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響きを感じるようになれば・・・

生きるとは、自らの魂が生み出す「思い」を表現することです。思いは、それぞれの響きを持っています。私たちが生きて、思いを表現すると、その思いの響きがこの世界の何かしらに当たり、ふさわしい現象となって自らに返ってきます。自分がどのような響きを発するかによって、世界はその響きに正しく応え、ふさわしい出来事を与えてくれるのです。そうすると、人生で出会うすべての出来事は、自分自身を観ていると言えます。つまり、この世界は鏡なのです。




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この世界で出会う出来事は自分に相応しく与えられていて、そしてそれを生み出しているのは自らの「思い」が持つ響きです。響きは思考や理屈を超えたものです。だから時に頭では理解出来ないことが起きるのですが、自分の響きを感じることが出来れば、それは相応しく与えられていることが分かります。

こんなはずではない。これは○○のせいだ。

こんなふうに思うこともあるかもしれませんが、それは出来事を、思考の枠から理屈で見ているからで、世界は常に思考の枠を壊してくるのです。

昨晩の大人ミーティングでは、いさどんカタカムナで「国(クニ)」を読み解き、それは「自由(ク)が定着した(二)場所。つまり至るところで変化変容が起き続ける場所」と語りました。そして概ね以下のように語り続けました。

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自由であることが生きることの本質です。そしてその後に「自在」という言葉が続きます。自由であるとは、好き勝手に出来るということではなく、変化変容するこの世界に合わせて自分を変えていけるということなのです。

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そんないさどんの言葉を受けて、以下の文章を思い出しました。

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宇宙は、常に変化することで成り立っています。波動が高いところでどんどんどんどん変化すること ─── それが活性化です。人間が自我を持ち、欲を持つと、変化しないことを求めるようになります。何かに囚われ、現状を守ろうとするのです。しかしその自我の欲が満たされても、人間は成長しません。むしろ、その欲に支配されて、不自由に生きることになるのです。

けれども、人間が自分を手放し、自由にしてあげると、自我の枠から離れることができます。この、自分自身を手放すことを、シヴァのはたらきと言います。シヴァとは、破壊の神です。宇宙は、この世界をどんどん変化させています。それは、無限の宇宙の中で、常に先へ先へと、未知なるところに向かって旅し続けているということです。それが生命の宿命であり、宇宙を生きる上で正常な状態なのです。その中で、私たち人間も、自らの価値観を絶対とするのではなく、宇宙が変化していく流れをいただいていく。「いただく」ということは、古いものを捨てるということです。


波動が高いということは、壊れるということ」より


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「いただく」とは古いものを捨てること、つまりは壊れ続けることなのだと思いました。生きるとは自らの思いを表現し、その響きを発することです。すると世界はその響きに相応しい響きを返します。それが僕らの出会う出来事です。僕らと世界は響き合っています。出会う響きに心を開くことで今の自分の響きが壊れ、新しい響きが生まれます。こんなふうに常に新しい響きを生み出すこと、それが自由自在ということです。この時、自分の思惑や思考に囚われていると響きを感じることが出来なくなります。そして思わぬ出来事に苦しむようになるのです。

ということで、ここで2014年の年末に書いた文章を紹介します。

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僕はこれまでずっと自分の物語を生きて来ました。


それは「世界が僕を変える」や「世界と一緒に変化を楽しむ」に書いた英雄物語だったり、「僕といさどんと木の花ファミリー」に書いた「虐げられた状況から逆転する物語」だったりします。その自覚はずっとあって、それを意識的に変えようと努力を重ねてきました。ですが、それらの努力は功を奏しませんでした。僕は変わりませんでした。

そんな中、今年の9月24日、このBLOGを立ち上げました。タイトルは「木の花ファミリーの経済から世界を見る」。「世界を見る」とタイトルをつけたからには、そこに書かれるものは、世界を意識したものでなければならない。そんなふうに思いました。そして普段から世界で起きていることと木の花ファミリーの暮らしを繋げて考えるようになりました。そうすることで、この暮らしの意味をあらためて感じることになりました。そして、その意識を保つために一定のペースでこのBLOGを書き続けました。

すると大人ミーティングが今まで以上に面白い場となってきました。そこから世界が見えるのです。そんな大人ミーティングの場で、12月の初め不思議な体験をしました。その時、いさどんがみんなに向って語っていたのですが、僕は天から暖かいエネルギーが降り注ぐのを感じたのです。いさどんの話が天の扉を開き、そして、天からエネルギーが降り注いでいたのです。そのエネルギーはとても大きく暖かいものでした。僕はこの時、初めて天の存在を感じました。ずっとあることを知っていた天の存在をリアルに感じたのです。この日から僕は天に意識を向けるようになりました。

天に意識を向けると、自分の感情や枠を超えることが出来ます。自分から自由になって、天の温かさを感じることが出来ます。それがとても心地よく毎日がとても幸せなのです。そんなふうに過ごしていると、周りから「変わった」と言われるようになりました。

このBLOGを立ち上げた時、僕は別に「変わろう」とは思っていませんでした。ただ広い視点を持つことを心掛けて毎日を過ごしていました。その結果、僕はとても幸せになりみんなに変わったと言われます。一方、僕が意識的に変わろうと努力した時、僕は変われなかったし、あまり幸せにもなれませんでした。

その違いは何か?

僕が意識的に変わろうとした時、僕は自分の変わる姿をイメージしていました。評価される自分、出来る自分をイメージしていました。要は自分がかわいかったのです。そして、自分に囚われていました。その囚われが僕の変化を邪魔していたのでしょう。

今は自分に対するイメージは持っていません。「どうなりたい」という思いもありません。ただ、天を意識し感じ続けること。それが僕の一番の望みで、それだけ出来ればよいのです。だから僕はこれから何があってもずっと幸せだろうなと思います。

僕を変えて幸せにしてくれたのは世界であり、天です。自分では幸せになれませんでした。だから、これからは天の物語を生きていきます。それは僕を幸せにし、そしてみんなを幸せにする物語になるのだろうなと思っています(^-^)



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人が本当の意味で変わるということは、表面的な行動を変えることではなくて、「思い」の響きが変化するということです。そして、それは変化変容を繰り返す世界に心を開き響き合うことで変化していくもので思惑や思考を超えたものです。未来は常に未知なるものでどうなるかは分かりませんが、響きが変化すれば、思考や行動もおのずと変化していきます。そして、だからこそ未来に希望があるのです。

世界各地で続く紛争や戦争、大気汚染や海洋汚染、そして気候変動など。今の世界には、人智では解決不可能と思えることは多々ありますが、響きは人智を超えてこの世界に影響を及ぼし思いもよらない出来事が生まれます。だから何が起きても常に希望はあり続けるのです。

思惑をもって暮らしていると、人は思わぬ出来事に出会い苦しむようになります。ですが、思惑を手放し思考の枠を壊し続けると、人は思わぬ出来事を楽しむようになります。

響きを感じるようになれば、この世界は常に希望に満ちています(^-^)

僕の響きで出会った木の花ファミリーの子どもたち、今、共に響きを生み出しています。

「後ろめたさ」をきれいにすると・・・




4月9日の夜、大人ミーティングで「21世紀の死生観・序章~魂のランキング」をみんなで共有しました。一人の人間の人生は母親のお腹の中から始まりますが、その始まりについて上記の文章では以下のように表現されています。

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女性は、自らの体の中にもうひとつ、神殿を持っています。それは子宮です。子宮とは、「子の宮」と書きます。そこに魂が宿り、御神体として、産道(=参道)を通り、鳥居をくぐって、生まれてくるのです。それはとても美しい、神聖な物語です。
ところが現代の人々は、間違った認識の性により、その神殿を汚しています。神殿とは、人生そのものを表現する場です。そこにどのようなものを迎え入れて、何を育んでこの世界へ送り出すのか。それによってこの世界が創られていくのです。
性の交わりは、私たちが神社へ行ってお参りをするのと同じ、神聖なるものです。愚かな精神によって営まれる行いは、その神殿へ、汚物を迎え入れることにもなります。子宮という、命を生み出す神殿へ、どのようなものを迎え入れるのか。その神殿の管理人は、女性たち一人ひとりです。ですから女性は、とても重要な役割を担っているのです。

その神殿に宿った命は、十月十日(280日)の細胞分裂を経て、人として社会に生まれ出てきます。始めの細胞は、単細胞です。そこから複雑な細胞へと分裂し、やがて海に生息する魚類に進化します。ですから子宮の羊水は、古代海水と成分が同じと言われています。やがて魚類から陸へ上がって両生類となり、爬虫類へと進化します。爬虫類は鳥類と哺乳類へ分かれ、哺乳類の進化は猿へとつながっていきます。そして猿は猿人へ進化し、人類の祖先であるホモサピエンスとなっていくのです。
この受精から猿へ、猿から人へと変化していく過程は、約30億年の生命の進化の上に成り立っています。子宮の中でその進化の過程をたどり、人となった私たちは、最初に通った産道(=参道)を通り、鳥居をくぐって、人間社会へと旅立っていくのです。そして人生という世界の鏡を通して、自分自身を悟りながら、学び、成長していく旅が始まるのです。

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母親の胎内で30億年の生命の進化を辿った後、人は産道(=参道)を通り、この世界に誕生します。そして、この世界で出会う出来事を通して自分を知っていきます。上記の文章ではそのことを以下のように表現されています。

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生きるとは、自らの魂が生み出す「思い」を表現することです。思いは、それぞれの響きを持っています。私たちが生きて、思いを表現すると、その思いの響きがこの世界の何かしらに当たり、ふさわしい現象となって自らに返ってきます。自分がどのような響きを発するかによって、世界はその響きに正しく応え、ふさわしい出来事を与えてくれるのです。そうすると、人生で出会うすべての出来事は、自分自身を観ていると言えます。つまり、この世界は鏡なのです。

 ~ 中略 ~

生まれてきて、生きることは、命の仕組みです。それは宇宙の法則の中にあります。人生を生きるといろいろなことに出会いますが、その出会いは、自らの魂が何を発したかによって、それにふさわしい出来事が返ってきたということです。返ってきたものを見て、私たちは自分自身を知るのです。

 ~ 中略 ~

神社へ行くと、御神体として、鏡があります。鏡には、自分の姿が映ります。しかしそれは、神の姿ではありません。それは自分が映ったのです。

人生という旅の中では、常に、自らが発したものが自らに返ってくるようになっています。自らが注文したものが、あなたに届けられるのです。神社へ行って御神体と対面しても、そこで自分自身を見ることになります。鏡に映った自分自身の顔を見てください。どんな顔をしていますか?しかめっ面でしょうか。ニコニコしているでしょうか。そこに映った姿から、いろいろなものを感じるでしょう?私たちにとって人生とは、この世界という鏡に自らの姿を映し、それを観て、自らを悟るということなのです。


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この世界で出会うことはすべて自分自身の顕れです。では遠くの国で起きている戦争などはどうなのか?自分の責任と言えるのだろうか?大人ミーティングでいさどんからそんな問い掛けもされ、みんなで「そうだ」と確認をしました。

それでこの問い掛けから今あらためて思うことを書いてみようと思いました。

ヒトが誕生する時、胎内で30億年の進化を辿るという事実は凄いコトだなと思っています。十月十日(280日)に生命30億年の歴史が凝縮されているのです。ヒトはみんな、その進化を経験して誕生してきます。ということは、今という瞬間に生命のすべての歴史が凝縮されている。そんなふうに感じました。

ヒトは生まれることを意識的に選択することは出来ません。気づいたら生まれています。それは世界に生み出されたともいえ、僕らが生きているのはこの世界に生かされているからです。そしてその背後には生命の全歴史があります。自分自身も遠い国の戦争も生命の全歴史の中から、今、生み出されているものであり、だから同じものを共有しているのだと思いました。

今、多くの人にとって人生の始まりは穢れたものとなってしまっています。そのことについて「正しいヒメゴト・命を生み出す宇宙の根本原理~性と宇宙」では以下のように書かれています。

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「ヒメ」をカタカムナでひも解いてみると、「ヒ=秘か。ものの始まり」「メ=芽。目。まだ見えないところに広がりを持っている」ですから、ヒメとは、秘かに芽が出ていること。節分前のまだ寒い時期に、表面的には何も動いていないように見えても、土の中では秘かに芽が動き出しています。その命の芽吹きのことです。
女性のことをヒメと言います。それは、表面には見えていませんが、現象化するためにもっとも大切な存在だということです。

~ 中略 ~

見えないところで起こっている ──── 男と女が交わって、種を降ろし、命を生み出すのは、見えないところでやるでしょう?それを「ヒメゴト」と言います。
男女の交わりは命を生み出す宇宙の根本原理であり、とても神聖なものです。ところが現代は、それは後ろめたい、忌まわしい、隠さなければいけないものになってしまいました。なぜだかわかりますか?本来の性の意味を履き違え、欲望のままに人々は性を行うことにより、人々の中に、それは悪いものだという心が生まれたからです。ですから、それを隠すようになったのです。

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近代以降、人々は社会を発展させ自我の欲望を満たしてきました。自分の我欲を満たすことをお互いに認め合ってきたのですが、心のどこかにそれは悪いことという意識も生まれ、性を穢し、自らも穢してきたのではないかと思います。

人々が物質的豊かさを求めた結果、空気汚染や海洋汚染が広がり住み難い世の中になろうとしています。それと同じことが人間にも起きていて、自らの我欲を追い求めた結果、自分自身の尊厳を穢し、生きることが後ろめたく辛いものとなっていくのではないでしょうか?

加計学園、森友学園、自衛隊の日報。今、ニュースでは政府の信頼を揺るがすような事件が報道されていますが、そこには人間の我欲と後ろめたさを感じさせます。

我欲と後ろめたさ。

そこから歯車は狂い、いろいろな問題が発生する。それは個々人の人生にもあり得ることで、そういう心をきれいにしていくことで、自らの人生に誇りを取り戻し、結果、世界も変えていくのだと思っています。

遠い国の戦争も。

その奥には人間の我欲、そして後ろめたさがあるのではないかと思います。原因はそれだけとは言いませんが、きっとそういう要素もあって、だから自分一人分そういう心をきれいにしていこうと思っています。

そして、後ろめたくない健全な欲というものもあって、それらはきっと出会う出来事をいただくことでおのずと満たされていくものです。一人ひとりがそんなふうに生きていく時、きっとこの世界は天の流れの下、調和していく、そんな未来へ向けて自分を知る旅を続けていこうと思っています。

本当の意味で願いが叶っていくこと(2)

3月24日、1ヶ月間の真学校が終了しました。日本、中国、台湾、タイ、4ヶ国から受講生が集まり濃密な時間となった今年の真学校、その最後にあたり、いさどんは以下のように語りました。

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ハプニングの連続でないと、人生ではありません。ハプニングの連続だからこそ、人生は楽しいのです。

この世界に命として生きるということは、そういうことです。それなのに人間は学習し、予定を立て、その計画の通りに生きていこうとするのです。そして、自分の計画通りに物事を進めようとすることで、自我の芽を、大きく育てていくのです。

皆さんはこの1ヶ月間の間に、私たち一人ひとりの中に、大宇宙の柱である天之御中主の分霊が立っていることを学びました。その内なる柱に目覚めれば、今のように、毎日ハプニングで生きていることがとても楽しくなります。それはとても豊かで、ダイナミックな人生です。

多くの人々は、自分自身の考えや目的を達成しようと思い、一生懸命生きています。しかし、一人ひとりがバラバラの目標に向かって生きた結果が、今の地球上の世界なのです。それぞれが自分の思うように予定を立て、その通りに生きようとすれば、世界はバラバラになっていくのです。

~ 中略 ~

何が言いたいのかというと、こういったハプニングの連続が、人生だということです。そしてそれぞれが個性を発揮し、エンジョイしていく。それが、地球で生きるということなのです。

皆さんは、一人ひとり、とても個性的です。その個性はどれもオリジナルであり、天が皆さんに与えたものです。その個性を、存分に発揮してください。ただし、それを調和させてください。そうすると、天が望んでいるように、この世界は大調和のハーモニーを響かせるようになります。それが、皆さんの当初の目的である、自らの健康で豊かな暮らしにつながるのです。

~ 中略 ~

1ヶ月間、これまでに出会ったこともないような世界観を学びました。現代人には、思考回路の範疇を超えてしまうような学びです。けれども、その思考回路が壊れることが、思考の枠を広げることになり、毎日毎日、新鮮な出会いをいただいていく心の準備になるのです。それがハプニングを楽しみ、豊かに生きるコツです。そして私たちは、天と共に、自らの望みのままに、ひとつの世界を表現するのです。




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そしてその日の夜、大人ミーティングではいさどんブログ「生きることの奥にある人生の原点に出会う」がシェアされました。この文章の中に出て来る以下の言葉はとても印象的で、僕は昨年の9月、この言葉を引用し「本当の意味で願いが叶っていくこと」というブログを書いています。

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本当の意味での願いが叶っていくことは、自分が望んで獲得するのではなく、自然に与えられ、その流れに沿って生きていくことなのです。

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今、あらためてこの言葉に接して、「本当の願い」って何かな?と想いを巡らしました。生きていると「こうしたい、ああしたい」といろいろな想いが生じるものですが、それらは浮かんでは消える波のようなもの。よく意識は氷山の一角に過ぎないと言われますが、意識に浮かぶ想いは表面を漂っているものと言え、その出処はいろいろです。想いのままに生きていたら、その出処を探ることは出来ず人生に深みは生まれません。そして、多くの想いは目の前の出来事やカルマから生まれているのであって「本当の願い」とは言えないと思っています。

「本当の願い」は心の奥底にあるもの。それは意識していようがいまいがあり続けるものです。そして自我は、それとは無関係に目の前の出来事に反応し一喜一憂しています。一喜一憂しながら望んだ願いを獲得しても、その結果は思わぬものとなりがちです。すぐに飽きて新たな願いが生まれたり、他からの反発が生まれたり。そして空しくなることもあります。

「本当の願い」は心の奥底にあるものです。だから簡単には見つけることが出来ません。それを見つけるには、意識の枠を壊し自分の奥へ奥へと入っていく必要があります。そんな探求へと導くのが思いもよらないハプニング。だからハプニングの連続でないと人生ではないのです。

ハプニングに心を開くことで人は自分の段取りや思惑を超えていきます。そしてそのことが思考の枠組みを広げてくれます。その時出会う出来事、それは自らの心が生み出したものでもあり、そこから人は「本当の願い」、そして「本当の自分」を知ることが出来るのです。そしてその時出会う自分は世界と繋がり調和しています。

ハプニングが起きないと、人は自分の狭い思惑の中で暮らすことになります。ハプニングが起きてもそれを拒絶していると思惑の中に留まることになります。その結果、人と人とはバラバラとなり世界はバラバラとなっていきます。それが今の多く人が生み出している世界です。

今、Facebookの個人情報5000万人分の不正利用が問題となっています。そして森友学園への国有地売却での公文書改ざんが問題となっています。どちらも社会に対する信頼が揺らぐ出来事ですが、これらを生み出したのは、トランプ大統領や安倍首相の目標であり思惑です。個人の狭い思惑が世界から信頼を奪い、そして当の本人も自分を守るために苦しむことになっています。それは人々の日常を反映した出来事とも言えます。

だから思いもよらないハプニングに心を開くのです。そして、意識の枠を壊し思惑を超えて心の奥へ奥へと入っていきます。その時、人は「本当の願い」と出会い自らの望みのままにひとつの世界を表現することが出来ます。そこから生まれる大調和のハーモニーを僕は木の花のみんなと表現していこうと思っています。

「本当の願い」

それは頭で思い描くものではなく目の前の出来事を通して探求し続けるものです。そしてそれは大きな流れの中では常に叶っていて表現されるのを待っているのです。それを見えなくしているのは人間の自我、そこから生まれる思惑、だからただそれを手放せばいいのです(^-^)

1ヶ月間の真学校終了パーティにて撮影





宇宙の法、流れに即した世界

2018年3月21日1時15分44秒。太陽が春分点を通過しました。1年前の今日、太陽が春分点を通過した最初の朝、カフェ&ショップ ロータスランドはオープンしました。それを受けて僕は以下の文章を書いています。

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3月21日、カフェ&ショップ・ロータスランドオープンしました(^-^)
オープンに際していさどんはこんなふうに言っていました。

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3連休翌日の平日、儲けを考えていたらこんな日にオープンしないよ。人智ではありえない。でも宇宙的に見たらこの日が相応しい日。この日しかありえない。これは我々が宇宙の流れに沿って生きている証。

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3月20日の19時28分56秒に太陽は春分点を通過しました。春分は宇宙の元旦です。そのことについて天下泰平ブログ「宇宙元旦の春分と宇宙の理の時代」では以下のように書かれています。

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12星座の始まり(1)」である牡羊座に太陽が入る春分は、占星術の世界では元旦を意味しており、宇宙元旦として2017年の本格的な始まりであると言われています。

  ~ 中略 ~

通常の春分とは違い、数千年ぶり、数万年ぶりの大きな節目と言われる今回の2017年春分。

確かにここが大きな分岐点であり、これまでに整理されるものは整理され、手放すものは手放し、そして明日の春分以降、必要なものはまた新たな形で融合され、再スタートしていく感覚を受けます。

明日の春分以降、より本格的に「地球(地)の理」から「宇宙(天)の理」へと、地球の周波数も大きく転換されることになると思います。

人間のエゴ、頭の世界で考えたルール、価値観によって生み出された世界から宇宙の法則、流れに即した世界へ。

ますます頭で考えて動くよりもハートで感じて動かされる時代となり、自分と宇宙を信じて委ねることが重要になってくると思います。

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宇宙的にとても大きな節目である春分点を過ぎた最初の朝にロータスランドはオープンしました。いさどんの言う通り、まさに「この日しかありえない」日なのです。

それでそんな記念すべき日である2017年3月21日の天気は朝からザーザー雨が降っていました。ですが、雨空にも関わらず沢山のお客様に来店していただきました。そしてあるお客はテラスに吹き込む雨を眺めながらこんなことを語ってくれました。

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雨が降り込んでいますね。「振り込む」「振り込まれる」ということでお店のオープンには雨はとても良いのですよ。おめでとうございます。

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宇宙の節目にオープンしたロータスランド。天気も応援してくれていました(^-^)

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宇宙の流れに沿って生まれたロータスランド。この1年間、お客様にも恵まれ成長し続けました。その土台となる精神はいさどんの以下の言葉に表されています。

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今の社会では、みんな収入を得るために必死に仕事をしています。お店ならば、お客を獲得するために一生懸命、商品開発や営業活動を行っています。お客の増減はお店にとっては死活問題なのです。ですが、木の花ファミリーの活動はそれとは違います。私たちは天の恵みである作物をいただき、それを基盤として生活を営んでいます。収益を得ることが死活問題とはなっていません。ですから、私たちの商売は一般とは違うものなのです。同じ基準で考えてはいけません。天の恵みによって暮らす私たちは、心に余裕やゆとりがあります。そして、その余裕を心磨きに向けることが天との約束です。商売もその延長にあります。天の恵みの恩恵を世の中に広げていく。それが私たちにとっての商売で、心を伝えること、幸せを循環させることがその本質にあるのです。


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宇宙の法、流れに即した世界、その豊かな恵みを伝えるロータスランドはこれからの時代を象徴する存在と言えます。だから成長し続けているのですが、それを支えるのは日常の心磨きであり、それは以下の言葉のように古いものを手放して生きていくということです。

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波動が低いということは、壊れないということです。波動が高いということは、壊れるということです。

波動が高くなると、質的転換が起こります。もち米を蒸して突くと、圧力が高まって波動が高くなりますね。波動が高くなったものは、私たちが食べると質的転換を起こし、エネルギーになります。波動が低いものは質的転換が起こりにくいですから、いつまでもその形が残ったままになるのです。

宇宙は、常に変化することで成り立っています。波動が高いところでどんどんどんどん変化すること ─── それが活性化です。人間が自我を持ち、欲を持つと、変化しないことを求めるようになります。何かに囚われ、現状を守ろうとするのです。しかしその自我の欲が満たされても、人間は成長しません。むしろ、その欲に支配されて、不自由に生きることになるのです。

けれども、人間が自分を手放し、自由にしてあげると、自我の枠から離れることができます。この、自分自身を手放すことを、シヴァのはたらきと言います。シヴァとは、破壊の神です。宇宙は、この世界をどんどん変化させています。それは、無限の宇宙の中で、常に先へ先へと、未知なるところに向かって旅し続けているということです。それが生命の宿命であり、宇宙を生きる上で正常な状態なのです。その中で、私たち人間も、自らの価値観を絶対とするのではなく、宇宙が変化していく流れをいただいていく。「いただく」ということは、古いものを捨てるということです。


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宇宙の法に則して常に変化変容を繰り返す木の花ファミリーの暮らしとロータスランド。3月21日は木の花ファミリーの24歳の誕生日でもありました。大人ミーティングの最後に、みんなでハッピーバースデーを歌って、この暮らしの大事を確認しました(^-^)



想いを手放し、想いのままに生きる

僕は今、確定申告の準備をしていますが、締め切りが間近に迫る中、国税庁長官の佐川氏が辞任しました。学校法人「森友学園」への国有地売却問題での決済文書書き換え疑惑を受けてことで、佐川氏は売却問題が発覚した昨年の2月、理財局長を務めていました。財務省は書き換えの事実を認め、そして佐川氏は国税庁長官を辞任しました。佐川氏が自らの意志で書き換えをするとは考えにくく、それを指示した存在がいたと思われます。

決済文書を書き換える行為は作為です。そして佐川氏の辞任にも「トカゲの尻尾切り」という作為が感じられます。

こうしたい、こうなって欲しいという気持ちがあるからそうなるように作為をするわけですが、その作為が上手くいく保証はどこにはありません。作為は自分の視点からするわけですが、自分の欲に縛られれば縛られる程、その視点は狭くなっていきます。そのため作為は思いがけない結果を生み出し、結果に対応しようとして新たな作為が生まれ・・・というように自分の欲に縛られると結果に翻弄されるようになっていきます。

今、森友学園問題は上記のような状況にあるように思われます。そして、それは今の社会を象徴する出来事と言えます。

我々の直面する重要な問題は、それを作った時と同じ考えのレベルで解決することはできない。

上記はアインシュタインの有名な言葉ですが、今、直面している問題は自分たちの想いの結果生み出されたものです。自分たちのこうしたい、ああしたいという想いが自分たちの意図を超えて今の問題を生み出しているのです。そして何とかしようとするのですが、その想いも大抵は同じレベル(自分視点)でなされます。そうすると何とかしようという気持ちが今の問題を維持しているとも言えます。人は問題を通して学ぶのでありそのことを必ずしも否定的に捉える必要はないのですが、ある程度学んだら想いをリセットする必要があります。そうでなければ人は、自らの想いが生み出す想いもよらない結果に翻弄されたままとなります。

突破口は気づきにある

僕は昨年の10月、以下の文章を書いています。

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気づきとはこの世界に対する理解です。それを得るためには世界に起きていることをただの情報として眺める視点が必要となります。感情や思惑が挟まると世界は自分の色に染まっていきます。そして、想いのままに行動することになり、そこに気づきは生まれません。

人は他者からの理解を求めるものです。ですが、その時理解される自分とは今の自分であり、今の自分が現在の問題を作ってきたのです。だから他者からの理解を求めることはないのです。そうではなく、ただ世界や他者を理解していく。そのことに努めた時、自ずと気づきは生まれ、それが新しい動きとなっていきます。


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人がこの世界に誕生する時、自分の意図は介在しません。みんな、自分の想いもよらない出来事によりこの世界に生み出されます。想いもよらないことによって世界は動き、僕らは生かされているのです。だから僕は想いを手放します。

上記は自分の視点から、思惑や感情を離れて見た事実です。

ですが他者から見たら違う景色も見えてきます。他者からすると、僕の想いが想いもよらないものともなります。ただ他者の期待に沿うのではなく、想いもよらない喜びを生み出すことも出来ます。そのためには想いのままに行動することが大切で、だから僕は想いのままに行動します。

想いを手放し、想いのままに行動する。

話すことは放つことです。想いのままに話し、話すことで想いを手放す。そうすることで、想いのままに生きるとともにその想いを手放していこうと思っています。

農事組合法人の決算や確定申告の準備のために長いこと大人ミーティングをお休みしていましたが、もうすぐその期間も終わります。ミーティングで、みんなで語り合い場創りをすることで、「みんなで」という波動を世界に広げていく。大人ミーティングはそんな場です。

長いお休みの中で培った僕の視点、それを想いのままに語ることで、僕はその想いを手放していきます。そうすることで僕は、自分の想いもよらない人となり想いもよらない人生を歩んでいくことになるでしょう。そんな人生を楽しみます(^-^)


木の花ファミリーのみんな、1ヶ月間の真学校受講生と。


すべて美しく、すべて意味があり・・・

3月7日の誕生日、僕は1ヶ月間の真学校「経済革命」の講座に講師の一人として参加しました。講座の冒頭、いさどんはこんなふうに僕を紹介しました。以下、「当たり前の仕組み・お財布ひとつの経済」からの引用です。

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経済とは、お金の流れです。では、木の花の中でお金の流れはどうなっているでしょう。
木の花の中のお金は、ひとつです。皆さんの会社や家庭の中で、お金はひとつではないでしょう?でも木の花では、お金はひとつなのです。みんなでひとつの財布です。つまり木の花の経済は、私たちの体や地球、太陽系、銀河、宇宙の仕組みと同じなのです。それはこの世界の仕組みそのものですから、当たり前のことですね。ところが、この当たり前のことが今の人間社会にはできないのです。
僕はいろいろなエコビレッジなどに招待されて行くことがありますが、皆さんのところではお財布はひとつですか、と聞くと、そうではありませんね。たった「財布ひとつ」ができない。なぜだかわかりますか。それはスピリット、つまり、心がひとつではないからです。
木の花の経済は「財布ひとつ」ですが、それを循環させる心臓の役割を今日は連れてきました。
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経理のなかのんです。木の花の心臓です。よろしくお願いします。
(みんな拍手!)

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そして、話はこんなふうに続きました。

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みかこ:
金は天下の回り物、と言いますね。

いさどん:
おもしろいですね。「天下」とは天の下、つまり地上のことですね。
木の花の経済は「目から鱗」と言いますが、実は当たり前のことです。天の恵みを世の中に広げる、天然循環経済。その基本が、財布ひとつということです。
財布ひとつと言うと、みんなびっくりします。でも、地球の水はひとつですよね。液体だったり個体だったり気体だったりしますが、それは循環しているだけで、ひとつです。空気もひとつですね。今私たちは、ひとつの空気を共有しているじゃないですか。これはみんなの中を循環し、みんなを健康にするものです。そしてこの世界をひとつにします。お金もそうでなければなりません。それは、私たちの体を流れる血液と同じなのです。

もしも皆さんの会社や所属する組織がお財布ひとつだったら、とても便利がいいですよ。自分の貯金なんて確保しなくていいのです。お金が必要になった時に、お財布の中身が足りない、どうしようなんて考えなくても、全体のお財布から持ってくればいいのです。その代わり、自分が日々働くことは全体のためであり、お金も全体に入ります。自分は全体のために働き、自分が何かを必要になった時は全体から供給されます。ということは、自分のためだけに、なんて考えなくてもいいのです。とても楽だと思いませんか?とても楽で理に適った当たり前のことですが、それを聞いてみんな驚くのです。


でも皆さんは、そんな世界を求めているのではありませんか?

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いさどんと一緒に講座を創れたことはとっても素晴らしい誕生日プレゼントとなりました。いさどんは僕を引き立て、そしてその場を豊かな時間にしていきました。この日の夜、僕は「経理を通して社会と響き合っていく」を大人ミーティングでシェアしましたが、その場もいさどんは僕を引き立てながら楽しく豊かな時間を生み出しました。

木の花ファミリーの経済は頭でこうしようと思って生み出されたものではありません。心をひとつにして暮らし、社会と対話する中、生み出された仕組みです。だからずっとこれで固定するわけではなく社会が変化すればそれと呼応して木の花の経済も変化していくことでしょう。ただその土台は変わることがありません。それは「心が一つ」ということであり、自分を超えた大いなる意志の下、みんなで繋がり分かち合う生き方です。

誕生日、たくさんの人に祝って貰って幸せな気持ちになりましたが、普段の日から美味しい食事や温かい心に包まれ毎日幸せに暮らしています。それは分かち合う心が生み出す豊かさです。生きていれば都合の悪いことも起きますが、それは自分の視点から見ているから都合が悪いのであって、大いなる意志に心を向けたら、すべての出来事は祝福です。そして生きていることは意図せずに実現していることです。僕の意識の知らないところで僕はこの世界に生み出されました。生きていることは自分の意図を超えています。だから「こうでなきゃ・・・」という想いや「自分が・・・」という想いを超えて、この世界に心を溶かしてみんなと心一つで生きていこうと思いました。

誕生日、友人の川崎くんは今年もこんなメッセージをくれました。

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Happy Birthday!! Whatever is beautiful, whatever meaningful, whatever gives you happiness.May all that be yours, today, tomorrow & forever .

(誕生日おめでとう!! すべて美しく、すべて意味があり、すべてがあなたに幸福をもたらします。今日と明日、そして永遠にそれらがあなたのものでありますように。)

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僕は一人の人間だけれども、同時に永遠の表れでもあります。そして、すべては美しく、すべては意味深く、すべては尊い。「自分が・・・」という想いに囚われなければ、そんな世界が見えてきます。僕は永遠の表れ。永遠という時空であり時空を超えた世界の一つの彩りなのです(^-^)


経理を通して社会と響き合っていく

先月、プロセスワーカーのとこさんは還暦を迎えましたが、とこさんが誕生日にあたり書いた言葉がとても印象に残っています。以下その一部を引用します。

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兎に角、言いたいのは、年齢だから起きてると思う症状を歳のせいにするより、その症状がシステムに自分がどう加担してるかにいかに関係してるかっていうアウェアネス(気づき)を持ちたいと思う方が、とこにとっては大事ってこと。

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システムという言葉は社会とも言い換えることが出来ると思うのですが、一人一人の身体症状や課題は社会の影響を受けていて、社会の表れとも言えます。と同時に、一人一人の総和が社会なわけだから、自分のあり方は今の社会のあり方に何らかの形で加担しているわけです。人は症状に出会うと自分を被害者のように感じるものですが、無意識を含めた自分の総和がその症状を選び、そして自分一人分、今の社会に影響を与えているのです。そこを見極めていくことはとても大切なことだと思っています。

それと同時に大切だと思っていることは、症状をネガティブに捉える必要はないということです。ネガティブに捉えるのは、善い悪いという発想に囚われているからで、すべてはただ相応しくあるだけなのです。だから単純に症状や問題をなくそうとするのではなく、症状や問題を生き抜きその奥を見通していこうと思っています。その時きっとこの世界の神秘が花開いていきます。




ここで社会と自分の関わりについて書いてみようと思います。僕ら木の花ファミリーはお財布一つでみんなで暮らしています。誰がお金を持っていてもそれをみんなのお金として扱い生活しています。どこにあっても誰が持っていてもみんなのお金で、そのお金を通してみんなの生活を支えています。自分が持っていても他の人が持っていても同じことだからみんなお金のことを気にせずに暮らしています。その暮らしは今の社会に対する一つのメッセージとなっています。

と同時に僕らは日本社会の中で生きているので、日本の法律に基づいて暮らしています。日本の法律では、課税の基準としてお金の所有者や動きを明確にすることを求めています。その求めに応じて、たくさんの人が集まって一つになっているお金の動きを分類し所有を明確にしていく作業を僕はしています。それはとても複雑な作業なのですが、今の社会を表しています。一人一人が所有権や望みを主張することで、本当は単純で美しいこの世界を人間は複雑で情にまみれたものにしています。そして余計な仕事を生み出し仕事に追われる生活をしています。今、お金はお金を管理する仕事を生み出していますが、世界のお金がみんなのお金になったら、どこにあって誰がもっていてもみんなを支えるだけならば、多くの手続きが不要になりこの世界のトラブルも半減するでしょう。ですが、今の人々は、個人個人の幸せそして個人個人のお金を求め、それが生み出す忙しさを受け入れています。それが今の社会の選択で、その社会と連動して僕は忙しさを引き受け心や身体に負担を掛けている、そんなふうに思っています。そして、それは僕の主体的な選択であり大切な役割だと感じています。

この世界の神秘は現象の奥にあります。だから極端なことを言ってしまえば、現象としては何が起こっていてもいいのです。大切なのは、その現象を生き抜きその奥にあるメッセージを掴むことです。

僕は今の社会へのメッセージとしてお財布一つの生活を送りながら、それと同時に、経理を通して今の社会の複雑さを生き大変な思いをしています。その大変さは、人間が歴史の中で生み出してきた複雑さであり、彩りであり、混乱であり、多様性です。僕の忙しさの奥には今に至る人類の物語が流れているのです。僕は現代社会に生きる一員としてその複雑さを生きています。と同時に、僕は他の世界、お金から自由な世界も体験し知っています。だから僕は目の前の現象から離れ現象の奥を見通すことが出来るのです。

ここには危うさもあります。僕が目の前の作業に埋没し、ただ忙しく働くだけならば、それは今の複雑な社会に加担するだけとなり、下手したらワーカホリック(仕事中毒)にもなりえます。こうなると僕は社会の犠牲者となり、そのことで社会を犠牲にするようにもなります。ですが現象の奥を見通しその視点を持って忙しい毎日を送れば、そこから「気づき」が生まれこの世界へ光を差し込むことが出来るのです。

突破口は気づきにある

僕は昨年の10月、以下の文章を書いています。

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我々の直面する重要な問題は、それを作った時と同じ考えのレベルで解決することはできない。

上記はアインシュタインの有名な言葉ですが、今、直面している問題は自分たちの想いの結果生み出されたものです。自分の想いを通そうとしても、突破できないのは当然と言えます。ですが、人はそれを周囲のせいにすることもあります。自分の考えは正しいのに周りの理解がないから実現出来ない。こんなふうに考え、それに固執し、その結果、停滞していくのですが、それも自分の想いが生み出している現実です。

気づきとはこの世界に対する理解です。それを得るためには世界に起きていることをただの情報として眺める視点が必要となります。感情や思惑が挟まると世界は自分の色に染まっていきます。そして、想いのままに行動することになり、そこに気づきは生まれません。

人は他者からの理解を求めるものです。ですが、その時理解される自分とは今の自分であり、今の自分が現在の問題を作ってきたのです。だから他者からの理解を求めることはないのです。そうではなく、ただ世界や他者を理解していく。そのことに努めた時、自ずと気づきは生まれ、それが新しい動きとなっていきます。


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現象の奥にはすべてを生み出す元の世界があり、そこには常に希望があり、世界に変化変容をもたらしています。ですが、人が今の想いに固執すると、その動きが停滞し問題となって表れるのです。今、多くの人が自分の想いで心をいっぱいにしています。そして、一人一人が自分の想いを満たそうとして社会がどんどん複雑になっていきました。僕は経理を通してそんな複雑な社会を経験していますが、同時にそこから離れ現象の奥へと目を向けています。だから僕の中には気づきがあります。

今年の2月、カフェ&ショップ ロータスランドがオープンしたことで経理上はとても複雑になった木の花の経済に向き合う中、僕は39.5℃の熱を経験し、オフィスの引越しを経験し、祖母の死を経験しました。熱の中も仕事を続け、日帰りでさいたまの祖母の葬儀に立ち会い、最後は5日間で7時間という短い睡眠時間(横になった時間でウトウトした時間はもっとあります)で働き続け法人税(農事組合法人)の申告を済ますことが出来ました。僕の中には最初、この状況に対する怒りが生まれていましたが、次第に神様の計らいを感じるようになり「いただく心」を育んでいきました。それはとても濃密で有難い時間で僕はこの時間を通して自分が傍楽(はたらく)意味を再確認しました。

働く(はたらく)とは、人が動くことであり、自分を超えた大いなるネットワークの中で役割を果たし、傍(はた)を楽(らく)にしていくことです。そこに「自分が」という想いは必要なく、空っぽになってただ与えられた役割を坦々と果たすだけ、そしてそのことを通して現象の奥を見通し、この世界に気づきをもたらしていくのです。

傍(はた)を楽(らく)にする。

他者のために生きる

それはただ物理的な行動だけではなくこの世界に気づきをもたらし新しい動きを生み出すことです。自分の想いでいっぱいの行動は、最初はスムーズに動いたとしてもいずれこの世界に停滞をもたらします。だから常に自分を離れ現象の奥を見通す心が必要で、これからもずっとそんな心を育み経理を通して社会と響き合っていこうと思いました。

もうすぐ僕は43歳になりますが、誕生日は現象としての自分がスタートした日です。現象としてはそこがスタートですが、現象としてこの世界に顕れる前に、魂としての自分は存在し続けていました。3月7日の誕生日を前にして、そこに想いを馳せています。

大切なのは、現象を生き抜きその奥にあるメッセージを掴むことです。だから現象は何が起きてもいいのです(^-^)


木の花ファミリーのみんなです。

咲いた梅の花のように

やることが沢山あるとそのことに意識を集中する必要があるのですが、それは没頭にも通じて、場合によっては危うい状態にもなります。

お酒やたばこ、薬物、パチンコ、仕事や携帯など。世の中には様々な中毒や依存症がありますが、依存症、中毒って何かに没頭することで現実を忘れていくことだと思うのです。現実と向き合わないことで日常生活に支障が生じたり、身体が壊れたりしていきます。そして心は、世界との生きた交流を失い、自分だけの世界へと埋没していくのです。

もともと僕には自分の中心を他者に投げ出す傾向があり、そのことによってトラブルを経験してきました(「あなたの未熟もみんなに役立つ」参照)。それって依存症にも通じる心で、依存症は自分の中心をお酒やたばこに投げ出すことで「それがなければいられない状態」へと陥っていくのです。

今、実際に会計処理に集中する必要があるのですが、それってワーカホリック(仕事中毒)を生み出す土壌ともなり、しかもそのことに正当性も与えられます。いやぁ、危うい。本当に危うい状況にあるなと思います。実際に2月中、この精神状態ってこのままいくと依存症のようになっていくんだろうなと感じたことがありました。依存症の要素を抱える僕にこんな状況が与えられるのも神様によるお試しだよなぁと思っています。危うい状況にありながらもそれを認識し、現実に心を開き必要なことを坦々とこなしていく。それは僕が自分の課題を克服した証となっていくことでしょう。そんなことを思い日々を送っています。

そして3月に入りました。

3月に入り健康や長寿を表す梅の花が僕の周りでもようやく咲き始めました。今年は寒かったからか例年より開花が遅く感じましたが、多少遅くなったとしても季節は巡っていきます。そして、今日、3月2日は満月です。この満月は旧暦では小正月にあたり、2月16日の新月から始まった旧暦のお正月期間もここで終了となります。この期間、僕はかなり無理を重ねて働きましたが、季節が巡るように僕の状況も日々刻々と変化していきます。一番大きな課題と言える農事組合法人、法人税の申告は済ますことが出来ました。これからは花開いた梅の花、健康をもう少し意識して過ごそうと思います。

昨年の3月、カフェ&ショップ ロータスランドがオープンすることでコミュニティ全体のお金の流れが大きく変わっていきました。そんな中、僕は木の花のお金の流れを掴みきれなくなっていきました。そこで外部の専門家に見てもらうことも検討し、税理士紹介サイトを利用したのですが、日常生活と3つの法人(農事組合法人、NPO法人、合同会社)が一体となったうちの会計の特殊性のためか引き受けてくれる税理士は見つかりませんでした。だから自分で道を切り開く必要があったのですが、なかなか光を見いだせずにいました。そんな状態だったので農事組合法人の決算報告を作成することは不可能に思え、この1年ずっと葛藤状態にありました。

早い時期からずっと大人ミーティングに出ることを止めて会計に集中するべきではないのか?木の花祭りの鬼を降りて会計に集中するべきではないのか?

こんな思いも湧き続けていましたが、僕は昨年1年、大人ミーティングの多くに参加し全力で場創りをしてきました。そして木の花祭りもみんなと共に舞い踊りました。その経験は僕の宝となり力量となっていますが、もし決算報告が出来なければそれもただの判断ミスとなっていきます。そんなプレッシャーと向き合った2月。僕は作業に集中する中、とうとう木の花のお金の流れを掴み直すことが出来ました。それは感覚の話でもあり、流れを見通すと、ここ全体のお金の流れが自分の身体の一部のように感じられます。その感覚をなんとか取り戻し決算報告を仕上げることが出来ました。

不可能に思えたことが出来たこの経験、自分が自分の想像を超えたと言うことも出来ますが、結局、先のことは分からないのです。分からないから、先のことは置いておいて目の前のことを確実にこなしていくことが大切です。例えば僕が昨年の早い時期から大人ミーティングに出ずに会計に集中したとします。それが良い結果に繋がったかというとそうとも言えないと思っています。僕の中には「出来ないのでは」という不安があったわけですが、不安からの行動はそれに相応しい現実を生み出すものです。会計ばかりに集中して僕の心のバランスが保てるかどうかも分からないことです。未来をコントロールすることは出来ません。常に何が起こるか分からないものです。

結果から見たら、僕は昨年、大人ミーティングの多くの時間を楽しみ、そして決算報告も出来ました。それは未来に対する判断を置いておいて目の前のことをこなしていった結果だと思っています。そして今、心が少し軽くなっています。

梅の花が咲きました。そして旧正月の期間が終わります。だからどうしようと決めるわけではないのですが、咲いた梅の花を感じて咲いた梅の花のように過ごしていこうと思っています。

季節は巡り巡ります。同じように僕の状況も、そして世界の状況も巡り巡ります。その変化に心を開いていようと思っています。

梅の花と富士山。「宮ノ下広場」にて。



自分自身が大海の表れであるように。

自分は親孝行をしていたはずなのに、与えようとする意識とそれを受け取る意識の価値観が違うがために、親不孝をしていることがわかったのです。親孝行や人を想うことは、相手と通じたときに価値があるのです。どんなに相手を想う心であっても、それがいかに尊くても、相手と通じなければ意味がないと考えたときに、自分は間違っていたと気付きました。その極めつけとして、「自分は世のため人のための人生を生きると言っておきながら、結局自分の先祖や両親を優先して考えていた。ここにも我があることを知って、天はこの我も取りなさいと教えてくれているのだ」と気付き、親元を離れ、富士山へ行き、この生活をしようと決意したのです。


このようにして、ふるさとでの理想郷づくりを半年で断念した僕は、ふるさとを出発する当日、その志を滝神社の氏神様に報告しに行きました。そうしたら、氏神様から次のような言葉が降りてきました。「そなたのことは、上の神様より聞いておった。そなたがここに来て、わたしを盛り立ててくれることを喜びとしておった。だから、まさかここで別の地へ行くとは思わなかったが、それは理解できる。旅立ちのはなむけに、言葉を送る。どんな大海を行く者も、その始まりはふるさとに降るしずく一滴より始まることを忘れるな。



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上記はいさどんが故郷を離れる時のエピソードですが、人間はみんな一滴としてこの世に生を受け、そしてこの世を旅立つ時、この世界という大海と一つとなります。ですが、あの世に旅立つ前にこの世にいながら大海と一つとなって歩むことも出来ます。それが心磨きの道だと僕は思っています。

話しは変わって。


そば粉のガレット



のんちゃん
カフェ&ショップ ロータスランドでは今週から午後2時以降、そば粉のガレットを提供しています。Facebookに掲載されているのを見て秘かに食べたいなと思っていたら、ロータスランドスタッフののんちゃんが作ってわざわざ僕が仕事をしているオフィスまで持ってきてくれました。それもちょうど飲みたいなと思っていたミルクティーと一緒に。思いがけなく胸がいっぱいになって、5年前の7月にのんちゃんが作ってくれたおにぎりを思い出しました。以下、その時、Facebookに投稿した文章です。

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今日は、お昼に出かけることになっていたんだけれど、バタバタしてしまい、昼食を食べる時間が取れそうもなかった。

「まあ、いいか」と思っていたら、そんな僕の様子を察してのんちゃんがお出かけ用に、おにぎりとゆで卵を用意してくれた。

のんちゃん、すげー!!!

って思った。僕は何にも言っていないのにね。


※写真のおにぎりは酵素玄米にピーナツと黒米餅あられが入っているもの。この他、キビご飯の焼き飯のおにぎりや、とろろと黒ゴマと梅を使ったおにぎりが入っていて、とっても美味しかった(^-^)

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そして、おにぎりで思い出すのは、昨年の誕生日に同じくのんちゃんに作ってもらった大きなおにぎり(下の写真)。この時、僕はこんな文章を書いています。

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とっても素敵な料理を作ってもらって胸がいっぱいになりました。そして、みんなで僕を囲んで写真を撮ってくれたのですが、「なかのん、誕生日おめでとう!!!」という声と共にみんなが拍手をしてくれました。それも思いがけなくて胸がいっぱいになりました。デザートはほとんど子どもにあげてしまったのですが、こうやって共有出来ることがただただ幸せでそのことも僕の胸をいっぱいにしました。僕は感動で満たされました。

変化変容を繰り返すこの世界の法則はみんなを幸せに繋いでいきます。それを邪魔するのは「自分が・・・」と際立つ心だけです。僕は魂の地点に立って、自分の思考や感情から自由となり法則のままに生きていきます。そしてみんなとその豊かさを表現して発信していきます。その時きっと自分自身が永遠の表れとなっていることでしょう。

そう、僕は永遠に続く宇宙です(^-^)

いや、「僕は・・・」ではなく「僕も・・・」ですね。
気付けばみんな永遠に続く宇宙、共に未知の道を旅しているのです。



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自分を超えて法則のままに生きる時、人は宇宙そのものの表現となり大海と一つとなるのだと思います。これから僕は祖母の葬式に行きますが、僕はそんな心を持って祖母を見送ろうと思っています。その場で会う僕の身内は一滴としての僕を生み出したくれた人たちですが、僕は同時に大海でもあります。自分自身が大海としてその場に臨めば、滴としての僕らは溶け合って時空を超えて、生死を超えて一つとなっていきます。忙しい時期であり物理的には僅かな時間しか共に過ごすことは出来ませんが、大きな心で共に過ごそうと思っています。

2月という1年で最も忙しい時期に病気をいただき、そして祖母が亡くなりました。思いもかけないことが続きますが、神さまの計らいも同時に感じています。例えば農事組合法人、税申告の締め切り日に葬式が突然入ったらどちらかを諦める必要があるわけですが、何とか出来る可能性は保たれているのです。

そして今、僕は木の花のみんなの中で生きています。そしてみんなが僕に気を掛けてくれています。素敵なデザートを運んでくれたのんちゃんだけでなく、癒し処たんぽぽの鍼灸師じゅんぞうくんは頼みもしないのにいつも僕の身体の状態を見てくれます。そして、日々の細かなことに気を掛けてくれるオフィスチームのみんな、僕のエールのために大事を語ってくれたいさどん、全部、僕が意図していないところで起きていることです。僕の意図していないことが僕を支え僕を生かしてくれています。

自分にとって都合のよいことも都合の悪いことも、嬉しいことも辛いこともみんなみんな自分の意図を超えたところで起きていて、それが僕の胸をいっぱいにして僕の幅を広げてくれます。僕という一滴を壊し大海へと導いてくれているのです。

大きな流れがこのタイミングで僕を肉親の元へと導いています。僕はただその流れを受けて行動し滴としての自分を確認すると同時に自分自身が大海の表れであるように生きていこうと思っています。それはこんな感じの人生です。

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僕は海。そして浮かんでは消える波として人生を送ります。

波としての自分に焦点を当てれば、それは自分の人生と感じるかもしれませんが、僕は本来、海そのものなのです。だから、波(自我)としての自分は他のすべての波(自我)と同様で、世界の彩りの一つに過ぎず、それはみんなのものなのです。

僕は自分を通してみんなの人生を生きる。

それは僕の人生が僕だけのものではなくみんなのものでもあるということです。



木の花ファミリーのみんな

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