を手放していきます。そして恐れや罪悪感も手放していきます。永遠の相の下に。過去から現在、そして未来に向けて、ありのままの姿をただ淡々と描いていこうと思っています。そしてそこからどんな世界が展開していくかをただ見ていこうと思っています。


阿修羅のイラスト(著作者: Vector Graphics)




出来事に解体され出来事に生み出される

悟るということは「差を取る」ということ。
何と何の差を取るのかというと、お釈迦様は「自分と宇宙」と言われました。自分というものに目覚めると「自我」が発生します。そして常に自らの解釈がこの世界を図っていくのです。
般若心教では・・・
「色即是空 ……ここでいさどんは般若心教のお経を唱え始めました)」
今、「無」ばかり出てきましたね。これは「ない、ない、ない、ない」と言っているのです。それは、自分という意識を持つとこの世界を自らの秤をもって図るのでこの世界と自分に差ができる、ということです。そして、自らの秤を持たないようになる、つまり図る自分がなくなれば、この世界が「ない、ない、ない・・・」と思えるようになるのです。そしてこの世界が「絶対有」であるという状態になるのです。今日はゆう君の誕生日ですからね(チーン 笑)。
そこで、「絶対有」とはどのような「有」かというと、すべてが自分自身である、ということです。自分とこの世界に差がある状態を悟りとは言いませんね。人は自らの解釈に依らない境地になったときに差が取れて、この世界すべてが自分になるのです。
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上記は2年前の4月8日、お釈迦様の誕生日にいさどんに降りてきた言葉です。悟りについて語っていますが、悟りについていさどんは別の時、こんなふうにも語っています。

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カタカムナによると、宇宙は、八つで飽和安定だね。八鏡文字で言えば、円があってそこに宇宙最極小微粒子の「カ」が集まっていって、そして「ヒフミヨイムナヤコト(1・2・3・4・5・6・7・8・9・10)」とエネルギーが集まることによって現象化して、この世界ができる。「コ」で転がり出て「ト」で統合する、その現象化の前の「ヤ」、つまり八の状態は、とても安定した状態だよね。そうすると、そこでは現象化は起きないんだよ。だからそれをわざわざ九まで進めた。八の飽和安定はそのまま止まっている状態だけど、九まで行くと、常に変化変容を繰り返すということ。それは地球の実体であり、宇宙の実体でしょう。飽和安定した世界も、そこを超えると、現象化ができて、それが宇宙の実体なんだよ。
宇宙というのは、本来はないもの。飽和安定の先に、「ある」ということを認識するために九を創ったのだから、その前の飽和安定の状態では「ない」んだよ。だから「ない世界」なんだよ。何もないんだから。

だけど、「アマ」というのは「ある世界」の元を創った。その「ある世界」ができたことによって、この世界はもともと「ない世界」だったけれど今は「ある」んだな、ということが理解できる。そこでトキとトコロが統合して、悟りになるんだよ。統合とは、理解なんだよ。

~ 中略 ~

生きていれば、変遷を見ていくことが出来る。変遷を見るということは、客観的視点で見るということであり、それが悟り




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この文章を見て「変遷を見る」ということはトキの差を取ることだなと思いました。今この瞬間を切り取ってそこだけに反応するのではなく、過去から未来へと続く宇宙の流れを感じることでトキが繋がりひとつになっていくのです。

悟りとは自分と宇宙の差を取ること。それはトキ軸とトコロ軸、両方について言えることで、宇宙の始まりから今に至る歴史、そこから未来へと繋がる時間軸、そしてどこまでも果てしなく広がる空間軸、時空を超えてすべてとひとつとなるのが悟りです。

こんなふうに壮大な悟りの意識。では悟ったものの日常はというと、ただ与えられた役割をたんたんとこなすだけなのだと思います。悟りとはトキとトコロの統合であり理解。決して万能になるわけではありません。髪の毛は髪の毛のまま。爪は爪のまま。それは身体全体からしたらちっぽけなものかもしれませんが、確かに身体の一部でありそれぞれの役割があります。そしてそれぞれがその役割を確実にこなすことで身体全体が機能しています。人間も同じで、宇宙全体からしたらちっぽけなものですが、確かに宇宙の一部であり、それぞれがその役割を自覚し確実にこなすことで宇宙全体が美しいハーモニーを響かせるようになるのです。このような視点、理解があれば、どんな役割も宇宙全体と繋がり誇りを持って生きることが出来るようになります。それが悟りなのだと思っています。

そしてこれは頭による理解ではなく心による理解です。「自分の役割は○○だ」と決めつけるものでもありません。変化変容を繰り返すのが宇宙の本質です。ならば、それに合わせて自分も変化し、役割も変化していくものです。

出会う出来事によって自分を知り、出会う出来事によって変化していく。それが本来の人の姿で、そこから本来の役割も見えてきます。ですが、人間は自我を持ち、今の自分に囚われこだわることがあります。そうすると本来の自分、そして本来の役割を見失い、変化が阻害され滞りに出会うことになるのです。今は世界全体がそのような状態になっています。

自我は自らの秤を持って世界を図りますが、人間は長らくこの自我の欲望を満たそうとしてきました。その結果、世界は自我の欲望で膨れ上がり、はかりごとに満ちています。それは闇のピーク(2012年12月21日)へ向けての宇宙の流れを受けたものとも言えますが、今、宇宙は銀河の夜明けを超えて光へと向かっています。膨れ上がった欲望をそぎ落とし、きれいにしていくサイクルに入っているのです。

宇宙の流れに沿うこと。それはすべての人に与えられた役割と言えます。

大気汚染や海洋汚染、戦争や紛争、政治の腐敗、経済格差や貧困や飢餓。

今の汚れを生み出しているのは今までの人類一人ひとりの歩みです。変遷を見ることでトキの差を取り、今この瞬間で過去を浄化していく必要があります。起きた出来事は変わりませんが、その意味付けを変えることは出来ます。泥は、土足で入ることで建物を汚すものともなりますが、美しい蓮の花を咲かす土台ともなります。泥は、状況次第でいろいろな影響を与えるものとなります。同じように、今この瞬間に過去が与える影響も、意味付け次第でいろいろなものに変化していくものなのです。

今、星々からのメッセージはそぎ落としです。自らの秤をなしにし、「ない」から「絶対有」へと至る道を辿り続ける必要があります。それは出会う出来事に向けて常に自分を解体していくことなのだと感じています。出来事に心の開き自分を解体し自分をなしにしていく。そうすると出来事が新しい自分を生み出してくれます。その繰り返しの中で余分なものはそぎ落とされていきます。そしてそれは過去にも至り、過去の意味付けも余分なものはそぎ落とされ今この瞬間に活かされるようになっていくことでしょう。

出来事に解体され出来事に生み出される

僕はこれからそんなふうに宇宙の流れを感じながら生きます(^-^)

蜜蜂さんの生き方は見本となります(「蜜蜂のように生きる」をご覧ください)

正義のメッキを剥がして本当の姿を見ていく

4月16日の10時56分に牡羊座新月となりました。今回の新月は天王星と並んで起きています。天王星は2011年3月12日、東北大震災の翌日に牡羊座へと移動し、今年の5月16日には牡牛座へと移動します。そのことについて、かとうゆかさんは以下のように表現しています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

天王星と牡羊座の新月。

天王星といえば、7年間牡羊座にあったわけですが、来月の中頃に牡牛座に移行し、ここから7年間牡牛座にとどまります。

この新月は、天王星の7年間のサイクルの総仕上げ。私たちは7年間かけて、「自分」というものに革命を起こしてきました。

「自分」の本来の持ち味や、情熱を阻害する全てから脱却しようと取り組んできた7年ではないでしょうか?

何のために生きているのか?

という問いから、

人間関係のリセットを行い、属する分野やカテゴリー、環境などから脱出する決意を持った人も多かったのではないかと思います。

「自分」を偽ったり誤魔化したり制限したりする、あらゆるものを取り壊していく革命を起こすような7年間。

ある人にとっては、間違ったルールで縛りを設ける古い体制の会社や環境に対して、No!を突きつけた実機もあるかもしれません。

しかし、壊すべきは自分。

古い体制の物を壊すのではなく、古い体制のものの中にいとどまり、自ら自由に生きる世界をクリエイションするためのチャレンジができない自分を壊していくことが重要です。

革命という言葉を聞くと、他者や社会に向けて改革を起こしていくイメージを持ちがちですが、自分の生き方が革新的であることでしか、社会を変えることはできません。社会を変えたり、誰かを救うことができる人は、自分を変え、自分を救った人だけです。手を差し伸べ誰かを救うために立ち止まり取り組むのではなく自分が率先して自己改革を進めることによって、同じように自分を救う自立した人への刺激を与えることでしか、人を本当の意味で救うことはできません。

自分でしか自分を救うことはできません。

自分が誰かを救うことはできない。

自分が自分を救う方法を体現して見せることならできる。

そこから目を背け、自分の人生へのチャレンジよりも、誰かの人生に意識が向いてしまうことを本気でリセットし、潔く、言い訳も、回り道もせず、自分の人生に本気で取り組むための決意を固めるのが、今回の天王星と重なる、牡羊座の新月です。

☆彡 ☆彡 ☆彡

そんな牡羊座新月の夜、木の花ファミリーではいさどんからここで暮らす意味を再確認する話がされました。その話から僕が感じたエッセンスは以下の通りです。

☆彡 ☆彡 ☆彡

生きることの目的は変化変容を繰り返すこの宇宙の流れに沿って生きること。木の花ファミリーの暮らしはその先駆け。一人ひとりの人生の意味は、流れに沿う中で明らかになっていく。そのために出会う出来事に心を開き、今までの自分が生み出したものとしていただいていくこと。環境と響き合って変化していく。そういう心を一人ひとりが創り上げて、みんなでひとつの世界を表現していく。

☆彡 ☆彡 ☆彡

変化変容を繰り返すことは今の自分を壊し続けることです。

ちなみに2010年12月、天王星が牡羊座に移動する少し前、僕は以下のような状態にありました。

☆彡 ☆彡 ☆彡 (2010年12月7日に書いた言葉)

メッキがはがれたのだと思う。困難からは逃げて、自分の都合の良いように解釈し、嘘をつき、びくびくして、いつも自分をみんなが忘れてほしいと願う。
自分は生きる資格のない人間で、本来なら死ななければならないけれど、死ぬことも許されない。だからもがき続けるだけ。そんなふうに思って生きてきた自分。
でも、ここ数年そんな思いは忘れていた。でも時々「しくしく泣いちゃう感じ」として出てきた。絶望感と無力感。僕はやり過ごしていた。
自分に別の人格を作り上げることで、最低人間の自分を超えようとしてきた。
そして、超えたと思っていた。でも、今、自分が噴き出してくる。
結局、僕が今までしてきたことはメッキを塗っていただけ。
剥がれてくれば、最低の自分が噴き上がる。
あの苦しみはもう味わいたくない。もうこのままぼーとして無気力に生きていたい。
そんな気持ちが湧き上がる。そうしたい。
でもそれはできない。僕はもうあまりにも木の花のみんなと関わりすぎた。
僕の心はもうすでに僕だけのものではない。
はじめからそうか。世界と僕は一つなんだから。
ここでの暮らしはその事実を分かりやすくみせてくれているだけ。

僕はこの地球に対して自分ひとり分の責任を負っている。だから投げ出さない。

☆彡 ☆彡 ☆彡

メッキの奥にある本当の自分にメスを入れ始めた瞬間です。そしてそれが出来たのは木の花のみんながいたから。みんながいたから自分の責任に気づくことが出来ました。みんながいなければ僕は自分が生み出す苦しみに埋没し投げ出していたと思います。

人は出会う出来事を通して自分を知り、出会う出来事を通して変化していきます。

それは自分の思考や思惑、想像を超えたもので、世界が人を生かし、世界が人を変えていくのです。大切なのはその流れに沿っていく意志を持つことです。

あれからほぼ7年。天王星が牡羊座にいる間にそんな意志を育んできました。その意志は生きる上での根本姿勢と言えます。

そして一昨日、陶芸小屋に行った時、興福寺の阿修羅像のチラシを見たことから阿修羅について知りたくなり以下のような文章に出会いました。

☆彡 ☆彡 ☆彡

古代インドの神々を統率していた神は帝釈天といい、阿修羅(あしゅら)は統率されていた一神格です。

阿修羅には舎脂(しゃし)という娘があり、いずれ帝釈天に嫁がせたいと思っていましたが、そうとは知らない帝釈天は舎脂を力ずくで奪い、凌辱しました。怒った阿修羅は帝釈天に戦いを挑みました。

一方、舎脂は、戦の最中にも関わらず、逆に帝釈天を愛してしまい、阿修羅はそのため更に逆上し、争いは天界全体を巻き込む大戦乱となりました。

このため阿修羅は復讐に燃える悪鬼とされてしまい、勝てる筈もなく敗れた阿修羅は天界から追放されてしまったのです。

ところで、阿修羅と帝釈天はどちらが正で、どちらが悪でしょうか。

阿修羅は我が娘を陵辱した相手を懲らしめようとしたのであり、帝釈天は他神の娘を陵辱したのですから、阿修羅は正しく、帝釈天は悪であるはずです。

しかし、阿修羅の娘である舎脂は帝釈天の正式な夫人となっていたにも関わらず、戦いに目を奪われた阿修羅は相手を赦す心を失ってしまったのです。

つまり、たとえ正義であっても、それに固執し続けると善心を見失い妄執の悪となってしまうという教えを読み取ることができましょう。

仏教では死後に生まれかわる世界を六道世界(天界・人間・阿修羅・畜生・餓鬼・地獄)と説きますが、天界を追われた阿修羅は、正義を振りかざす妄執の悪鬼として人間界と餓鬼界の間に置かれたとされています。

地獄・餓鬼・畜生よりはましだが、復讐の鬼となっている姿は人間以下だという意味が込められているのでしょう。

興福寺の国宝・阿修羅像は有名ですが、あのお顔はどこか神経質そうな顔をしています。


☆彡 ☆彡 ☆彡

たとえ正義であっても、それに固執し続けると善心を見失い妄執の悪となる

これはとても大切なメッセージだなと思いました。人は正義に側に立つとそれで「善し」にして自分を見なくなります。ですが、その正義は絶対的なものではなくあくまで自分の視点から見た正義です。先日、アメリカ、イギリス、フランスが正義を主張しシリアを攻撃しましたが、ロシアは別の正義を主張しています。お互いが正義を主張した結果争いへと至っています。正義はメッキのようなものです。その奥には汚い心があるため争いへと至るのです。

今、世界は正義のメッキを剥がし本当の姿を見ていく必要があります。そしてそのためには出会う出来事と謙虚と向き合う必要があります。だから僕は一人分その実践をし続けます。それはきっと本当の幸せへと至る道となっていくことでしょう(^-^)

木の花ファミリーの暮らし(ウェルカムコンサート)です。


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