ただ出会う感情を楽しんでいく

出会う出来事を感情を挟まずにいただいていくように、出会う感情も感情を挟まずにいただいていく。それは感情から自由になるということです。出来事をいただくということは我慢とは違います。常に感情から自由でニュートラルである必要があります。

過去に滞りをいただいた時のことを思い出すと、大抵、何らかの感情に飲み込まれていることに気づきます。それは自覚している時もあれば、無自覚の時もあるのですが、感情が物事を見えなくさせているのは事実です。

自らの感情を表現しながらも、それを離れて眺めて、どう展開していくかを楽しんでいく。そんな姿勢が大切なのだと思います。この世界の中のものはすべて変化していきます。ならば感情も変化していくのですが、感情に飲み込まれてしまうと、それが絶対になり感情を満たすことに心を奪われていきます。そして、感情に翻弄され、それが出来事にも影響し右往左往することになります。

出会う出来事が自分の今までの生き方の結果であるように、出会う感情も自分の今までの生き方の結果です。それは自分に相応しく与えられています。そして、今の自分の感情が未来を生み出していきます。だから常に自分自身を見つめ導く必要があります。

変化変容がこの世界の法則です。その法則に自らの感情を委ね、出会う感情を楽しんでいく。そして感情が生み出す出来事をいただき楽しんでいく。そんなふうに生きていけば、きっと自分自身が天の法則の表現となります。

今、世界には多くの滞りが発生しています。それは今までの人類の歴史の結果であり、そこから生まれる感情も同様です。湧きおこる感情のままに行動していたら、今まで通りの世界が展開することになります。

今、北朝鮮がミサイル発射の実験を繰り返しています。

それは今までの北朝鮮や韓国、日本、中国、アメリカなど関係諸国の政治や経済が生み出している結果です。そこに感情的に反応し、そこから判断を下していたら今まで繰り返しとなります。例えば、それに脅威を感じて米軍と自衛隊が共同訓練をすることや外交圧力を強めることから新しい動きが生まれるようには思えません。

今までの自分たちを振り返ることで認識を深め、そこから新しい感情が生まれることで新しい動きは生まれます。きっとそれが滞りの解決へと繋がっていきます。

政治や経済、そして社会の動きは一人ひとりの心の総和です。一人ひとりが日常の中で自分を見つめ導くことで新たな動きが生まれます。それは人間の理解、理屈を超えた動きであり、だからこそ希望があります。どうにもならないと思える状態も変化していくのです。そうだから、ただ出会う感情を楽しんでいこうと思っています(^-^)

(以下、7月22日、早朝の空と富士山です)






10次産業を実現している場所

木の花ファミリーの経済について説明している時、いさどんはこんなふうに語りました。

☆彡 ☆彡 ☆彡

うちの経済は本当に面白いよ。NPO法人や農事組合法人、合同会社などがあって当然それぞれが独立した帳簿を持っているんだけれども、その奥には生活共同体木の花ファミリーがあって、生活共同体がすべての組織の運営をしているんだよ。だからどこにお金があってもみんなにとっては同じ。みんなのために使われている。それで6次産業化も完全に実現している。いや、6次どころではないな、1次+2次+3次で6次産業、うちはそれに4次も加わるから10次産業だよ。「4」は「死」。生きるものが行きつくところ。つまり究極。そして、「10」はカタカムナで言えば、統合。1+2+3+4=10、ヒフミヨイムナヤコト、「ヒト」を生み出す暮らしを木の花はしているんだよ。

☆彡 ☆彡 ☆彡

聴いていて面白いなと思いました。そしてネットで10次産業という言葉を調べたら、いくつかの記事にヒットしました。10次産業、使われ始めている言葉なのですね。

その一つがYahooニュース「農業・漁業の再生は第10次産業化の発想で!〜知的コーディネート力がカギ」ですが、そこにはこんなふうに記載されています。

☆彡 ☆彡 ☆彡


4次産業が1次、2次、3次産業を新発想でコーディネートすることが重要だ。足し算すると第10次産業。まさに大学などの研究機関が起点となって、産学連携をダイナミックに進めるということだ。これは本気で行うなら価値がある。どれだけ本気になってできるか、にかかっている。大学や研究所、学会が起点となって、様々な分野の連携を促しながら、新たな展開をすることができるなら、まだまだ、日本の社会が伸びていく余地はある。

日本の社会は蛸壺化してしまった。横断的な繋がりや発想が出にくい社会になったのだ。

 ~ 中略 ~



第10次産業化が閉塞した日本の起爆剤になる。第10次産業によって何ができるか、何が生まれるか。日本の新たな挑戦だ。

☆彡 ☆彡 ☆彡

4次産業とは情報産業や医療産業、教育サービス産業など知的集約産業に対して使われるようになってきている言葉ですが、上記の記事では4次産業が持つコーディネート力に注目して、そこに6次産業成功の鍵があると述べられています。

現在、多くの6次産業の取り組みが失敗に終わっているようです。そんな中、木の花ファミリーでは特別な努力なしに6次産業が実現しています。それは木の花ファミリーの産業は、生きることそのものであり、そこにはすべての取り組みが含まれているからでしょう。そのため、それは経済的成功だけではなく、生活の充実、人格の向上、人生の意味の探求など様々なものをもたらすのです。そして最終的には僕らは「ヒト」となります。「ヒト」とは何か?いさどんはこんなふうに語ります。

☆彡 ☆彡 ☆彡

ヒトというのは、人間という地球上で物理的に進化してきたもののことではないんだよ。それは、物理的に進化してきたものが最終的に到達する目的地点であり、宇宙にはもともとヒトという意識レベルの存在があったはずだ。なぜなら、ヒトとは宇宙の仕組みをマスターした存在を言うのだから。
ついつい人間たちは、ヒトのことを人間と勘違いする。人間とヒトでは、定義が違う。ヒトは形ではない。宇宙の法を理解し、マスターした存在をヒトと言うのであり、それは目覚めということでもある。

 ~ 中略 ~

人間は何か滞りに出会うと、それを不愉快なものだと捉え、滞りを避けようとする。しかし滞りを乗り越えた時、そこでは必ず一回り進化した新たな世界に出会う。つまり滞りとはとても大切なものであり、我々にはその滞りの正体を見極めるだけの余裕が必要なんだよ。

 ~ 中略 ~

この世界は人間の理屈を超えたところで成り立っている。だから科学や理屈で考えて納得できるところを超えた時に、奇跡が起きるんだよ。

宇宙は奇跡の連続だ。なぜなら、もともと人間の思考のキャパを超えたところで成り立っているのだから。だから宇宙を生きるという意識レベルを考えるのならば、科学や理屈を超えたところでものごとを受け取る器を持つことが必要だ。そうでなければ、真実は観えてこない。それには、人間壊しをすることだ。人間を壊して、ヒトとして存在する。それがヒトイズムだ。


☆彡 ☆彡 ☆彡

人間として生きていると様々な滞りに出会います。その時、人間としての自分の思考を超えて、余裕を持ってそれを受け取り、そこから学んでいく。そうすることで新たな自分と出会います。それは絶えず続く人間壊しであり、それが「ヒト」への道です。そして、そこを歩むことが生きる本来の目的です。

今、社会は細分化され、産業も1次、2次、3次、4次と分かれています。そして人々の関心は経済的なものに特化し、マスコミは消費を煽り、政府は経済成長を求め続けています。そのような中、社会的分断や対立、環境破壊が進んでいます。これは人類が出会っている大きな滞りです。

大切なのはこの滞りを余裕を持って受け止め、大きな視点から見つめることです。

先に紹介した記事にもある通り、今の社会は蛸壺化することで人々から繋がりを奪っています。そして産業は生活から切り離され、細分化されています。その状況から非効率や無駄、孤立が生まれ、それが滞りを生み出し続けているのです。そこには滞りから学ぶ人間壊しはありません。

木の花ファミリーにとって産業とは生きることそのものであり、そこにはこの世界のすべてが含まれます。宇宙に想いを馳せ、季節の移り変わりと共に作物を育て、恵みをいただき、みんなで喜びを分かち合います。それがそのまま経済活動ともなっています。すると失敗事例が多い6次産業化の取り組みが努力なしに実現していきます。

それはなぜか?

きっとすべてが繋がり無駄なく生かされているからです。もちろん、その暮らしの中にも滞りはありますが、僕らはそれを人間(=自分)壊しの機会とし、「ヒト」への歩みを進めるように努めています。

今、人間社会に求められていることは様々な繋がりを取り戻すことであり、その過程で人間(=自分)を壊し、「ヒト」への道を歩むことです。その時、社会の産業は至るところで繋がりたくさんの10次産業が現れることでしょう。

そんな未来の先駆けとして暮らしていこうと思っています(^-^)

ジャガイモ一斉収穫の時の写真です。

時代人となる

7月26日はマヤの新年です。3年前の7月26日、メキシコの太陽マヤ族最高司祭である尊母ナー・キン氏が木の花ファミリーを訪れ、宮ノ下広場でマヤ新年”10OC”を祝う祭典を行いました。それ以来、木の花ファミリーではこの日にみんなで集まり調和の祭典を行っています。今年は朝6時に宮ノ下広場に集まり大切な時間を共有しました。祭典の最後、霧雨の中、いさどんはこんなことを語りました。

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今、ミストシャワーのような雨が降っていますが、雨は命に潤いを与えてくれます。祭典だから晴れて欲しい。それは人間の都合で、実際にすべての日が晴れ渡ったら私たちは困ってしまいます。命の潤い、それをいただきますという気持ちで浴びれば尊いものともなります。自分の都合を手放しいただくことの大切さをこの雨は教えてくれています。
毎日生きている限り出会う出来事はすべて生きた証として相応しく出会っています。どの現象もそこに生きる人達の生き様の結果与えられています。滞りに出会ったならば、自らの生き様を変えていけば、その滞りは自然に消えていくのです。それなのに生き様を変えないで現象だけを変えようとするのが欲の心です。現象は因果律によって約束されています。そのものに相応しい現象が現れます。出来事を不愉快だからと言って解決する時代はもう終わりです。どういう時代にするかは、そのものがどんな人生にするか、何を望むかによって変わってくる。つまり、生きることが自分の手の中にあるのです。今までなぜ人々の手の中に生きることがなかったのかと言ったら、一人よがりでこの世界の仕組みを無視して欲のままに生きていたからです。その結果、自らの欲に翻弄され人生を失っていくのです。

※いさどんの言葉全文はいさどんブログ「3000年に向けて新たな時代を生きる人々へ」をお読みください。

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生きることが自分の手の中にある。この言葉を聴きながら、僕は先日、養蜂場でいさどんに聴いたこんな話を思い出しました。

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一つの群れに一匹だけ存在し数年間生きる女王蜂ですが、その役割は産卵をするだけです。巣の清掃、幼虫のお世話、蜜集めなどは働き蜂が引き受け、約1ヶ月(冬場は半年)という短い寿命で新陳代謝していきますが、コミュニティの在り方を決めているのは寿命の短い働き蜂なのです。

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短いサイクルで入れ替わる働き蜂は一人ひとりの人間、そして女王蜂は時代を表しているように思えました。いさどんブログ「私たちは時代人(じだいびと)です」に書かれているように、時代は生命であり、時代が意志を持って、時代を紡いでいます。ですが、一人ひとりの人間の生の在り方が時代を創っているのも事実です。それは人間が現象化を担うからであり、その姿は、様々な役割を担う働き蜂がコニュニティの在り方を決めているのと同様に思えました。僕たちは一人分時代を担っているのです。

時を司るマヤの新年。それは時代の流れの節目です。

このタイミングで、自らの欲を離れ、あらためて現象の奥を見つめ時代の流れを意識しましょう。その時、見えてくるのは、以下のような時代からのメッセージです。

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時代は生きています。時代は意志を持っています。わたしたち人類はその時代の変化を感知し、時代に寄り添っていく立場にあるのであって、時代を創ろうとする必要はないのです。

そのように考えていくならば、この世界は一体です。すべてのものが時代と共に一体となって動いています。それが宇宙の実相です。そのような意識レベルを有した者が地球上に現れたならば、その響きがこの世界に放たれ、それに共鳴した者たちの行動が少しずつこの世界を変えていきます。そしてさらにそれに共鳴した者が行動することによって、その響きがこの世界に放たれていく――、その連鎖が時代を動かしていきます。その響きがこの世界の混乱を鎮め、人類の営みによって傷つけられてきた地球を包み込み、地球を本来の美しい星へといざなっていくのです。

 〜 中略 ~

今こそ、わたしたちは自らを自我の枠から解き放ち、この無限なる宇宙の中で自由自在に生きる時が来たのです。わたしたちの中から願望や野心が消えた時、宇宙の真理が湧いてくるようになります。そして、人類が誕生した目的にのっとった最もふさわしいポジションにわたしたちは立てるのです。そういった真理に目覚め悟った者は、時代を読み、流れを感じ、今を生きる「時代人」となるのです。


それが、21世紀初頭にあたり、時代がわたしたち人類に伝えているメッセージです。


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マヤの新年。時代人となることを宣言します(^-^)

2017年7月26日マヤの祭典@宮ノ下にて

奥に流れているものに目を向ける

カフェ&ショップ・ロータスランドでは今、土用の丑の日フェア!を開催しています。その初日の朝、準備に慌ただしくしているみんなを眺めながらいさどんはこんなふうに語りました。

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こうやって賑やかにしていると、人の目は表面に顕れる出来事にいきます。ですが、その奥に流れているものがあってそれは常に新しい流れを生み出し続けています。そこに目を向けていないと新しい動きには間に合わなくなっていくものです。

ロータスランドが始まり、私たちの暮らしは特に忙しくなりました。忙しい毎日を送っていると、給料を貰い生活をしている人々ならば、ストレスが溜まってきます。そのためストレスを解消するためにお金や余暇が必要となります。ですが、ここの人達は忙しい毎日を送っても疲れて眠くなるだけです。それはこの暮らしの安心感がもたらすものですが、その余裕、ゆとりのようなものを心磨きに向けていく必要があるのです。

忙しく賑やかな毎日を生み出している奥のもの、そこを緻密に見ることによって、プロセスから学び、それは自分の成長として積み上がっていきます。その成長が天の生み出す新しい流れと呼応していくのです。表面的な賑やかさにかまけて、安心感の中、ぼうっとしていると次の流れには間に合わなくなるのです。

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この話を聴きながら、僕は自分のことを振り返りました。

人と人、人と自然とが調和した木の花ファミリーの暮らしは、少ないお金、そして低い環境負荷で豊かな暮らしを実現しています。それは環境破壊やそれに伴う異常気象、経済格差や貧困、戦争や紛争、人々の分断や孤立など様々な問題が溢れている現代社会に対して一つの答えを提示しています。一般社会で暮らす中で様々な矛盾を感じて苦しんだ僕は木の花ファミリーで暮らすことを選びました。それは一つのゴールであり、僕は形の上では正解を選んだのですが、数年後には意欲をなくしている自分がいました。僕が選んだ答えは到達点であり、その暮らしをそのまま続けていればよく、当時の僕はそれ以上何かを変化させる必要を感じていませんでした。形ばかりに目を向けていた僕は、その奥から生まれる新しい流れに間に合わなくなり、次第に停滞し意欲をなくしていったのです。

木の花ファミリーの暮らしは自然界をモデルとしています。すべてのものが生かし合い支え合っている自然の姿を人間社会に顕すことを一つの目標としています。ということは自然の動きと連動している必要があるのです。

春夏秋冬。ただ繰り返しにも見える自然の動きですが、よく見ると、毎年新たな動きがあり、自然は常に新しいところへと向かっています。変化変容が自然の本質です。

それは木の花ファミリーの暮らしも同様です。自然界をモデルとし、天の流れが生み出したこの暮らしは変化変容し続けます。表面的には同じことの繰り返しに見えたとしても、その奥には常に新しい流れが生まれ続けているのです。そこに目を向け、自身も共に変化していかないと流れに置いていかれます。するとそこで起きていることが分からなくなり、意欲を失っていくのです。

このような状態になると、「変わろう」と思ってもなかなか変わることが出来ません。おそらくそれは自分の在り方が流れから外れてしまっているからです。流れに沿っていれば、変化は自ずから生じます。なぜなら、変化変容がこの世界の法則であり、自分もその一部だからです。2014年の終わり、僕は変化について以下のように書いています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

このBLOGを立ち上げた時、僕は別に「変わろう」とは思っていませんでした。ただ広い視点を持つことを心掛けて毎日を過ごしていました。その結果、僕はとても幸せになりみんなに変わったと言われます。一方、僕が意識的に変わろうと努力した時、僕は変われなかったし、あまり幸せにもなれませんでした。

その違いは何か?

僕が意識的に変わろうとした時、僕は自分の変わる姿をイメージしていました。評価される自分、出来る自分をイメージしていました。要は自分がかわいかったのです。そして、自分に囚われていました。その囚われが僕の変化を邪魔していたのでしょう。




☆彡 ☆彡 ☆彡

変わろうと思っても、それが自我(エゴ)の思惑ならば、変化が生まれることはなかなかありません。大切なのは、変化変容を本質としている自然の流れに沿うことです。そのためには常に出来事の奥に目を向ける必要があります。今の形、自我が生み出す世界に安住していると人は流れから外れ停滞していきます。そして変化は遠ざかっていきます。ですが、その奥に流れるものに目を向け心を開く時、変化は自ずと生まれます。

天の流れが生み出す変化。それは自分の想像を超えた大いなるもので、何気ない日常も深い体験となりただ出会う出来事を楽しむことが出来るのです。

ただ出会う出来事を楽しんでいく

そのために奥に流れるものに目を向け続けていこうと思いました(^-^)



自分を守る心を手放す

2年前の今頃、衆院で安全保障関連法案が可決され話題になる中、いさどんは「自分が総理だったら・・・」という仮定でこんなふうに語っていました。

☆彡 ☆彡 ☆彡

私たちは非常に豊かな国であり、
技術大国であり、
世界の先頭を行く国のひとつですが、
そこであえて皆さんに提案したいと思います。

私たちは無駄で不必要な軍備を全て放棄します。

そのことによって、
私たちは日本の財政再建や
世界各国の貧困をなくすことにつなげたいと考えています。

そして、
新たな豊かさを構築していくのです。

そこで、
隣国からの侵略に対する脅威については、
たとえば隣の国が攻めてきたとしますよね。

そうしたら、
その国が日本を支配すればいいのです。

つまり、
私たちの国はそれを受け入れる国であり、
隣の国は支配した国になるのです。

支配した国というのは、
いつも攻撃的で貧しいこころを持っています。

そして、それを受け入れる国は、
常に調和的なこころを持っているのです。

そうすると、
たとえばキムジョンウンさんがこの国のリーダーになったとしても、
「キムジョンウンさん、
調和的な国を一緒につくりましょう!」と
共に国づくりをしていけばいいのです。

侵略する国というのは、
持続不可能なのです。

調和する国というのは、
持続可能です。

そうすると、
侵略してきた人たちの中に
調和のヒビキが浸透していくのです。

もし、
武器を持たない中立的な国があるとしたら、
その国の存在は稀に見るものです。

そうすると、
隣国がその国を侵略しようとしたときに、
まわりにいる国が
「あの国にこの国を侵略させてはいけない!」と
この国を守るようになるのです。

それだけの優れた国であるならば、
ちゃんと守られるのです。

ですから、
自分を守ろうとすることを
放棄すればいいのです。

世界の国家と共に、
そういった宣言をできたらと願っています。

特にアメリカは世界のトップなのですから、
まずアメリカがその見本を示したら、
他の国々が追随すると思うのです。


☆彡 ☆彡 ☆彡

こういう話を聴くと、「そんな都合のよいように行くわけがない。」と反応する人もいるかと思います。ですが、その反応自体が自分を守る心です。自分を守ろうとする心を持ちながら、形だけ宣言をしても、そこには思惑が働き、その思惑に相応しい出来事が起きるものです。加えて、これは今まで実際にやったことがない話です。結果を所有しない覚悟を持って行動に移した時、どんな展開になるかは誰にも分からないことです。ですが、多くの人は今の自分の視点から未来を予測し、やらないことを選ぶのです。それもまた自分を守る心の反映といえます。

この話のポイントは、自分を守る心を手放せるかどうかにあるのだと思います。例えば、本当に日本が軍備を放棄した時、この通りに物事が進むかどうかは分かりません。ですが、それは新しい未来への一歩となり、覚悟があれば、人々はただ出会う出来事をいただき楽しむことが出来るでしょう。

自分を守る心を手放せれば・・・の話ですが。

この世界は響きが創っている。

それは確かな法則ですが、響きは自分の都合で生み出せるものではありません。日々の心掛け、実践がそのまま響きとなって顕れます。自分を守る心を手放す。人々がそれを完全に成し遂げた時、その場にどんな響きが生まれるか?それは前人未踏の世界なのではないでしょうか?血縁を超えてすべてのものを共有しようとする木の花ファミリーの暮らしはそんな響きを生み出す試みです。

楽しみに見ていて下さいね(^-^)

こちらは先日開催された大人サミットの写真です。





ただひたすら傍(はた)楽(ら)いていく

木の花ファミリーブログ「世界のお金がみんなのお金になるように」を読んだ友人からこんなメールを貰いました。

☆彡 ☆彡 ☆彡

記事読みました。

中野くんが木の花ファミリーに移住する前確かみんなで会ったよね。
その時を懐かしく思いました。

今はどの写真をみても、(中学校で)相談員をしていた頃よりずっと満ち足りた穏やかな表情をしているなと思います。中野くんの生きる場所を見つけたんだなと感じます。

私は今、軽度知的障害の生徒が社会的自立と就労を目指す高等部単独の特別支援学校で、3学年主任をしています。私たちがそれぞれの場所で充実した生活を送れることの幸せを感じます。お互い、一歩ずつ地面に足をつけて成長していきたいね(^-^)

☆彡 ☆彡 ☆彡

今の社会は一人ひとりの欲望を最大限に尊重することで発展してきました。テレビCMは人々の欲望を刺激し、ニュースや新聞は、経済発展を神のように祭り上げ人々の消費を促します。個の尊重、プライバシーという名の下、人々の自我(エゴ)は膨らみ続けて来ました。

そのような社会の中で、自我を手放し血縁を超えて生きる木の花ファミリーの暮らしは人々の理解を超えることもあるのでしょう。「不自由の自由、それが本当の自由」に書いているように、僕らは今まで多くの無理解に出会って来ました。ですが、僕らが生き生きと生きる姿は言葉を超えた説得力があります。そのためか、僕らは無理解と共に支援者とも出会って来ました。だから、この道を生き抜き幸せになっていくだけ。友人からのメールを読んであらためてそう思いました。

個人の幸せを追求する視点から僕らの生活を見てみます。

すると、給料がなく休みもなく、毎日朝早くから夜遅くまで働き続け好き勝手出来ない姿が浮かびあがります。そんな僕らの働きについて、いさどんは冗談で「ブラック企業を超えたブラックホール企業だ」と言ったりしています。それでも僕は友人から「満ち足りた穏やかな表情をしている」というフィードバックを貰っています。不思議ですよね?

それは僕らの「働く」が労働ではなく「傍楽(はたらく)」だからなのだと思います。経済は働くことによって生まれますが、僕らは働くことを通して傍(はた)を楽(らく)にし、自分を超えた大きなネットワークの中で役割を果たします。すると時代や宇宙といった大いなる存在の中に自分が位置づけられ、その中で自分の個性を最大限に発揮出来るのです。宇宙や時代の流れを感じて、その流れを共に推進する喜び。それが穏やかで満ち足りた表情となって表れているのでしょう。

個人の幸せ、自分だけの幸せを追求したとします。その時、多くの人にとって働くことは労働であり、賃金を得るための手段となります。するとどうしても労働に見合った賃金を求めるようになり、そこに固執することになります。思い通りにはならず不満を抱えたり、思い通りになったとしてもそれに執着し、それを失うことを恐れたりします。心が波立ち、自分の状況に左右され一喜一憂することになるのです。そうしていると時代や宇宙の流れから切り離され安定を失うことになります。結果、なかなか幸せになることが出来ないのではないかと思います。

自分のあぁしたい、こうしたいという気持ちを手放し、ただ出会う出来事をいただき楽しんでいく。ただひたすら傍(はた)楽(ら)いていく。そんな暮らしを楽しみどんどん幸せになっていこうと思っています(^-^)

※農事組合法人木の花ファミリーは組合員全員が個人事業主(経営者)のため、労働基準法や最低賃金の縛りを受けません。詳しくは、「農事組合法人木の花ファミリーと6次産業化」をお読みください。

※木の花ファミリーブログ「世界のお金がみんなのお金になるように」に対する感想は、木の花ファミリーこの話!にも掲載されています。こちらも合わせてお読みください。






毎日が瞑想である暮らし

昨晩、大人サミット開催中の大人ミーティングで、僕は「不自由の自由、それが本当の自由」をシェアしました。それを聴いたプラサンコム氏(タイの仏僧)は、仏の道について「飛行機の離陸のようなもの」と言い、以下のような話をしました。

☆彡 ☆彡 ☆彡

飛行機はとても重量があります。それが飛び立つためには長い助走、そしてエネルギーが必要となります。ですが、一度飛び立つと、それはスムーズにどんどん上昇していきます。私は、ガールフレンドや社会的地位、家や財産を手放し仏の道に進みましたが、初めの7年間は、ヴィパッサナー瞑想、特にウォーキングメディテーション(歩く瞑想)に集中して取り組みました。仏の道は自分の大切なものを手放し、より大きなもののために自分を捧げる道です。最初は辛い想いもしました。ですが今はとても軽やかになっています。それは一度離陸した飛行機が軽やかに飛び続けるようなものです。あなたもヴィパッサナー瞑想を取り入れるといいと思います。

☆彡 ☆彡 ☆彡

飛行機の例はとても分かりやすいと思いました。そして、瞑想。ヴィパッサナーは、「物事をあるがままに見る」という意味で、ヴィパッサナー瞑想はそのための実践法です。そこで実践ということで言えば、木の花ファミリーの暮らしは生活がそのままヴィパッサナー、物事をあるがままに見るための実践となっています。

例えば、きょうこちゃんが癌の治療で入院していた時、いさどんやそこにいた人達はこんな会話を交わしています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

最後にこうちゃんは「なかなか病院で笑っている人たちはいないよ(笑)」と言い、きょうこちゃんは「ほんと、ほんと!死ぬかもわからないけれど、面白い人生をもらっているなと思ってね。だって、この間せっかく血が入ったのに、もう全部出ちゃったもの!」と言うと、みかちゃんが「木花咲耶姫様のモットーは潔く生きて潔く散るということだからね」と言い、いさどんは「その散り際の美しさが木花咲耶姫の個性だ」と言い、皆で病室の窓から雪の王冠をかぶった美しい富士山を見た。きょうこちゃんは「一言では言えないけれど、良い時間だった!どこまで覚悟ができているかはわからないけれど、もう何度もそういう場面が来ているから、ある意味覚悟はできているなと思う。そこまで腹をくくっちゃうと、面白いな。ありがたいとかいただくことの深みを日々学ばせてもらっているな」と言い、いさどんは「ありがたいも深みがあるんだよ。『いただきます』だから、いただき(頂き)・・・頂上まである」と言うと、みかちゃんは「頂き増す!どこまで行っても頂きが増していくんだよ」と言い、こうちゃんは「登山に終わりはないってことだ」と言い、皆で拍手して病院を後にした


☆彡 ☆彡 ☆彡

もっと生きたい。生きていてほしい。そういう自分たちの思惑を手放して、ただただ目の前の状況を真摯にいただいていく。僕たちは物事をあるがままに見るだけでなく、あるがままを受け入れていくのです。その結果、今の元気なきょうこちゃんがいます。

多くの人は、人生において自分の希望、想いを実現させようとします。そうすると自らの思惑が働き物事をあるがままに見ることが難しくなります。そこで自らの思惑から離れる瞑想がとても重要な実践となっていくのでしょう。

僕らは自らの思惑ではなく、天の流れに沿って生きることを決めています。そして、そのためにお互いに見える景色を伝えあっています。日常生活があるがままに見る実践であり、あるがままを受け入れていくのです。

だから僕らの日常生活は瞑想であり、毎日が瞑想なのです。

ただただ目の前の出来事をいただいていく。

その姿勢が生み出す出来事は想像を超えるもので、毎日、わくわくして暮らすことが出来るのです(^-^)

大人サミット1日目の写真(一番右がプラサンコン氏です)。



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