出会う出来事の奥を探求する

1週間ぐらい前かな?小学校2年生のれいくんとお風呂場で以下のような会話をしました。

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れいくん : なかのん、木の花祭りで鬼ら?

なかのん : そうだよ。れいくんも鬼ら?

れいくん : うん。

なかのん : 鬼ってどんな存在かな?

れいくん : みんなの間違えを正す存在。

なかのん : そうだね。みんなの間違えを正すからにもまずは自分を正さなければね。

れいくん : うん。

なかのん : 鬼の心を育むことが大切だよ。だから、忘れ物などしないようにしようね。

れいくん : うん。鬼になる。

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こんな会話を子どもとすると嬉しくなってこんなふうにブログで紹介したくなります。ですが、お風呂に出た後のれいくんの様子は相変わらずだらしのない態度で、いろいろな人に注意をされていました。それは大人の姿勢の鏡で、こうやってきれいな言葉を取り上げても、日常の姿勢が変わらなければ、ブログで紹介しても、それは表面を飾っているだけで何の意味もありません。それで結局、ブログに書くのは止めました。

・・・と言いながら今、ブログでこの会話を紹介しているのですが、その理由はこの記事を最後まで読んでいただけたらなんとなく伝わるのではないかと思います。なので、最後まで読んでみて下さいね。

話しは大きく変わって・・・

紙と文字の発明によって平面的思考が始まった。

いさどんはよくそう語ります。そして、平面的思考についてはこんなふうにも語っています。

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3次元世界に暮らしながらも人間は物事を2元的に観ている。それは、出会うこととそれに対する自分の反応で物事を見ているから。それで平面的になっていく。だけれども、その奥にはこの世界を動かしている意志がある。出会うこととそれに対する自分の反応、そしてその奥にある意志。それらすべてを意識した時、この世界を立体的に観ることが出来る。

出会うことに反応することで人は一喜一憂する。それが人間で一喜一憂しなければ生きている意味がない。一喜一憂しながらも、出来事の奥にある意志を感じて、一喜一憂している自分を離れて観る。そして流れをいただいていく。それが生きていることの醍醐味で、人生に翻弄されずに楽しむことが出来るようになる。
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出会うことに反応する人間。その時、人は出会う出来事を固定して捉えています。

紙や文字が発明されることにより人は記録を取ることが出来るようになりました。一つの形にして残しておく。書かれた言葉は変化せずに残り続けます。それは変化を本質とするこの宇宙の法則からしたら異質なことなのだと思います。

固定された記録。それが人に囚われをもたらし、一喜一憂することになります。ですが、この世界で出会うことはすべてプロセスの中にあり、本来、固定はされずに流れ続けていくのです。出来事の奥にある意志を感じた時、その流れが見え、自分を固定から解放することが出来ます。

「記録」と似た言葉で「記憶」という言葉がありますが、人の記憶は記録と違い固定していません。心理学では、記憶が人の感情に左右されることが分かっていて、今の心の状態により過去の記憶は変わっていくのです。自分を解放すれば、記憶も世界に対して解放されます。

冒頭のれいくんとの会話も流れの中で生まれたものであり、それはその後のだらしのないれいくんも同様です。すべてが固定されることはありません。その奥には大きな広がりを持ちます。

言葉による「記録」はこの世界に打込まれた固定です。そして、それに引きずられ人は出来事を固定して捉えるようになります。そして、自分を固定していきます。ですが、奥に目を向けると一つの流れが見えてきます。そして固定された「記録」の捉え方も多様であることが分かります。固定の奥に変幻自在の解釈が存在し、すべてが変化し続けることが見えてくるのです。

出会う出来事の奥には自分の人間性があり、その奥には天の意志があります。そこを探求する時、なんでもない日常の奥にとっても深い世界が見えてきます。

もうじきアメリカでトランプ大統領が誕生します。トランプ氏は大統領就任前から様々な騒ぎを起こしていますが、その奥には現代の人々の人間性、そしてその奥には天の意志があります。ただ表面的な出来事を見て、右往左往するのではなく、それらを探求することによりとても豊かな世界が開かれわくわくします。僕ら、木の花ファミリーのみんなはそんな世界を感じています。

今年の木の花祭りは1月28日(土)の新月。もうじきです。

木の花祭りでは、みんなで歌い、舞い踊り、この世界の奥を探求し表現します。是非、遊びに来て下さいね(^-^)




法則の側から自分と世界を見る

すべての人が共有できる客観的な真実


昨年の12月、4回シリーズで放送された100分de名著『野生の思考』(レヴィ=ストロース)を観ました。「願いを叶えるのではなくただ探求していく」でも取り上げましたが、番組ではレヴィ=ストロースの思索の出発点を以下のように紹介しています。

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第二次世界大戦中、レヴィ=ストロースはフランス軍兵士として戦場に赴きます。ある日、塹壕に入ってぼぉっと景色を見ていたところ、たんぽぽの花に目が留まります。そして美しい秩序を持つたんぽぽの花を見つめるうちに構造の考えを思いついたのです。自然界の秩序と人間の思考の秩序は本質的に同じではないのか。宇宙の運動の中から地球が生まれ、地球に生命が発生し、脳が創られ、そこに精神があらわれます。自然界の中から生み出される精神の構造と自然の構造。レヴィ=ストロースはどちらも同じ構造を持つと捉えます。そして、人間の精神を構造という視点で科学的に分析したのです。

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レヴィ=ストロースは宇宙、自然、社会、そして、人間の身体と思考。すべてに同じ法則が流れていることを感じ取り、構造という視点で人間の精神を分析していきました。それは日常の思考、自我の奥に流れているものの分析であり、その思索はとても刺激的です。松岡正剛さんは千夜千冊「悲しき熱帯」の中でレヴィ=ストロースについて以下のように述べています。

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冒頭に「私は旅や冒険が嫌いだ」「それなのに、いま私はこうして自分の探検旅行のことを語ろうとしている」と書いてある。長い長い記述の最後には「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう」という人類学者らしくないとも人類学者らしいともいえる言葉が出てくる。そのうえで、「ともあれ、私は存在する」と書いてある。

  ~ 中略 ~

「ともあれ、私は存在する」と書く1ページ前には、平然と「私は人類全体の矛盾である」とも書いている。こんな人類学者はいなかった。まったくいなかった。

  ~ 中略 ~


調査研究記録の随所に、人類と人間に関する本質的な思索と自身の根源的な省察を同時に、かつ暗喩に富んで表現できた学者など、まったくいなかった。

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宇宙は揺れ動き常に変化しています。その本質を表現するならば、常に言葉の揺れが必要になってきます。レヴィ=ストロースの言葉の揺れは本質を見事に表現しているのです。だからとても刺激的なのです。

僕はこのようなレヴィ=ストロースの学問が好きだし、そこに大きな可能性を感じています。だけれども世界の思想に大きな影響を与えたというレヴィ=ストロースが活躍したフランスでシャルリエブド襲撃事件パリ同時多発テロが起き、その後もテロが続いています。この現実をどのように捉えたらいいのでしょうか?

レヴィ=ストロースは人類の未来に悲観的だったと言います。自身が見出した構造という法則。それが世界に広がり波紋を起こしても、人々はそれを知的には楽しみながらも、実践では自我という自らの慣れ親しんだ思考の中で暮らし続けているのです。だからこそ、それに相応しい現実が起きているのだと思います。

自我、自らの慣れ親しんだ思考の奥にはすべてを貫く宇宙の法則が流れています。木の花ファミリーでは「現象をもって真実とする」という言葉を大切にしていますが、起きることはすべて相応しく与えられています。そこには本人の納得は関係ありません。出会うこと、起きることはすべて自らの人間性の現れです。そのことを本当の意味で受け取った時、宇宙の法則から自分や世界を見ることが出来ます。それは人類が目覚めたならば、すべての人で共有できる客観的な真実です。

そこには祝福があります。少なくとも僕は今それを感じています(^-^)

はたらく(傍楽)から生まれる豊かさ


ところで、暮らしの実践の一つに「はたらく」という行為がありますが、現代では「労働」と呼ばれ、対価(お金)を得るための手段となり、苦痛を伴うものとなっています。ですが本来、「はたらく」とは傍(はた)を楽(らく)にすることであり、自分を超えたネットワークの中で役割を果たすことなのです。それは冒頭で取り上げた番組で紹介されているギリシア語の「はたらく」という言葉からも伺うことが出来ます。ギリシア語では以下の2つの言葉が「はたらく」ことを意味するようです。

プラクシス(実践):
行為する人間が自分自身の目的のために事物を使用する。

ポイエーシス(つくり出す):
事物をそれ自体の目的のために作りだす(受動的に本質を取り出す)

現代の労働はプラクシス(実践)になっていますが、それはそれぞれの自我が生きる主役になっているためです。自我が生きる主役となり、自分の目的のために労働をしますが、それは必ずしも世界とは調和せず苦痛を伴うものとなるのです。ですが、主役を構造、宇宙の法則に移す時、はたらくことはポイエーシスとなり、それは全体の中でお互いが生かしあうものとなるのです。木の花ファミリーの暮らしはポイエーシスで成り立っています。例えば、のんちゃんの「ありがとう」の物語の中でのんちゃんはこんなふうに語っています。

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よく主役になる野菜もいればならない野菜もいて、同じ大根の中でも本当にいろんな形があるよね。特に自家用でキッチンに届くのは個性的な形が多いから(笑)、みんなで「これ見てー」って笑って、この子をどうにか生かそうって考えたり。
野菜はそういう役割として、人間が使いたいように使われてるんだね。決して文句も言わずにね。それでみんなが食べたら、「ありがとう」って言って、体の中に入っていく。

今思ったんだけど、野菜って人間みたいだなと思ってたけど、私たちも、神さまに使われる野菜みたいだね。使ってくれてありがとう、って。

何を作るかを決める時に、前は本とかを見て、ちょっと変わった料理とか、味がおいしいといいなとか思いながら選んでたんだけど、そういうのも、今はないね。今はどうやって決めるかというと、まずみんなが食べたいものでしょ。それから、たくさんある野菜をどう使うか。

あとはね、きっと、その時、その野菜に、「これになりたい」っていうのがあるんだよ。
りょうちんが木の花祭りの鬼の面を作っていて、実はもう作る前から面の完成形は決まっていて自分はそれに沿っていくだけだって話してたけど、野菜にも「これになる」っていうのがあるんだと思う。

今ね、自分の頭で考えてメニュー決めてること多いなって反省した。
神さまにとって人間が野菜だったら、野菜にとって人間は神さまだよね。それなのに、この子はこうやったら一番活かされるっていうのを、野菜と対話をしないで勝手に決めたら、台無しにしちゃうよね。


きっと、ただ相手を感じて、何も考えずに野菜を洗ったりしてると、どうしたらいいかが自然と湧いてくるんじゃないかな。

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それぞれの存在の奥には同じ法則が貫いていて、それは天に生かされているということです。のんちゃんは野菜の声を聴くことで、天の恵みを表現しようとしています。それは全体のネットワークの中で互いを生かしあう「はたらき」で、温かくエネルギーに満ちた空間を生み出します。

先週の日曜日、15日に100回目を迎えた「恵みいただきます」はそのような空間をお客様に提供して来ました。施設の改装のため「恵みいただきます」はしばらくお休みとなりますが、3月21日(火)には異次元空間カフェ「ロータスランド」がオープンします。

そこは天の法則が花開く場所。来た人が「あれ?ここはどこだろう?」と懐かしさと不思議さを感じて、また帰宅(きたく)なる場所にしていきます。それは自分たちの意図によってなるのではなく、心磨きの結果、おのずとなっていく場所なのです。是非、遊びにいらして下さいね(^-^)


1月15日(日)の恵みいただきますでお客様の提供した料理です。

みんなで集合写真(^-^)

そぎ落としにより岩戸成る

岩戸成る時代


2019年元日に新天皇即位という記事を新聞で読みました。新天皇が即位した時、元号は新たなものとなるので、平成は30年で終了することになりそうです。その話題に触れている以下のブログ記事はとても興味深いものです。

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現在の元号である平成は「内外、天地とも平和が達成される」という意味でつけられたとも言いますが、裏にある神の意図では、平成とは「イワト(平=一八十)成る時代」とも言われています。



確かに、昨年2016年夏至をもって「夜明けの晩」は明けて岩戸開きは完成したとも言われ、その翌月にタイミングを見計らったかのような突然の生前退位のリーク、8月には正式に天皇陛下のお言葉発せられましたが、平成とは長い長い1つの大きな仕掛けが完成する最後の元号であったのかもしれません。


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岩戸開きとは太陽の神様、天照大神(アマテラスオオミカミ)を巡る神話です。高天原にある天の岩戸にアマテラスがお隠れになり、この世は闇に覆われます。その岩戸が開かれ、この世に光が戻ること。それが岩戸開きです。平成=イワト成る時代とは、岩戸開きが成る時代であり、それをもってこの世界に再び光が取り戻される時代と言えます。

平成の始まりの頃を思い出すと、ちょうどバブル経済が終焉を迎えた時期です。その後、山一証券など大手金融機関の経営破たんがあり、最近では東芝の不正会計や巨額損失が話題となっています。平成になって戦後復興から経済成長に至る間に積み上げた歪みが噴き出しています。それは資本主義の行き詰まりを表しており、新しい価値観が必要とされているのです。

そんなことを大人ミーティングで話した時、いさどんから「30年は土星の周期とほぼ同じで、土星はそぎ落としを表す星」という言葉が出ました。平成はそぎ落とし。そぎ落とすことで新しい時代を迎えるのです。

安倍首相は経済最優先を掲げ、経済成長を成し遂げようとしていますが、それは時代と逆行した取り組みであり、上手くいかないことは明らかなのです。それにも関わらず、多くの人が安倍首相の経済優先を支持しています。それは過去の時代に執着し、現実から目を反らしているからでしょう。

経済活動は人の約束ごとの上に成り立ちますが、それは人々の心の反映です。人々がもっと多くを・・・と望んだ結果が資本主義の発展であり、物質的繁栄を生み出しました。ですが、それは同時に競争により対立や格差を生み出し、人々の心に不安や嫉妬、優越感や劣等感を増大させていきました。それでも人はまだもっと多くを・・・と望んでいます。

ですが、この世界には人の約束を超えた天の流れというものがあります。天の流れは新しい時代へと向かっています。過去に執着している人々は天の流れにそぎ落とされていくことでしょう。

だからこそ自らの意志でそぎ落としていくことが大切です。それは物質だけでなく心も同様です。心の中の余分なものをそぎ落とし、自分を空っぽにしていく。そして天の流れを感じて生きていく。その時、そぎ落としが岩戸開きとなり、自分に光がもたらされるのです。

自分のそぎ落とし


僕は昨年の10月、いさどんから以下の言葉を貰っています。

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「なかのんのブログに書いている事は仕上がってきてはいるが、
実際の心情についてはまだ仕上がっていない」という事でもある。
微妙な所だけど、ブログには「僕にはこの道しかない」となかのんは宣言している。
心情的には何かが残っているんだけど
「僕にはこの道しかないから、辛くても行きます」
というような事になると、目指すものと違う。
目指す所は、「人間を磨いていくと磨くことによって次の次元、
高い意識になって自ずと新しい現象に出会う、
自ずと過去に自分が思ってた事が叶うという事がある」という話だよ。
それは、目指していく事でもなければ、
それが尊い事だからといって我慢していくという事でもない。
それでは目指す所と違う世界になってしまう。



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そして同時に「なかのんは自分の担当以外のことを全然考えていない」という言葉も貰っています。これらの言葉は僕にとって大切な課題であり、成し遂げるためには自分をそぎ落としていく必要があるのです。だからただただそぎ落としていきます。そして、自分の岩戸を開き、僕は光となります。

火の鳥となる


ところで、今年の干支は丁酉(ひのととり)。丁(ひのと)とは火のことで今年は火の鳥の年です。火の鳥はフェニックス寿命を迎えると、自ら薪から燃え上がる炎に飛び込んで死ぬが、再び蘇えります。死と再生を繰り返す鳥。それは生命の本質そのものと言えます。時代の変わり目。僕は今、火の中で自らを灰とし、光となって再び蘇える。そして余分な心は常に燃やし続ける。それは天と共に生きる道なのです(^-^)


1月8日どんと焼きにて






『サピエンス全史』から時代主義へ

一昨日放映されたクローズアップ現代「幸福を探して 人類250万年の旅」を観て、『サピエンス全史』の存在とその著者ユヴァル・ノア・ハラリ氏の存在を知りました。そして、いくつかの書評と著者インタビューを読んでみました。それがとても面白くいろいろな考えが浮かんできました。

僕の理解だとハラリ氏の考えを要約すると以下のようになります。

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現生人類ホモ・サピエンスが他の競合種を圧倒し、現在の繁栄に至った理由は、「虚構(フィクション)を信じる力」にあります。約7万年前の認知革命により、ホモ・サピエンスは「虚構」を使う力を得ました。「気を付けろ!ライオンだ」と言える人類種は多くいましたが、ホモ・サピエンスはこの時「ライオンはわが部族の守護霊だ」という能力を獲得したのです。このように、虚構、架空の事実を物語ることにより、多くの人の共感を得て協力し合うことが可能となりました。人々は共通の目的を持ち大きな組織を創っていきます。

宗教、国家、法律、企業、貨幣など。


これらもすべて人間が生み出した虚構なのですが、これらを信じることで複雑で高度な社会を営むことが出来るようになりました。共通の物語を持つことで人類は統合の道を辿りました。現在社会ではマスコミやインターネットにより世界の情報は瞬時に共有されます。そして、その情報により世界は動いていきます。


この動きの中で人類全体の富、そして力は飛躍的に増大していきます。ですが、一人ひとりの人間に目を向けた時、富を握るのは一握りの存在であり、多く人の暮らしは貧しくなっています。文明の発展は一人ひとりの人間の幸福には繋がっていないのです。


そして、それは個人の持つ知識や能力に関しても同じです。自然の中で自分の力で生きることが求められた狩猟採集時代の人々は現代人よりも多くの知識や能力を持っていました。彼らは、与えられた環境に自分たちを適応させて暮らしていました。それは自分たちの都合のよい世界を創ってきた現代人とは対照的で、これからの時代、人々は狩猟採集民の姿勢を取り入れる必要があります。なぜなら、現代の資本主義は行き詰まりを迎えており、これから大きな変化が起きようとしているからです。その変化に適応していくことが求められます。


ホモ・サピエンスは石器時代から多くの生物を絶滅に追いやっています。その中には、ネアンデルタール人やデニソワ人といった人の仲間も含まれます。社会の近代化や工業化が進む以前から生態系を破壊してきているのです。


このような事実は広い視点から歴史を学ぶことによって見えてきます。歴史を学ぶことにより現在信じられている価値観が虚構であり、それが生み出された過程を知ることが出来ます。そうすることで、虚構を超えたところにある真実に辿りつけるのです。


現代社会を覆っている一番大きな虚構(宗教)は「リベラリズム」です。それは何か重大な問題に直面してとき、個人が自分の内面の声に耳を傾けて判断を下すべきという考え方です。個人が重視されるため政治の問題も選挙で決めていきます。


それに対して今、シリコンバレーではあらたな宗教が生まれています。それは内面の声よりデータの判断に身を委ねる方がよいという考えです。例えば、アンジョリーナ・ジョリーが両乳房を切除したのは、遺伝情報で乳がんの発病する確率が87%であり、親族に乳がんを患った人が多いからです。


人々は中世の頃、聖典に答えを求めていました。そして、近代になると内面の自由な声に従いました。未来は膨大な情報を有するデータベースから引き出された「解答」に従う人が大半になるかもしれません。


それだけではありません。科学技術の進歩は、感情や欲望を含めて、ホモ・サピエンスそのものを変える可能性もあるのです。それがどのような変化になるかは分かりません。その鍵を握るのは、私たち人間が欲望をコントロールできるかどうかです。


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歴史を観て、現在を覆っている価値観の背後にあるものを探っていく。その姿勢はとても刺激的で面白いものです。そして多くの示唆を与えてくれます。そのためこの本は多くの人の支持を得ているのでしょう。

ところで昨年末、木の花ファミリー通信特別号が発行されました。題して「時代主義が始まった」です。ここでもハラリ氏と同じ試みをしています。広い視点で歴史を辿ることにより、現代の価値観の背後に流れているものを明らかにしているのです。ファミリー通信ではビッグバンから辿っています。そして、「時代が生命そのもの」であることを明らかにしていきます。その文章は以下のように締めくくられています。

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今こそ、私たちは自らを自我の枠から解き放ち、この無限なる宇宙の中で自由自在に生きる時が来たのです。私たちの中から願望や野心が消えた時、宇宙の真理が湧き出し始めます。そして、人類が誕生した目的にのっとった最もふさわしいポジションに立つことができるのです。その真理に目覚めた時、私たちは時代を読み、流れを感じ、今を生きる「時代人」となります。それは時代主義の始まりです。

それが、21世紀初頭にあたり、時代が私たち人類に伝えているメッセージです。

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ハラリ氏とファミリー通信。同じように歴史を辿りながら、描く未来のヴィジョンには大きな違いがあります。それはハラリ氏が個人の幸せに囚われているからだと思います。

確かにハラリ氏が言うように、現代は富の総量は増えたけれども、個々人は幸福にはなっていないのだと思います。ですが、個々人は幸福を求めていました。個々人が幸福を求め欲望を追求した結果、資本主義が生まれ、経済成長へと繋がっていったのです。その原動力は個々人の欲望であり、自分「が」幸せになることを願う自我の心が人を苦しめているのです。だからこそ、自らを自我の枠から解き放つ必要があります。ですが、ハラリ氏にはそのような視点はありません。人々を苦しめている自我の延長上に未来を描いています。それは「解答」や「結果」を求める姿勢に現れています。

本来、この世界には固定した「解答」などありません。すべてはプロセスの中で変化していきます。自我の枠から自らを解き放った時、そのプロセスそのものを味わい楽しむことが出来るようになります。その姿勢が人々に真の自由をもたらし未来を切り開いていくのです。

そして、ハラリ氏は物質にも囚われています。

ハラリ氏はライオンを事実とし、守護霊を虚構としています。ですが、なぜ物質的存在が事実であり、精神的存在が虚構となるのでしょうか?そこには一つの前提があり、そこに対する検証がされていません。認知革命は文字通り認知の革命なのだとしたら、今まで知りえなかったことを知るようになったとも言えます。宇宙のチリの中から物質が生まれ、物質から精神が生まれました。それは神の自己開示であり、それにより認識を深めていくプロセスとも言えるのです。事実、ハラリ氏も言うように世界は統合に向っています。統合とはつまり全体を貫く視点を得るということです。精神に目が開かれることにより、この世界の実相、すべてが一つである事実が見えるようになったのです。それらは変幻自在に変化しますが、物質も時間と共に変化していきます。精神的存在が虚構であるならば、物質的存在も虚構です。すべては時代が生み出したものなのです。

精神と物質、すべてを含めた虚構の奥を見通した時、天の意志が見えてきます。それは個人の幸福を超えたものでありながら、個人が幸福になるためにはそれに沿う必要があるのです。大きなパラドックス(矛盾、逆説)ですが、歴史はそのことを教えてくれています。

僕らの未来は予測不能です。それは現代が混乱の極みにあるからではなく、それが生命の本質なのです。なぜなら、僕らは自らの意思で生きているのではなく世界に生かされているからです。自分のコントロールを超えています。出会うことをいただいていく。そして、それを踏まえて真剣に考えていく。その姿勢が人を成長させるのです。それが時代人の生き方であり、今、時代主義が始まっているのです(^-^)




※このブログは以下の記事を参考に書きました。

ユヴァル・ハラリが語る「シリコンバレーで生まれる21世紀の宗教」

人類の繁栄とは”虚構”の上にあるのです

「サピエンス全史」ユヴァル・ノア・ハラリ氏 「虚構の力」を超えるために

貨幣や宗教は虚構「サピエンス全史」ユダヤ人著者が語ったこと

虚構が起こした革命ー『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』



心を爆発させ個人的感情も吹き飛ばす

今年のテーマは「爆発」です。それを受けて「心を爆発させ思考の枠を吹き飛ばして(空っぽになって)いく」と書いた時、2年前の10月に書いた「空っぽへのあこがれ」を思い出しました。この記事ではいさどんがお釈迦さまに逆切れをするエピソードを紹介しています。以下、その内容を転載します。

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僕は、お釈迦さま、そして神さまに出会い、道理を伝えられてきました。
お釈迦さまが語られるのは仏道、道なのですよね。
プロセスをずっと見ていく客観視点を育てられます。

そうすると自分の感情が苛立っている状態を観なければいけなくなります。
普通の人は感情が出てくると、感情のままに出して、
それを主張することが自由だったり束縛されていない状態と思ったりしています。
ところが、僕にはもう一つの目線がありました。
それも強制的に示される目線です。
そちらの方から「お前の今の感情はこうだぞ」と言われると、
僕みたいな道理人間、理屈人間は理屈で負けてしまうのです。

それでどうするかというと、僕は理に叶った方に行こうとします。
自分の主張が愚かであっても、そこに執着したい自分がいますが、
理に適った方に行かなければなりません。
そのように、そちらを選べば選ぶ程、情がわいている自分を否定することになります。
理に適った方を選んでは自分を否定していく。
その繰り返しになりますが、その覚悟が出来ていないとだんだん辛くなるのです。

そこで「俺はつらいんだー」となって爆発したことがありました。
そうすると、お釈迦さまは「それなら止めるか?」と尋ねてきました。
「なんてひどい薄情なことをいうの?あなたは」と思いました。

そこでまた道理を考えました。
僕が執着して道を歩むことに辛い想いをしていることに対して、
そのまま執着して進むことは、その道を外れるということになります。
止めるか?という話に乗るのもこの道を外れることになります。
どちらの自分も認めることが出来ません。

道理のところに行くことによってのみ楽になれる。
自分で自分を本当に意味で認めることが出来るのです。

認めたくない自分に執着をしてそのままで行こうとしますが、
それはすごいバカなことをやっているのです。
それでも執着している時はつらいものです。

僕はその想いを怒りに変え、伝えました。

「何を言っているのですか。止めるわけがないではないですか。
これを知らずにいかない人は世の中に沢山いますが、
一度、これを知って行かないものがいるでしょうか?
絶対やめない。見ておれ。やめんから。」

逆切れしたのですよね。

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思考の枠組みだけではなく、個人的な感情も爆発によって吹き飛ばしていくのです。

執着や強欲、嫉妬などの感情は我欲から生まれるものであり、個人的なものです。道を求めるならば、これらの感情は吹き飛ばしていく必要があります。吹き飛ばして空っぽになっていくのです。その一方、崇高なものを求める感情、人と共にあることを喜ぶ感情、人の幸せを喜ぶ感情など。これらの感情は理に適ったものであり人を幸せにしていきます。心を爆発させ空っぽになっても器は残ります。空っぽになった器には新しいものが沢山入ってきます。その時、自然に湧き上がる感情やインスピレーションは天からのものであり、世界と人を幸せに導いていくのです。

心を爆発させ空っぽになっていく。それは自分を克服することです。

サティシュ・クマールさんの『君あり、故に我あり』の中でイスラムの思想家マウラーナー・ワヒドゥディン・カーン氏は聖戦(ジハード)とは葛藤なのだと言っています。以下、その言葉を要約します。

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我々の敵とは誰か?
それは欲望、貪欲、自己中心。
勝利とはこれら心にうちに秘められた敵に対する勝利。
絶え間なく続く自我との戦い(葛藤)。
それが聖戦であり、それは非暴力へと繋がっていきます。
非暴力は偉大であり、非暴力の実践はどんな時も人生に祝福をもたらします。

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例えば、世界平和など崇高な志を持っていたとしても、虚栄心や嫉妬心など個人的欲望に負けてしまっていたら、その志は個人の欲望を叶える手段となっていくでしょう。

元日からトルコのイスタンブールで銃の乱射により39名が死亡するテロ事件が起きました。イスラム過激派によるテロ事件は世界中で多発していますが、彼らは自爆テロに聖戦という言葉を使っています。聖戦という言葉から崇高な志を感じさせますが、個人的欲望に負けてしまっているため暴力的な存在になってしまっているのでしょう。

崇高な志が個人的な欲望に負けている。それはアメリカや日本にも当て嵌まるのではないでしょうか?アメリカや日本が平和という言葉を使う時、それは自国の利益に基づく平和のことであり、それにより抑圧される人々のことは意識されていません。そして、それは国民一人ひとりが日常の中で個人的欲望を克服していないことの顕れなのです。

我欲は個人を際立たせることにより、人々を切り離し、その結果、世界に分断をもたらします。それが今の世界の姿であり、自分の姿でもあるのです。だから今、心を爆発させ空っぽをするのです。空っぽになった心に理に適った感情や高い志を育んでいくのです。木の花ファミリーの生活はみんなで共に暮らすことにより乗り越えるべき自我を浮き彫りにしその取り組みを加速させます。つまりは人を幸せに導く暮らしなのです(^-^)

最後にそんな木の花ファミリーのお正月の様子を写真でお伝えしますね。


アメリカの学生さんたち20名を迎え、ウェルカムコンサートをしています。


おせち料理。2日の夕食です。

2日の夕食です。
3日の昼食はお餅つきでした。

3日の夕食。ゲストで来ているマイケルの誕生日を祝っています。



心を爆発させ思考の枠を吹き飛ばしていく

あけましておめでとうございます。

木の花ファミリーでは年明けの瞬間はみんなで「ヒトイズム-ヒトという存在の実体は何ものなのか-」を読んでいました。ヒトイズムとは何か?上記のリンク先にはこんな文章があります。

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例えば、医者が病気について「今病気はこのように進んでいて、それをこういう風にすればこうなって良くなりますよ」と言うのは、科学的分析の結果の話であり、人間が理屈で理解して納得できる世界だろう。しかし、この世界は人間の理屈を超えたところで成り立っている。だから科学や理屈で考えて納得できるところを超えた時に、奇跡が起きるんだよ。

宇宙は奇跡の連続だ。なぜなら、もともと人間の思考のキャパを超えたところで成り立っているのだから。だから宇宙を生きるという意識レベルを考えるのならば、科学や理屈を超えたところでものごとを受け取る器を持つことが必要だ。そうでなければ、真実は観えてこない。

それには、人間壊しをすることだ。人間を壊して、ヒトとして存在する。それがヒトイズムだ。

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この世界は人間が誕生する前から存在しています。その法則は人間の思考を超えていて、だから納得を超えた出来事が起こります。思考の枠を壊していく。それがヒトとしてのありかたであり、僕は今年そんなふうに生きていきます。

2017年、木の花ファミリーのテーマは「爆発」です。

心を爆発させ、思考の枠組みを引き飛ばし、空っぽになって、出会う出来事すべてを受け取り、そこから学び成長していくのです。分かっているのは自分がこれからも成長し続けるということだけ。それがどんな姿かは天にお任せしています。

心が変われば世界が変わる。

この言葉は事実ですが、この時、変えようと思うことも欲であり、その姿勢が世界に反映されます。心が開いていれば、自ずと変わっていくのです。なぜなら、変化変容がこの世界の本質であり、自然界のものは常に変化し続けています。ところが人間は自我を持つことにより、他から自分を切り離し、自分だけの世界を思い描く自由が与えられました。それが思い込みや執着となり変化を妨げているのです。思い込みや執着の延長で心を変えようとしても、それは世界に反映されず、変わらない日常が続くのです。

だから心を爆発させ自我を吹き飛ばせばいいのです。すると、自分が空っぽになり出会うことを通して自分が変化していくのです。それは思考の枠を超えたダイナミックな出来事、心を空っぽにしたら、毎日がダイナミックなものとなっていくのです。

元日は、朝にみんなで初日の出と富士山を拝み、お昼のみんなでお雑煮を食べて、夜は子どもたちが企画してくれたゲーム大会を楽しみました。どの瞬間も新鮮でとても暖かく楽しい時間を過ごしました。

みんなで初日の出を食べています(^-^)

初日の出(^-^)

元旦の富士山(^-^)
ゲーム大会の様子(^-^)


ところで「ヒトイズム」をみんなで読んだ時、光が消えている星の存在が話題になりました。そして、そこから人間の誕生に関わる精子の数も話題になりました。数億の精子の中でたった一つが卵子を結びつき誕生へと至ります。それを誕生の瞬間だけを切り取ってみると、他の精子は無駄なものとなりますが、物語として繋げて観れば、すべての精子に存在の意味があるのです。すべてを繋げて観る時、すべての存在や出来事は生かされていくのです。

出会う出来事をすべて受け取ること。否定せず拒絶せず受け取ることによりすべての出来事は生かされていきます。そのために心を爆発させ、自我の枠組みを吹き飛ばしていきます。

安倍首相は年頭所感にて、「女性も男性も、お年寄りも若者も、障害や難病のある方も、一度失敗を経験した人も、誰もが、その能力を発揮できる一億総活躍社会を創り上げ、日本経済の新たな成長軌道を描く。」と述べていますが、これははっきり言って絵に描いた餅です。地球環境が悪化し、国の人口が減少している今、成長軌道を描くのは現実的ではありません。実際、成長軌道の根拠となるデータはどこにもありません。それは思い込みや執着となり、その姿勢は変わらない現実を生み出します。様々な問題に直面する現代社会において、変わらないということは状況が悪化していくということです。

心を爆発させ思考の枠を吹き飛ばせば、困難な現実をそのまま受け止めることが出来るようになります。すると、立場の違いにより人々が分断されているこの世界の中に繋がりが見えてきます。すべてを繋げて観る時、すべての存在が生かされます。それは本当の意味での一億総活躍社会となりますが、それは予測不能な奇跡となって顕れます。それがどんな社会となるのか?木の花ファミリーはその雛形となっています。

つまり僕らの未来は予測不能。だけれども、それはこの世界の本質である変化から生み出されるものであり、そこには希望と祝福があるのです(^-^)

このブログでは今年もそんな生活からの学びを発信していきます。今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。






新鮮な言葉で天の恵みを広げる

一昨日の大人ミーティングにて、ともちゃんがいさどんの商売についての考えを紹介してくれました。それを僕なりに纏めると以下のようになります。

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今の社会では、みんな収入を得るために必死に仕事をしています。お店ならば、お客を獲得するために一生懸命、商品開発や営業活動を行っています。お客の増減はお店にとっては死活問題なのです。ですが、木の花ファミリーの活動はそれとは違います。私たちは天の恵みである作物をいただき、それを基盤として生活を営んでいます。収益を得ることが死活問題とはなっていません。ですから、私たちの商売は一般とは違うものなのです。同じ基準で考えてはいけません。天の恵みによって暮らす私たちは心に余裕やゆとりがあります。そして、その余裕を心磨きに向けることが天との約束です。商売もその延長にあります。天の恵みの恩恵を世の中に広げていく。それが私たちにとっての商売で、心を伝えること、幸せを循環させることがその本質にあるのです。

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人間は他の存在に生かされることによってはじめて存在することが出来ます。生き物が生き物を生かし支えていく。それが大自然の姿であり、人間も自然の一部です。ということは、生きていること、すなわち天の恵みの表現なのです。

ですが、天は人間に自由意思を与えました。自由意思から自我が生まれ、自我は自分で生きているという錯覚を人間にもたらします。加えて、自我は自分を他者と分け、自分のことを特別視することで、優越感や劣等感、不足感や自惚れなど様々な感情をもたらします。それらの感情や錯覚が人を天の恵みから遠ざけていくのです。

これも人間に与えられた自由、その自由から競争が生まれ、競争から資本主義経済が発達し、その延長で人々は努力をし、様々なサービスを生み出しました。それはそれで世界を豊かにしますが、その豊かさは同時に貧富の格差や環境破壊など様々な問題を人間にもたらしました。

だから今、人間社会には別の努力が必要で、それは自分を手放す努力であり、天へと至る努力です。木の花ファミリーの心磨きはそのような努力であり、それは天の恵みを世界へと広げていくものです。それは自分たちで計画出来るものではなく、天の流れを読み、それに沿っていく取り組みなのです。

自分を超えて、この世界に心を開き、その恵みをいただいていく。そして、いただいた恵みをこの世界に循環させていく。そんなふうに生きていきます。

本当は、「闇からの卒業、そして時代人として」で今年のブログは最後にしようと思っていました。ですが、一昨日の大人ミーティングでそれを読んだ時、自分の中にしっくりくるものがありませんでした。それはなぜかと考えた時、引用の多さに原因があると思いました。

僕がブログで発信していることは、常に同じメッセージに基づいています。それを繰り返し繰り返し伝えています。そのメッセージを上手に表現している文章を引用しているのですが、それが多くなりすぎるとこのブログから魂が消えていくのだと思います。

同じメッセージなのになぜ繰り返し発信する必要があるのか?
一度発信したらそれで終わりでいいのではないか?

そんなふうに思う人もいるかもしれませんが、繰り返し発信することには大きな意味があるのです。

人は忘れやすい存在です。自我を持つ人間はすぐに目の前の出来事を自分視点で捉え、行動するようになります。それは僕自身も同様です。だから、忘れないように、何度も何度も大切な想いを自分の中に刻み込む必要があるのです。僕はブログを書くことで何度も何度も自分の中に大切な想いを染み渡らせています。

加えて、この道の深さと高さは無限です。どこまでも深まり、どこまでも高まります。同じことを伝えているようでも以前の僕とは深さが違っているのです。新鮮な言葉には新鮮な力があります。その言葉を世界に発信していくことで、この世界に天の恵みを広げていくのです。それは世界全体から見たら、微々たるものかもしれませんが、ただただ自分一人分の役割をこなしていくだけなのです。

真理はプロセスの中にあります。素晴らしい言葉も、固定したその言葉に真理があるのではなく、その言葉が生み出された背景、そして、その言葉が広がっていくプロセスの中に真理があります。真理は常に新鮮な動きの中にあるのです。だから常に新しい言葉を生み出していく必要があります。語った言葉ではなく語る行為、そして語った人の行動の中に真理は立ち顕れます。

だから今年の最後に新しい言葉だけの記事をあらためて書きました。

木の花ファミリーでは2016年を「発信の年」としていました。その最後を新鮮な言葉で飾り、2017年「爆発の年」を迎えようと思います。今年1年お世話になりありがとうございました。来年もどうぞよろしくお願いいたします。


木の花ファミリーのみんな@恵みいただきます


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