他者のために自分を表現していく(2)

・・・人には好きなモノとキライなモノがある。それは自然なことだと思う。人間として。私は以前、「キライなモノは、生きていく上で少ない方がいい。」という考えを持っていた。だから、キライなモノをあまり作らないようにしよう、と思った。ムリしてそうしていたわけではなくて、ごく自然に、そうしていた。

中学生になって、人間関係のはばが広がった。すると、私の考えに一つの影がかかった。

「人をキライになるのはいけないコト??」

私はある人がキライになってしまった。本当に、純粋に。一緒にいると、泣きたくなってくる。私はびっくりしてしまった。・・・人をキライになるのって、こんなに悲しくて苦しくてイヤなことなの?・・・と。なんだか自分が悪いことをしているような、そんな気がしてならない。

「人をキライになるのはよくない?」

「自分の心に正直に、あるがままにしたら?」

2つの心の声が、私の中でグルグル回る。よく分からないのです・・・。どうすればいいのでしょう???人をきらうのは、悪いコトですか?

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この文章は僕が公立中学校で相談員をしていた頃、生徒から貰った匿名の投書です。当時、僕は相談室前に《私はこれが言いたい》と題した紙と投書箱を置いていました。生徒たちは自由に書きたいことを書いて投書箱に投函していました。多い時は1日20通ぐらいの投書が来ていましたが、僕はそのうちの一部を相談室便り『兎の眼』に掲載し紙面上で返事をしていました。その『兎の眼』は全校生徒や教職員に配布され、みんなが心について語り合うきっかけとなっていました。ちなみに当時の僕はこの投書に対して、以下のように返事をしています。

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あなたの言うように、人には好きなものと嫌いなものがあります。そして、それは自然なことです。そういう意味では、人を嫌いになるのは、悪いことではないでしょう。ですが、誰かを嫌いになると、その相手を傷つける恐れがあります。悪口を言ってしまったり、無視してしまったり・・・。もし、そういうことをしないとしても、気づかぬうちに冷たくしてしまうこともありえるでしょう。人を傷つけることは悪いことだと思います。多分、あなたもそう思っているから苦しんでいるのではないでしょうか?本当に難しい問題ですよね。あなたに呼びかけている2つの声は両方とも正しくて間違っているのです。(ややこしい言い方をしてすみません)2つの声、両方とも大切にして下さい。もし、「人を嫌いになるのはよくない」と言う声だけを大切にしていたら、自分の素直な気持ちを失ってしまいます。もし、「自分の心に正直に・・・」という声だけを大切にしたら、むやみに人を傷つけてしまいます。だから、両方の声を大切にして、バランスを取りながら生きていくしかないのです。僕はそうやって生きています。多分、皆もそうだと思うのですが・・・

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今だったらもう少し違う回答をしていますが、これは当時のベストを尽くした回答となっています。『兎の眼』は月に1~2回発行していましたが、毎回、上記のようなやり取りを掲載していました。紹介した投書の数は年間100を下らないと思います。『兎の眼』を発行する際は教育相談主任や管理職のチェックを受け、発行後は全校生徒とその保護者、そして教職員の眼に触れます。それらすべての人を意識して文章を作成することは自分自身を鍛えてくれたと思っています。

今、僕はこうしてブログを書いていますが、その原点はこの『兎の眼』にあると思っています。心理療法の世界では、最初に出会ったクライアントをイニシャルケースと呼び、そこでの経験がその人の心理療法家としての人生に大きな影響を持つと言われていますが(河合隼雄さんの言葉です)、僕にとって『兎の眼』はこのイニシャルケースとなっています。公立中学校での相談員は僕の最初の仕事です。働くことは傍(はた)楽(らく)こと。傍(はた)を楽(らく)にするための最初の一歩となっているのです。

当時、『兎の眼』は自分の想像を超えたものへと育っていきましたが、それは僕の力ではなく生徒からの投書が持つエネルギーによります。投書の持つエネルギー、そして生徒や保護者、教職員の視点が『兎の眼』を育ててくれました。それは、このブログも同じで、これは僕の力で書いているのではなく、いさどんの言葉、そして木の花ファミリーでの生活によって生み出され、育てられているのです。

そして書く目的は、一人の心をみんなで共有することで、共に学び合うきっかけを生み出すことです。『兎の眼』は普段語られない中学生の言葉を紹介することで生徒同士が深いところで語り合うきっかけを作りました。そして、このブログは木の花ファミリーでの暮らしを通した学びを共有することで、読者の学びのきっかけとなるよう心掛けています。

他者のために自分を表現していく

2011年1月にいさどんから貰った言葉。それがこのブログを書く目的であり、僕の人生だと思っています。

今、多くの人が自分のために自分を表現しているのではないかと思います。自分を知って貰いたい。自分の願いや希望を叶えたい。みんなから評価されたい。だから、理解されないと思った時、願いが叶わないと思った時、評価が落ちると思った時は内緒にします。思惑に基づいて表現したりしなかったりで、その結果、人びとは人の心を探り合うようになります。アメリカのトランプ大統領の過激な発言も北朝鮮によるミサイル発射も思惑に基づいた表現であり、世界を危険に晒していますが、それは人々の日常の鏡とも言えます。

だから自分のためではなく他者のために自分を表現していく。

それは何も「他人のためになろう」と意気込むことではなく、客観的視点に立って、そこから見える自分の姿を表現していくのです。客観的視点から見えてくるこの世界の法則性と自分の姿。善悪などの価値判断を超えプロセスを辿ったその姿が他者の学びとなります。この世界の法則は一つ。だけれども、その法則性の上でそれぞれが個性的な道を歩んでいます。それを共有することはとても豊かなことであり、深い学びともなるのです。ここでいさどんが2年前の7月に語ってくれた言葉を思い出したので引用します。

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常に意識を全体性に持っていく必要があります。あなたは今、個人的願望を抱えているわけだけれども、それをどう超えていくのか?それが重要です。個人的願望が全体性と共通していればいいのです。例えば、個人的願望が宇宙の法に基づいていたら、それは理に適っていきます。個人を高めるためというならば、それは全体性を持つことが個人を高めることであり、全体性と個人は本来、共通していることなのです。ですが、個人が抜きん出てしまうと、天が「それは違う」と滞りを与えてくれるのです。

心を磨いた結果出会うことがあります。願いが叶わない状態も自分を高める要素です。「はい!分かりました」と叶うようなことなら、その願いは本当に自分を高めません。

だから何より心を磨き続けることです。

そして、自分を高める努力をしていると、その努力したことでエネルギーが消費され、他のものはいらなくなります。いらなくなった状態をさらに超えた世界。共通の世界で極めていく世界がその次にあるのです。個人で高める努力から「みんなで」とか「一つになる」というところで極める世界があるのです。

それは前人未踏の世界。我々は前人未踏の世界を創らなければならないのです。



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個人的願望がなくなったら自分のために表現する必要がなくなります。他者のために自分を表現していく。それはきっといらなくなった状態でみんなで共通の世界を極めていくことです。みんながそんなふうに自分を表現しみんなで世界を極めていく時、この世界の実相が明らかとなり真の平和が訪れることでしょう。

そんな世界を目指して。

他者のために自分を表現していきます(^-^)



『兎の眼』平成12年11月8日発行(表)



カタカムナを生きる ~天が与えた僕の物語~



昨晩、いさどんによるカタカムナプレゼン第4弾が行われました。プレゼンの冒頭で語られたことは、今の人たちは表面上の出来事に反応しているということ。そのため立場が変わればば意見も変わり、一つの出来事に対して様々な見解が生じることとなっているのです。それが現代社会の混乱となって表れています。

カタカムナを学ぶということは、表面上の出来事の奥に流れる法則性を理解するということ。そして、カタカムナを生きるとは、この世界の法則性、天の意志に基づいて生きていくということです。

ヒフミヨイムナヤコト

プレゼンで世界の始まりから語りだすいさどんの言葉に木の花ファミリー憲章世界観「概要」を思い出しました。以下、引用します。

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宇宙の成り立ちや生命の神秘は、いまのところ科学で完全には解き明かされていません。したがって、それは心を通して認識することになります。

現在、過去、未来、そして全宇宙へと、心はどこまでも思いを馳せることが出来ます。

人間が自らの視点を離れ、この世界をありのままに眺めたときに、一つの大きな法則が見えてきます。また五感を超えた感覚、すなわち直観を通して見出すことが出来る宇宙や生命の姿もあります。私たちがこの憲章で語る宇宙や生命は、こうした方法で導き出したものです。

私たちは宇宙に始まりも終わりもないと考えていますが、ある地点を区切り、そこを「始まり」と見なすことも出来ます。現象をありのままに眺めていると、すべての現象が「想い」という種から生まれていることが見えてきます。宇宙も同じです。「はじめに言葉ありき」と聖書にありますが、言葉とは「想い」のことです。「想い」のみが存在している時点。そこを始まりと見なします。

「想い」は圧縮して爆発し、「相反するもの」を生みだしました。磁石の両極のように、相反するものは惹かれ合い、新たな振動を生みだします。それがこの世界を創っています。

相反する存在により、比較が可能となり価値判断が生まれます。光と闇、善と悪、美と醜、大と小などは比べることによって生まれた価値判断です。

この世界で生かされている人間は「自分」という意識、すなわち自我を持ち、自他を区別するようになりました。それによって所有の概念や欠乏感、そして欲が生まれます。そうした欲にもとづいて、人々が自分に都合の良い世界を作ろうとしてきた結果、人々は病み、争い、自然を壊してきたのです。

自我を通して物事を認識する人間は、こうした現象を「問題事」としてとらえます。それを解決しようと目の前の現象を深く見つめた者は、ある事実に気付いていきます。それは、すべての存在が「想い」から創られているということです。

「想い」はあらゆる価値判断を超えた善意と愛、そして調和から成ります。これは自然界から教えてもらえる事実です。自然界では、お互いの存在が生かしあっています。これは利他の精神の顕れです。善意により繋がり、愛が生まれ、愛により絆が生まれ、調和をもたらしているのです。悪、醜、偽、欲、貧など、この世でマイナスの価値を与えられている事柄も、すべてはこの「想い」、善意と愛と調和から生まれています。「想い」に立ち返れば、すべてはひとつなのです。

私たちは目の前の「問題事」を通して、この世界を創っている「想い」を認識する道を与えられています。「想い」を認識した時、人は善意と愛と調和に目覚めます。これは心磨きの道です。より多くの人が心を磨くようになれば、世界は善意と愛と調和で満たされていくでしょう。それが、私たちの生きている世界なのです。


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ここで語られている「想い」の圧縮とは「ヒフミヨイムナヤ」で飽和安定している状態、そして爆発とは「転がり出る」ことです。このようにして相反するものが存在するこの世界が生まれ続けているのです。

すべての存在が「想い」から創られている。この「想い」とは元の「想い」であり、天の意志とも言えます。個々の人間はそこから分かたれ、自分の「想い」を持つようになります。この自分の「想い」が人との差を強調し「問題事」を生み出してきました。ですが、「問題事」の奥を見通せば、元の「想い」へと至り、そこから世界や自分を見通せば、人との差で協調し繋がり合う豊かさを表現出来るようになるのです。

僕が持っている自分の想い。そこには感情や情動、思考などが含まれ、一つの視点、一つの世界を生み出します。それに囚われず、かと言ってそれを否定するわけでもなく、天の視点に立って、それが何を生み出していくのか、そしてどのように変化していくのかを見ていこうと思っています。その変化変容こそが天が与えた僕の物語。人との差で協調し繋がり合う豊かさを表現する物語です(^-^)



カタカムナを生きる ~心を美しくすればいい~

一昨日の晩、大人ミーティングにていさどんによるカタカムナプレゼン第3弾が行われました。この時、「いさどんによるプレゼンを聴く → 何か大事な話を聴く」というように心が動いたのですが、気づかぬうちに受け身の姿勢になっていました。場創りをするという意識が薄れ、そのためか途中で10分ぐらいウトウトしてしまいました。

それで何のためにこの場に参加しているのか?とあらためて自分自身に問うてみました。僕は最初からこのプレゼンを、ブログを書く機会にしようと思っていました。ですが、ただそこで話された内容を知識のように発信してもあまり意味はありません。ここ最近、カタカムナプレゼンをきっかけに2つの記事を書きましたが、どちらもプレゼンの内容よりむしろそれをきっかけとして自分に湧き上がったことを書いています。いさどん自身、プレゼンの際、パワーポイントの内容を語るのではなく、それをきっかけに浮かぶことを自由に語っています。そして、以下のようにも語っています。

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今、何回かに分けてこのプレゼンを行っていますが、終わった時、「結局、こんなことどうでもいいんだよ」と言うことになる。それは今から分かっているのです。大事を共有する過程として、こういうプレゼンを行っていますが、大切なのは、心をきれいにすることです。日々の暮らしを通して、心を美しくし、そして世界を美しくしていく。それが出来れば、知識は大切ではないのです。

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そう、だからプレゼンでいさどんが語っていることを知識として発信してもあまり意味はなく、こういう話で大切なのは揺さぶりとなることです。人は放っておくと自分の思考で凝り固まる傾向があるので、揺さぶりをかけ、常に進化し続ける真実へと人々が目を向けるきっかけとなることが大切なのです。真実は知識として誰かから教わることではなく自分で探求し続けるものです。その際、木の花ファミリーでは語り合うことを大切にしています。

プレゼンの最中、いさどんは何度も日馬富士の話題を取り上げていました。

日馬富士と貴ノ岩との間に起きたことは一つ出来事です。ですが、立場の違いによって様々な異なる見解が語られ、騒ぎが大きくなり収拾がつかなくなっています。一部報道ではモンゴル大統領が安倍首相との面会を希望しているとも報じられています。ただ2人の力士の間で起きたことがここまでの大騒ぎとなっています。これは様々な思惑を持った人たちの言葉をそのまま紹介し注目を集めようとしているマスコミの姿勢から生じています。前頭葉で思惑をぐるぐる回す人間が集まるとこのような混乱へと発展する恐れがあるのです。カタカムナで語られていることは、松果体を震わすことです。そこには思惑はなくただ出会ったことを感知していくことで、直観を磨き、現象そのものを捉えて人それぞれの立場を超えていきます。そうすることで一つの事実に基づいてみんなで認識を共有し気持ちよく生きていくことが出来るのです。

それで話しを戻して場創りです。プレゼンの時間、どのように場創りをしようかと考えました。それで思い浮かんだのが、部屋の前の方に行って、いさどんと同じようにみんなの方を向いてみることでした。そんなふうにして見ると、いさどんの能動的なエネルギーが感じられ、このエネルギーで場に臨むことが大切だよなとあらためて思いました。受け身の姿勢から発せられるエネルギーとは明らかに違うものです。それで、そんなふうに過ごしていると部屋の後ろの方からエネルギーを感じて、そちらを見てみると、しゅうくんが立ち上がって身体を揺すっていました。しゅくんといさどん、そして僕で三角形を作るイメージで部屋にエネルギーの空間をイメージしてみました。その後、みかちゃんが立ち上がりホワイトボードにカタカムナ文字を書き出しました。これで四角形になる。そんなふうにエネルギーの場をイメージして過ごしました。それが場にとってどんな効果があったかは分かりませんが、僕自身は能動的エネルギーでとても元気になっていきました。

話しをしなくても場創りは出来る。そんなことも心掛けたいと思っています。

僕は今、経理の仕事が忙しくなっているので、大人ミーティングに出ないで、帳簿の打ち込みなどをして過ごすことが多くなっています。一人でパソコンの前にいる時間が多くなっているので、自分自身の精神の健全さを保つことに細心の注意を払う必要性を感じています。だから大人ミーティングに出ている時は、最大限に場創りに努め、自分の状態をクリアにしていこうと思いました。

すべてはプロセスの中にあることでよいも悪いもなくて、ただただいただいていくだけなのです。要は自分から離れていられたら、どんなふうに物事が動いてもそこから天の意向を感じ学びを深め未来に活かせていけるのです。

そんなふうに日々楽しんで暮らしています。

11月お誕生日会の様子です。

円が縁を紡ぎ、宇宙の中心へと繋がっていく

自分がここにいる理由を考えていた時、「結局、縁なんだよな」という言葉が浮かんで来ました。そして、その言葉をきっかけにいさどんブログ「円が縁を紡ぐ~人間からヒトへ~」を思い出しました。そこにはこんなことが書かれています。

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トキは一方通行に、コッ、コッ、コッ、コッ、と確実に刻まれてゆく。それが昨日から今日、明日へと進むのを一直線に見ているのは、思考の幅が狭いからだ。単純な発想で見ていると左から右に動くように見えるが、ものが動くということは、そこに必ず中心となる一点がある。そして縁のあるものがその周りに集い、回転するという形になって初めて、ものが動くことが持続する。直線ではなく、円運動をしているのだ。
それは「縁」というもので紡がれる。「円運動」とは、「縁運動」でもあるのだ。縁とは、約束事。縁という見えない糸があり、それがバラバラであったものを約束のようにつないで、全体が回り、巻き込んでいく。それはあたかも銀河のようだ。
円の中心の一点は、止まっているかのように見える。しかしその一点も、さらに大きな役割のもとに何かの周りを回っている。中心が止まっている状態になったら、外の円運動も起きない。すべてが連動して動いているからこそ、個々の円も成り立つのだ。

~ 中略 ~

この世界の成り立ちは円運動から成り、それは秩序のもとに、約束通りに動いている。約束通り動くには、軸が必要だ。すべてのものの中心には軸があり、それがもう一つ大きな軸の周りを回っている。地軸があるから地球は自転し、振動し、歳差運動をしながら、太陽の軸のもとにその周りを回っている。そして太陽もまた同じように自転しながらセントラルサン(銀河の中心)の周りを回り、銀河も同じように、さらに大きなものの周りを回っている。単独で存在しているものは何ひとつない。すべてが無限に連鎖して、その関係の中で互いの存在を成り立たせている。ということは、世界がひとつだということだ。

~ 中略 ~


すべての現象は、円運動をしている。その円運動の関係の中で出会う現象に自らがどのような縁を持っているのか ――― 近いのか遠いのか――― それによってトコロが移り変わり、互いに対向発生をしながら円運動を続けていく。それが人生だ。
円(縁)は無限にあり、そのすべての中心をトキ軸が貫いている。つまり、この世界はいたるところがトキ軸だらけだ。我々の体はおよそ60兆個の細胞から成っているが、その細胞の一つひとつをトキ軸が貫いている。なんという宇宙ロマンだろうか。

~ 中略 ~

縁は、意図が働くことで生まれる。意図とは、糸だ。縁という見えない糸がバラバラのものをつなぎ、回転が起きて、現象(形)が生まれる。
人間には、自らが認識している自分と、認識できていない自分とがある。それはどういうことかと言うと、人間はある段階に至ると、それまで認識せずにいた新たな自分を発見する。しかしその自分とは、認識する以前からずっとあり続けたものだ。
現在の自分が成立する以前から、自分というものはある。過去の自分がつくったものが因となり、その結果として現象が現れる。それを因縁という。この世界は、因縁にふさわしく現象が起きる因果応報の仕組みで成り立っている。遠い過去からずっと続いてきた物語として現在があり、今この瞬間も紡いでいる縁が次の出来事につながり、そこからまた新たな縁が生まれて次の出来事へとつながって、物語は未来へと続いていく。因縁の始まりは宇宙の始まりであり、因縁の終わりは宇宙の終わりだ。それは永遠に続くということ。すべての存在は、宇宙の始まりから終わりまでをつないでいるひとコマだ。

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宇宙と自分は一つ。その中で過去から続く因縁によって今この場にいて、そして今の自分の言動が新たな縁を生み出していきます。それは円運動によって究極的には宇宙の中心と繋がっていきます。日々出会う出来事は、視点を高くすれば、無限なる宇宙の円運動のひとコマとして出会っているものであり、それは自らの生の結果でもあります。

何かに出会った時、自分の中にはいろいろな反応が芽生えますが、それは今までの生の結果であり多様な因縁があるからこそ、多様な反応をしているということです。その中で何を選ぶかで解消される因縁もあれば強まる因縁もあります。そして、それは無限に連なる宇宙の中心へと繋がっているのです。

今年の3月21日、太陽が春分点を通過した最初の朝にカフェ&ショップ ロータスランドがオープンしました。そして、5月26日、蟹座新月の日に合同会社ロータスランドが設立されました。この新しい動きを受けて、木の花ファミリーの経理の質と量は変化し、自分にとってはチャレンジの時を迎えています。そして、自分の心の中には様々な感情が芽生えます。自分の今までの生、因縁によって芽生える様々な感情。その中で自分が選んだ感情が波動となって宇宙の中心へと繋がり、この世界の一翼を担っていく。それは本当に些細なものであっても自分一人分、この世界に対する責任です。

僕は毎朝散歩をしていますが、最近は空を羽ばたく鳥がよく目に止まります。鳥瞰図。鳥の視点で自分や周りを常に眺めていること、それは感情に囚われず、ただただ流れのままに展開を見届けいただくこと。それはきっと自分の中の因縁をきれいにしていくことになると思っています。

円が縁を紡ぎ出会った木の花ファミリーの仲間たち。みんなと一緒にたんたんと日々を過ごして、自分の因縁をきれいにして、その波動を宇宙の中心に伝えて、僕は生きていく。

それは宇宙の歴史のひとコマであり宇宙そのものなのだと思っています(^-^)

木の花ファミリーのみんな、玉ねぎの苗取りをしています。

カタカムナを生きる ~神話は更新される~

カタカムナを生きる ~トキのズレ~」に書いたように、先日、いさどんからメンバーに向けてカタカムナプレゼンがされましたが、楢崎皐月氏がカタカムナの解読をする時、日本の神々の名前が参考になったそうです。

アメノミナカヌシ、クニノトコタチ、イサナキ、イサナミ、アマテラス

これら日本の神々は、カタカムナの単音思念で読み解くと、この宇宙の物理性を表しているのです。その物理性から生まれた物語が神話となっています。そのため、神話を読み解くことはこの世界の法則、この世界の奥に流れている意志を読み解くヒントとなるのです。

先日、いさどんは隠された神さまと言われるセオリツヒメについて以下のように読み解いています。

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ヒメとは女性のことだろう?秘かなメ。メは芽が出る・これから始まるということ。ヒとメはどちらかというと陰を示していて、奥にあって現象化の始まり。セは狭い。オはひとまずおいておいて、リは分離、ツは集う・番う。だから、セオリツとヒメのふたつに分けるとすると、セオリツなのかセヲリツなのか。オなのか、ヲなのか?つまり、オは六方向に拡大・収縮という意味で拡大のこと。しかし、それがヲになると、奥に達して収まるという意味でそぎ落とすということになる。男性が拡散することに対して、どちらかというと女性はそれを仕分けて必要なものを収めるということだから、「セヲリツヒメ」ということになる。でも、ヲはなかなか使われないね。トータルしてみると、エネルギーが集中している狭い道、いわば探究の狭い道(セ)の真理の奥に達して収まり(ヲ)、分離して(リ)、集う(ツ)芽(メ)が秘かに出ている(ヒ)。つまり、奥のほうにあって真理の芽がそこで今構えている状態。だから、セヲリツヒメというのは、今はまだなかなか真理が出てこないけれど、それが準備して待っているということ。この世界にはなかなか出てこないのだけれど、いよいよ出てきたら極めて狭くて奥のほうにある真理が引き出されるということだ。

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セヲリツヒメはアマテラスの伴侶です。アマテラスは古事記では女神として描かれていますが、本来は男神だと言われています。そのことはアマテラスという言霊にも表れています。アマテラスをカタカムナの単音で読み解くと以下のようになります。

宇宙空間の(アマ)正と反が露わになった(テ)場所が(ラ)極限に達する(ス)

これは拡散し分離して行く動きと言え、男性性と言えます。女神であるセヲリツヒメが隠され、そして男神であるアマテラスが女神とされている。それは本来、女性の領域であるところにも男性が浸食していることを表していて、男性が支配的となり分断が極みに達している現代社会の状況を表しています。

セヲリツヒメの復活。それは今生まれつつある神話であり、宇宙の物理性、そして時代の表現です。

話しは変わって。

世界の神話の中にはドラゴンスレイヤーに分類される話が多数存在すると言われています。それはどういうものかというと、財宝を守る龍が存在し、人間がその龍を倒し財宝を持ち帰るというものです。僕はこの神話は「現在の人間の特徴」を表しているのではないと思っています。

今、多くの人は自分の外に障害や悪を見出し、それを克服しようとしています。その姿は神話に登場する龍を退治する人間の姿に重なります。今の人間は、英雄になることに憧れ求めていますが、英雄になるためには克服すべき課題や悪を必要とします。そのため世界に課題や悪はなくならず存在し続けます。加えて、彼が英雄となった結果得るものは財宝という自分の望みとなっています。龍は神聖な生き物です。自分の望みを追い求める結果、神聖なものを失っていく。ドラゴンスレイヤーの神話はそのことも示唆しており、それは人々が自分の望みを追い求めた結果、人との繋がりが希薄となり、地球環境が悪化し続ける今の社会となって表れています。これは時代が生み出した人間の形であり、だからこそ世界各地にドラゴンスレイヤーの神話があったのです。

ですが今、新たな神話が生まれ、それは新たな人間の姿を示唆しています。例えば、「虹の戦士」の話。

地球が病んで動物たちが姿を消しはじめるときまさにそのときみんなを救う虹の戦士たちがあらわれる・・・。

そんなふうにアメリカ・インディアンが信じつづけてきた、最後の再生への物語。これは何かを倒すためではなく救うために立ち上がる人間の姿を示しています。そして望みは自分の幸せではなくみんなの幸せです。

そして日本では、艮の金神、国之常立神(クニノトコタチ)の復活です。地の大神様、地球神である国之常立神は、八百万の神々に対して心の掟を厳しく説いていましたが、そのため神々に煙たがられ、艮の方角に封印されました。その際、天の大神様は国之常立神に以下のように伝えたと言います。


「すまないが、一度この世の表から退いてくだされ。しかし、いつか必ず世が立ち行かなくなる時が来る。その時再び現れ、この世界を立て直してくだされ。」

その国之常立神が復活する神話が今、生まれています。富士浅間木の花祭りはそのことを表現するお祭りであり、それは「艮の金神と翁の問答」に表されています。

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艮の金神と翁の問答              

 
  
伊勢天照皇大神 熊野権現 富士浅間 ところは当初の氏大神。木の花の佐久夜の御庭におわします、金色(こんじき)の尊き姿の御身は、どなた様にてござりましょう。

金神  

この方(ほう)は、艮の金神と申す。
時いよいよ来たれり。この度は、地球(くに)最後の天意転換(たてなおし)。一度に清める神幽顕の三千世界(みちよかい)。 汝らの宇宙(うつ)、光一つ上ぐる仕組み。今の世は「我よし、力よし」の獣の世、蛇の「あやま知」支配する、穢れ(けがれ)逆巻く魔釣りの世。

      

艮の金神とはいかなるお方にてござりましょう

金神
この方(ほう)は、宇宙(うつ)を創りた元つ神。こ度の宇宙(うつ)の天意転換(たてなおし)、始原(はじまり)の、時より決まりてありた事。この方隠れている間、「我よし」「あやま知」逆巻いて、神が息の出来ぬほど、穢れ(けがれ)汚れたこの世界、最後の最後の大仕上げ。この方再び現れたなら、光に穢れ(けがれ)混じること、適わぬ(かなわぬ)世となるべきなり。古き仕組みに変わりたる、新たな仕組み始まれり。
縁ある御魂引き寄せて、掃除洗濯 済みしものより、神の使える器となりて、こ度の尊き天意転換(たてなおし)、汝らご用に使うてやる。


一度はお隠れなされた御身が、再び現れ出る(いでる)と申されるか

金神  

いかにも。この世は逆さまじゃ。どうにもならぬ者どもを、今から改心させるため、世の中ひっくりかえすぞよ。これからは、神人(かみびと)、天地が一体の「弥勒の世」が始まるぞ。
故に皆々様、御魂磨いて下されよ。御魂磨かずおられては、使えるものにはならぬぞよ。
神多くの人民の、御魂目覚めて欲しいのぞ。汝ら皆々大切な、地球(くに)の日月の神々じゃ。
一なる花を二の花へ、二なる花を三なる花へ、大和の御魂を呼び覚まし、腹にまことを据えるのじゃ。
この心、天教山より日の本の、隅々にまで広げるぞ。汝らその役、引き受けられい。

      

引き受けましょう。我らこれより「弥勒の世」、創らんがためありましょう。

金神  

一度は渡したその榊。天の元に供えられい

(金神は後ろを向く。翁が榊の枝を金神の腰に差して退場する。
金神、根付きの榊に持ち替えて、四方でへんべいを踏んだ後、神座に戻る)

皆々様、いよいよ金神動くぞよ。さすればこの世、嬉し嬉し、愉し愉しの世となりて、真(まこと)の世が花開く。皆々笑え、愛し合え。真(まこと)次々現れくるぞ。
あっぱれ、あっぱれ、富士は晴れたり、日本晴れ。
オー、オー、ヒフミヨイ マワリテメクル ムナヤコト オー。
真(まこと)の神が現れる。神人(かみびと)共に現れる。弥勒の世の幕開けじゃ。
真(まこと)の真釣り(まつり)始まるぞ。新たな時代へ、船出の時じゃ。幕開け祝い踊ろうぞ。



☆彡 ☆彡 ☆彡


虹の戦士も艮の金神の復活も世のため人のために生きる人の姿を示しています。これらは時代が今、生み出している神話であり、この世界の奥にある意志の顕れです。これらの神話が世に広がり、それを生きるものが増えて行った時、世界は自ずから変化していきます。僕ら木の花ファミリーはその先駆けとしてみんなで助け合い学び合う暮らしをしています。それは新たな神話という時代の意志を受けた世直しであり、生きることがそのまま世直しになる暮らしです。





カタカムナを生きる ~トキのズレ~

トキのズレ


11月18日20時43分は蠍座新月です。木星が蠍座にある今、その蠍座での新月ということでとても幸運な星回りと言われています。ならば、ブログのUPもそれに合わせようかという心も働くのですが、そういう意図はいらないなと思いました。欲の心が働くので。

天体のリズムが大きな流れであることは間違えありません。ですが流れは単層ではなく多層的になっていて、そこには「トキのズレ」が存在するのではないかと思うのです。例えば、新月は新しい何かを始めたり、宣言をするのに適した時と言われていますが、すべての人間のリズムがそれと一致しているわけではなく、多少の「トキのズレ」を含みながら、そのズレが立体的な動きを生み出して、シンフォニーとなりこの世界を豊かにしているのではないかと思うのです。

だから頭で知った新月という情報に合わせて書くのではなく、湧いて来た時にそのまま言葉を紡いでいけばいいのです。それが僕のリズムです。天体のリズムに完全に一致することもあれば、ズレる時もある。一致すれば大きな流れの支援を受け、ズレたらズレたで、それは「トキのズレ」としてこの世界に奥行をもたらしていくのです。なんにせよ、僕はこの世界の多層の流れの一部であり、「トキのズレ」が大きな流れとの間で美しいハーモニーを奏でるように心掛けようと思っています。

ヒフミヨイムナヤコト(1・2・3・4・5・6・7・8・9・10)

カタカムナが伝えるこの世界の宇宙法則は至るところに多層的に存在しているのです。カタカムナは13,000年前に存在したと言われる文明ですが、カタカムナの人々は、現象界の奥にあって、現象界を支える潜象界の存在を直観のよって感知していました。そして、この世界が48音の響きによって出来ていることを感知し、八鏡文字を用い、宇宙の創造、発展、消滅について体系づけました。木の花ファミリーは2013年にカタカムナに出会い、生活に取り入れて来ましたが、先日、あらためていさどんからみんなにプレゼンをする時間が持たれました。

カタカムナプレゼンはこんな言葉で始まりました。

~ 因果応報の奥にある天の意志 客観背後を学ぶ ~

人はみな、目の前の出来事にその人独自の反応をしています。その反応が新たな「因」となり結果を生み、その結果に対する反応がまた「因」となり・・・という形で繰り返されていきます。プレゼンの際は、株価の上昇が例として挙げられましたが、投資家はそのニュースを喜びますが、株を購入しない人々にとってはどうでもよいことです。そして、もっと長いスパンの流れを見る人ならば、経済成長による地球環境の悪化が見えてきます。どんな反応をするかであらたに生まれる結果が変わっていきます。自我の赴くままに反応していると状況に翻弄されますが、因果応報の奥を見通すことでこの世界の本質が見えてきます。

大切なのは本質に基づき生きることでそのためには自我を超えていく必要があります。自我を超えることで因果応報の奥を見通す目を育み、天の意志を感じるようになっていきます。その時大切なのは知識ではなく感じる力です。このプレゼンは、りゅうしろうくんが知意行一体を深めたいと言ったことがきっかけとなり行われたのですが、知意行の「知」、これは思考的能力ではなく、感じる力なのです。直観で何が大切かを感じる力。それが知意行の「知」ですべての基盤となるのです。

そんな感じで。カタカムナの知識を得ようとするのではなくその前提となる世界観を確認することから始まったプレゼン。プレゼンを聴きながら思ったことがあるのですが、そのことはまた稿を改めて書こうと思います。

「トキのズレ」が多層になって因果応報の海となっているのがこの現象世界です。この文章は最初に書こうと思ったことではないけれども書こうとしたら浮かんできた言葉です。その言葉をそのまま少しずつ書いていたらUPするタイミングは結局、11月18日となりました。時間まで見ると、まだ新月にはなっていませんが・・・そのズレを意識し生きていこうと思います。




宇宙を生きる(2)

いさどんブログ「21世紀のいのちの捉え方」にはこんな言葉があります。

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死を迎えることは、人生の区切りをつけ、次のステージに行くことでもあるのですから、亡くなった人を見送る人たちは、死者に対して、「こうだったらよかった」「ああだったらよかった」と考えるだけでも、その人が次のステージに行くための後ろ髪を引くことになるのです。

生死の流れからすると、亡くなった人たちは必ず次へ行かなければいけないのです。ですから、そこでは未練を持つのではなく、その人との出会いから感情を入れずに学ぶことが大切なのです。学ぶことがその人の死を生かすことになるのです。

生きている者からすると、その人の生き様を見せてもらったのですから、「あの人はこう生きてこのような結果を迎えたのだから、自分はこのように生きていこう」と自らの生き方につなげ、学ぶことが、人の死を生かすことになるのです。どんな人の生き様であっても、それが殺人者であろうが、自殺した人でも、一つ一つの事例として残された人に見せてくれているのです。

よくある話として、余命3ヶ月と宣告されると、「どのようにその期間を過ごしたらいいのでしょうか?」という質問をご家族から受けることがあります。その時に僕が答えるのは、その人が亡くなっても、その人の生き様(人生経験)は残った人たちの中に生かせるということです。ですから、生きている間にその人を観察し、なぜ今のような状態になっているのかを理解した時に、その人の人生を自分も生きたと捉えることができるのです。
わたしたちは自分ひとり分の人生を歩んでいますが、縁の近い人の生き様は身近で赤裸々に見せてもらっているのですから、それを自分も経験したと同じように捉えることができるのです。ですから、そこから学び、自分のこれからの人生に生かすと、死は世代を超えて生き続けることになるのです。

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この言葉は身近な人の死について語っていますが、日々ニュースから流れる死についても同じことが言えると思います。2年前の今日、パリで同時多発テロが起きました。当時の僕はこのニュースに大きな衝撃を受け上記の文章を踏まえ以下のように書きました。

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人の生死を客観的に捉え、そこから学ぶことが大切です。今回の事件もそんなふうに生かされた時、犠牲者も安穏なる気持ちで次のステージにいけるのだと思います。

僕は客観性に基づく祈りを捧げます。

そしてこの事件を未来に生かしていきたいと思います。

客観性の中で、すべての存在は大いなる循環の中で生かされていきます。一人一人が自分の立場を離れて客観性を育んでいくことが大切です。世界で起きることは常に自分自身への問い掛けとなるのです。


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あれから2年。テロがなくなることはなく今年もパキスタンやソマリア、スペインなど様々な地域でテロが起き続けています。それは人類がテロという悲しい出来事を学びとして生かせていないからだと思います。学びとして生かすためには、それぞれの立場を離れ、過去から未来へと続く流れの中で出来事を捉えていく必要があります。そんな取り組みとして歴史的視点、そして貧困や格差、宗教の違いなど構造的分析がなされていますが、その奥にある一人ひとりの心にメスが入っていないのです。

たとえば「命には囚われない悟り(2)」で取り上げているクラウドアトラスの主人公は、公式ホームページで「世界を救うまでに魂が成長した男」と紹介されています。ですが彼のした行為は、肉親への愛着や執着に基づくもので、敵対するものを悪とし殺害するというものです。映画では全く触れられていませんが、敵対し殺害された人たちにも家族がいて、そこには同じように肉親への愛着や執着が存在するはずなのです。悪とされ排除された側には憎しみが生まれ、その憎しみは人をテロリストへと導く可能性を秘めています。

肉親や身近なものへの愛情から敵対するものを排除する。

もし多くの人がこんな物語を英雄物語として受け入れているとしたら、その心が世界にテロリズムを生み出し続けているのかもしれません。

一人ひとりの心の総和が世界の出来事を生み出しています。だから世界で起きていることを自らの心の反映として一人ひとりがしっかりと向き合うことが大切なのです。そんなふうに生きる時、現象の奥に流れる天の心が見え、この世界の奥深さに気づきます。

その時、人は宇宙と一体、宇宙を生きるようになり、真の調和が実現するのだと思います。

いさどんさつまいも収穫





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