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人生で大局を表現する

2年前の7月、いさどんは僕にこんな言葉を語ってくれました。

☆彡 ☆彡 ☆彡

常に意識を全体性に持っていく必要があります。
あなたは今、個人的願望を抱えているわけだけれども、それをどう超えていくのか?
それが重要です。
個人的願望が全体性と共通していればいいのです。
例えば、個人的願望が宇宙の法に基づいていたら、それは理に適っていきます。
個人を高めるためというならば、それは全体性を持つことが個人を高めることであり、
全体性と個人は本来、共通していることなのです。
ですが、個人が抜きん出てしまうと、天が「それは違う」と滞りを与えてくれるのです。

心を磨いた結果出会うことがあります。願いが叶わない状態も自分を高める要素です。
「はい!分かりました」と叶うようなことなら、その願いは本当に自分を高めません。

だから何より心を磨き続けることです。

そして、自分を高める努力をしていると、その努力したことでエネルギーが消費され、他のものはいらなくなります。いらなくなった状態をさらに超えた世界。共通の世界で極めていく世界がその次にあるのです。個人で高める努力から「みんなで」とか「一つになる」というところで極める世界があるのです。

それは前人未踏の世界。我々は前人未踏の世界を創らなければならないのです。



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立春を過ぎて、僕はひっくり返った今、「他のものがいらなくなる状態」というものを掴みかけています。日々の生活の中で心は動きます。こうなるといいなという想いが浮かぶこともあります。ですが、僕はそんな自分を世界の側から眺めています。世界にとって、個人的な想いは叶っても叶わなくてもどちらでもよいのです。浮かんでは消えていく僕の感情、それを眺めているだけです。そして感情に流されず、天に心を向けて、世界に心を開き、出会う出来事をいただいていくだけです。

出会う出来事はいつも新鮮。それを通して常に新しい自分と世界を体験していきます。それは無限の可能性を秘めた世界の法を極めていくことです。

僕らは日々、新しい課題に出会います。そして課題に出会うことで心が揺れ動きます。そんな時の心構えをいさどんはこんなふうに語ってくれています。

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課題に出会うことは、その課題を超えて新たな可能性に出会うということであり、それは本来喜ばしいことだ。しかし、それまでに持っていた概念にとらわれていては、その課題は常に目の前にある障害物にしか見えない。

一年に四季があるように、人間が生きていく上で新たな発想が芽生え、伸びていく時がある。その成長が旺盛になり物事がどんどん様変わりしていく。そしてそれが熟して収穫をする秋を迎え、次の課題のための熟成の冬を迎える。そして、新たな課題に出会い、自らの新たな可能性の春に出会う。人間の生の一年の中にも四季のリズムがあり、それは一生の中にも同じように刻まれている。

大局的にとらえれば、どのような時も前向きに生を全うすることができるが、大局は人間の思考の中にあるのではなく、宇宙の星々の運行であり、その星々の関係性の法則の中にあって、それは人間の思考を超えた仕組みによってもたらされている。それを人間一人ひとりが命の営みの中で受け取り、思考に転換し、自らの生の中に表現していく仕組みになっている。

我々の命は自然そのものであり、さらに自然の奥にある宇宙秩序そのものであり、自然の奥にある自然を法則化している天の意志・「天然」そのものである。それを理解するためには大局的にものをとらえないと、この世界の事象の奥にある本当を観ることはできない。

だから、人間が考える思考と、生命として生態系につなぐ自然と、さらにその自然を保つための宇宙の法則・天然、その3つの視点があってこそ、人間が生を受けてきた目的や役割、そしてこの地に降り立った意志を満たすことができる。

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自分の生を大局に捉える。それは大いなるものと一体となり、自分の人生を通して大局を表現していくことです。

日米首脳会談があり、北朝鮮がミサイルを発射しました。それを日本のアメリカ、北朝鮮の利害で語っていたら、それは人智であり、大局で捉えることにはなりません。宇宙や世界のことを語っていても利害や損得など人智で語っていたら、それは「自分ごと」に過ぎません。それぞれが「自分ごと」で語っていても真の調和には至りません。

大局は宇宙の星々の運行であり、その星々の関係性の法則の中にあって、それは人間の思考を超えた仕組みによってもたらされています。つまり人智を超えているのです。

大局に捉えるとは出会うことをいただき自分たちが大いなる存在に生かされていることを感じることです。その時、大いなる存在のもとすべての存在が一つに繋がり真の調和へと至るのです。今年の立春正月祭にて、いさどんはこんなふうに語っています。

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今年は、ファミリーにはやることがたくさんあります。きっと忙しくなることでしょう。「忙しい」という字は、「心を亡くす」と書きます。ですから、忙しい時にこそ、心を忘れないことです。損得勘定は置いておいて、天の気と共に、時代と共に、いよいよこの生き方が大切となる時を迎えたのだということを胸に今年一年を過ごすと、来年のこの時間には「本当にそうだった」と思うことになるだろうと、確信しています。
この先がどうなるのかは、行ってみなければわかりません。そこでどうしようかと自分の中だけで思考を回すのではなく、この世界はたくさんの精妙なる仕組みによって動かされているのですから、そういったことを意識しながら日々を頂いていくことです。農に生きる者なら、土と対話する。作物と対話する。それは自然の気を読むことです。風を感じることです。お天道様に感謝して、どう生きたらいいのかを頂くのです。
そうすると、この世界によって自らが生かされていることを感じるようになるでしょう。私たちは常に大いなるものと共にある ──── そのことがわかると、一年が充実します。現代の多くの人は、そのことを忘れてしまいました。その生き方を実践するのが、ここの暮らしです。
これからいよいよ、誇りを持ってこの生き方を世の中に伝えていく時がきたのだと思うと、心がウキウキします。その証が、ロータスランドです。開店まで、あと1ヶ月半となりました。世の中はこれからますます大変なことが起きるでしょう。その中で、なぜそういったことが起きるのかを感じながら、みんなで忙しく働き(=傍楽)ながら楽しく生きて、こういうふうに一年を過ごすといいよ、こういうふうに年を取ればいいんだよ、という見本となっていきましょう。
とても楽しみな年を迎えたと思っています。
みなさん、今年もよろしくお願いします!
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立春から10日が過ぎました。忙しい毎日が続きますが、自分の思考を超えて思い切り働く(傍楽)ことで傍(はた)を楽(らく)にして、この大いなる世界の中で役割を果たし大局を表現します。挨拶が遅くなりましたが、今年もどうぞよろしくお願いいたします。

木の花ファミリーのみんな@立春正月祭


出会う出来事は自分の人間性の表れ

一昨年の7月、僕は「心を磨いた結果出会うこと」という記事を書いていますが、そこには以下のような記述があります。

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宇宙の秘密みかこのブログ「ミノナライ」が大人ミーティングで読まれた時、

いさどんが来る時に限って失敗する」

という発言がありました。その原因について僕は「評価を求めて硬くなってしまうからそういうことが起こるのかな?」といさどんに尋ねました。そんな僕に対していさどんは以下のように話してくれました。

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僕が行くことで緊張するとかそういうことではなくて、多くの人は自分のやっていることが見えていないのです。そこに僕が行くことによって、見えていなかったことが明らかになるのです。つまり、それまではOKにしていたことが、よく見ることによってOKではなくなるのです。こういう人は普段から失敗をしているのです。

多くの人は自らの欲望のままにそれに翻弄されて生きています。
これは意識が自分にばかり向いている状態です。
この状態では心からの気づきは生まれず、失敗も見えないのです。


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日々の生活の中で失敗しても大きなものでなければそのままで過ごすことは出来るものです。例えば、「みんながみんなの真ん中で溶けていく」で紹介しているエピソード、僕宛の電話を他の人が出て僕に取り次ぐことは失敗とも言えますが、そのままにして過ごすことも出来ます。ですが、そのままで過ごしていたら変化は起こりません。変化は失敗をする自分と向き合うことで起こります。

今、トランプ大統領によるアメリカの移民・難民入国制限が話題となっています。アメリカ各地で賛成派と反対派が衝突し人々の分断が明らかとなってきています。大きな混乱を迎え、事態は悪化しているようにも見えますが、アメリカ社会の分断は今に始まったことではありません。多くのメディアが、分断が潜在的に存在していたからこそトランプ大統領が誕生したと報じています。つまり分断をそのままにして過ごしていたのです。

トランプ大統領の行動は人々の分断を浮き彫りにしていっています。それはそこと向き合うチャンスとなります。つまりは真の変化へと至る可能性を秘めているのです。

そう考えると今のアメリカの動きは希望ともなります。

ちなみに、反人道的と非難されているトランプ大統領による今回の措置ですが、その意図を肯定的に捉えている人たちもいます。例えば、渡瀬祐哉氏によるアゴラへの記事には以下の記述があります。

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今回の措置で最も重要なポイントはシリア難民の無期限入国禁止だと言えるでしょう。そして、トランプ政権の狙いは「シリア難民の入国禁止」によって生じる国際情勢の変化だと推測されます。

トランプ大統領は以前から「シリア国内に安全地帯を設ける」旨を発表していますが、サウジアラビア国王との電話会談でも再び「安全地帯の設置」についての協力を求めています。

そして、今回の大統領令でシリア難民を受け入れないと宣言した結果、人道的な措置として「シリア国内の安全な場所で難民に該当する人々を保護する」ことを逆に大義名分として獲得できるわけです。

現在、シリアでは米国抜きの世界秩序の始まりを象徴するかのような出来事が起きてしまっています。

オバマ政権のシリア対応は象徴的な外交失政であり、予算をかけて空爆を継続して無関係の人々も含めて殺傷した上に、米国の地上兵力の不在は和平プロセスからの米国排除という結果を招いて国際的威信を著しく低下させました。


今回、トランプ政権はシリア難民の入国禁止をあえて実施することで、米軍及び同盟国はシリアに地上部隊を派兵して影響力を持つ地域を手にする国内外からの大義名分を得ることになります。そうすることで、シリアでの和平交渉におけるバーゲニングパワーを取り戻せるからです。

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実際のところどうなのかは分かりませんが、こういう見解があることにも目を向けることは大切だと思います。

未来のことは分からない。

それが真実なのだと思います。ですが人は通常、今の思考の延長上に未来を思い描きます。それが枠となり現実が見えなくなっていくのです。すると変化は遠ざかり同じことが繰り返されます。ニュートラルな心でただ現実と向き合う時、変化は自ずと起こります。なぜなら変化は生命の本質だからです。そして、本質に基づき生きる時、人はすべての存在と繋がり、満ち足りていくのです。

トランプ大統領のことも肯定もせず、否定もせず、ニュートラルな心で未来を見ていくといいのだと思っています。何が起こるか分からない。ですが、真実は自ずと明らかとなっていきます。

冒頭の話に戻って。

いさどんは緊張ではないと言いますが、僕はやはりいさどんといると緊張します。それは良い意味での緊張感で、真実と向き合う緊張感です。

何が起こるか分からない。

それが真実ですが、いさどんの真剣な姿勢は人をその真実へと誘います。それが人に緊張感をもたらします。

何が起こるか分からない。

それが真実ですが、一つだけ言えることがあって、出会う出来事は自分の人間性の表れだということです。だから人間性を向上させることが幸せへと繋がっていくのです。そして、人間性は出会う出来事に向き合い学ぶことで向上していきます。

トランプ大統領がもたらす混乱は今の人々の人間性の表れです。そこと向き合い学ぶことで人々の人間性は向上し、幸せへと繋がっていくことでしょう。

そんな未来へ向けて、僕は木の花ファミリーのみんなと共に学び続けています(^-^)



木の花ファミリーのみんな@富士浅間木の花祭り

未知を歩き宇宙を歩く

課題に出会うことは、その課題を超えて新たな可能性に出会うということであり、それは本来喜ばしいことだ。しかし、それまでに持っていた概念にとらわれていては、その課題は常に目の前にある障害物にしか見えない。

一年に四季があるように、人間が生きていく上で新たな発想が芽生え、伸びていく時がある。その成長が旺盛になり物事がどんどん様変わりしていく。そしてそれが熟して収穫をする秋を迎え、次の課題のための熟成の冬を迎える。そして、新たな課題に出会い、自らの新たな可能性の春に出会う。人間の生の一年の中にも四季のリズムがあり、それは一生の中にも同じように刻まれている。

大局的にとらえれば、どのような時も前向きに生を全うすることができるが、大局は人間の思考の中にあるのではなく、宇宙の星々の運行であり、その星々の関係性の法則の中にあって、それは人間の思考を超えた仕組みによってもたらされている。それを人間一人ひとりが命の営みの中で受け取り、思考に転換し、自らの生の中に表現していく仕組みになっている。

我々の命は自然そのものであり、さらに自然の奥にある宇宙秩序そのものであり、自然の奥にある自然を法則化している天の意志・「天然」そのものである。それを理解するためには大局的にものをとらえないと、この世界の事象の奥にある本当を観ることはできない。

だから、人間が考える思考と、生命として生態系につなぐ自然と、さらにその自然を保つための宇宙の法則・天然、その3つの視点があってこそ、人間が生を受けてきた目的や役割、そしてこの地に降り立った意志を満たすことができる。

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上記は3年前のいさどんブログからの引用です。昨日たまたまこの文章を目にしとても心に響きました。課題は常に人を新しい可能性へと導いてくれています。それを障害物と感じたとしたら、それは今までの自分の概念の囚われている証です。そんなふうに自分をチェックしていけます。

最近のブログで書いているように、人は出会う出来事に反応します。出来事と自分の反応。この2点に心を奪われていると思考が平面的となり薄っぺらになっていきますが、その奥には自然の営みがあり、天の流れがあるのです。

自分の思考を超えて、大局で捉えたら、現象を通して自分を知り、天の流れを自分に落とし込むことが出来ます。それは自分を超えた大きなスケールの下に生きていくということです。

トランプ大統領が誕生しました。このブログでは何度も触れているようにそれは時代の流れが生み出したものであり、天の法則、人間の思考を超えた仕組みが生み出したものです。ですが、この出来事を自分の思考の範囲で捉えていたら、この世界のダイナミックさ、豊かさを見逃してしまいます。

トランプ大統領の政策、そして、それが自分たちの生活に与える影響。

多くの報道がそんな視点からなされていますが、それでは広い世界を自分の中に閉じ込めてしまいます。扱っている内容は広い世界のことであっても語っている内容は自分ごとなのです。世界から観たらとっても狭い自分です。そこに囚われていたら出会う出来事に翻弄され続けてしまいます。

それとは反対に、天に心を開いていたら、日常が天の法則の顕れとなり、ただ道を歩くことが未知を歩くこととなり宇宙を歩くこととなるのです。

未来は常に未知なものです。だからただ出会うことをいただくだけなのです。それを通して自分と世界を知っていく。そして奥に流れる天の心を感じていきます。

そして過去を振り返り天の心を見出し物語を生み出します。

僕は現在という1点で生きていますが、自分を離れたら、過去から未来へと続く流れの中に位置づけることが出来ます。それは永遠へと至ります。

僕はみんなと一緒にそこへと至ります(^-^)

木の花ファミリーのみんな@どんと焼

自らの意志で時代を表現する

六辻彰二さんはブログで民主主義についてこんなふうに書いています。

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選挙や民主主義は、国民の要望を取りまとめるという「統合」の側面があります。しかし、その一方で、個人や各勢力が自らの意見や利益を表面化し、競合することにより、そこには宿命的に「分裂」の側面もあります。民主政で名高い古代ギリシャで、市民権が拡大するにつれ、富者と貧者の間の階級間闘争が激化し、最終的に専制君主国家のマケドニアがギリシャ世界を併呑したことは、民主主義がもたらす社会の分裂の危うさを現代に伝えるものです。


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1月20日(日本時間21日)トランプ大統領の就任式がありましたが、それに対する抗議デモが全米各地で起きているようです。そして、首都ワシントンでは、抗議デモが警察官と衝突し、警察官2名が負傷し、200人を超える人々が逮捕されました。これはまさに六辻さんが語る民主主義の「分断」の側面と言えます。

こんなふうに大きな騒ぎを巻き起こしているトランプ大統領についていさどんは以下のように語っています。

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トランプ新大統領はこれから何を引き起こしてくれるのだろうか?

人々が想像できるような、かつ容認できるような範囲で大統領の任務を果たすようなことでは、21世紀の初頭にあたって希望は望めないことになるだろう。そこで彼が人々が想像できないようなことをやり遂げるとしたならば、それは世界にとって衝撃的なことになるだろう。なぜなら、今は次の時代に向かうと言いながらも、まだあの国の実力はあるからだ。しかし、あの連邦議事堂や就任式の飾り付けを見ていると、それは極めてアメリカ的かつ地球的に感じた。あの領域にしか、まだ人間は到達していないのだ。これは意識の話だからこそ、物理的に宇宙船に乗って宇宙探査へ行ったとしても、結局宇宙での人類の行いは地球的意識の延長にしかすぎない。あそこで展開される世界がある意味、この時代の地球の最先端のリーダーたちの意識レベルなのだ。



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昨年6月、国民投票でのイギリスEU離脱、そして11月、アメリカ大統領選でのトランプ氏の勝利。この2つの出来事は事前の予想を覆すものであり、多くの人がその結果に驚きました。トランプ氏は人々の想像を超える出来事の主役となったのです。ですが、これは時代が生み出した現象であり、トランプ氏は時代に使われているだけなのです。


トランプ大統領の主張は、アメリカ第一主義であり、これは新しい時代の意識ではありません。今までのアメリカの延長上にあります。先に引用した文章でいさどんは以下のように語っています。


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近年のアメリカの歴史を振り返ってみると、たとえばブッシュ大統領は権力で世界を支配しようとしてきたが、オバマ大統領は「アメリカは世界の警察官ではない」と宣言し、そしてトランプ新大統領は「自国のことを優先していくアメリカファースト」と述べている。このように段階を踏んでいるから、時代の流れからすると彼の就任演説は今の時代にぴったりの話だ。

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アメリカは言葉の上では世界の秩序を守ってきました。ですがそれはアメリカ都合の秩序で、結局はアメリカの利益を追求していただけでした。横暴に見えるトランプ氏の姿はそのアメリカの姿勢を暴き出しているだけで、それは世界のどの国にも当てはまることです。日本は日本の利益を求め、トランプ大統領に近づこうとしています。

銀河の夜明けが過ぎた今、今までの秩序が壊れ、新しい時代を迎えようとしています。今までの秩序とは自我に基づく秩序であり、自分都合の秩序です。立場が変われば都合が変わりそのため対立や争いへと繋がっていくのです。自らの主張を推し進めるトランプ大統領は古い秩序を崩壊する役割を担っていますが、それは本人が意図したものではないでしょう。本人は古い秩序の復活を願っています。ですが、時代がトランプ大統領の希望を叶えることはないでしょう。これからは自我を超えた世界が表現されていくのです。

時代は変化しています。ですが、今、表に出てきている人たちは時代に使われているだけで、その変化を主体的に担ってはいません。そのため出来事に振り回されそれが混乱となって現れているのです。

時代の変化を感じ、それを主体的に担っていく人々が集まった時、そこには異次元空間が生まれます。それは人々の想像を超えた天の流れが表現される空間です。

量子論の生みの親、マックス・プランク氏は「意識は物質よりも根源的で、物質は意識の派生物に過ぎない」と言っているそうです(こちらを参照)。量子論の世界では、電子は「波であり、波ではなく」「粒子であり、粒子ではない」のです。それを生み出しているのは観察者の意識です。

この世界は天の意識によって生み出されています。それらはすべてが繋がり変化を本質としています。ですが、人間の意識は事物を区切ってみて固定する能力を与えられました。それが人それぞれの世界観をもたらし、世界をさらに彩り豊かにしていきました。そのままなら良かったのですが、区切って見ることに慣れた人間は、元の世界を忘れてしまっているのです。そして表面的な違いに目を奪われ、分断が起こり対立や争いへと発展しているのです。

この世界を区切って固定した人間は、天の意識に対して扉を閉ざした状態となっています。原点との繋がりを失った人間は生命力を弱め、不安定な存在となっています。そのため目の前の出来事に一喜一憂するのです。

自分の視点を超えることで、天への扉が開かれます。それは自分の原点へと還る体験であり、物事を生み出す位置へと至る体験です。自分と世界が一つとなり、外から自分を眺め、世界の中に自分を位置づけることが出来るようになります。

それは無限に高まり無限に深まる真実への探求で、

そこには「あれ!?ここはどこだろう?」という空間が立ち顕れます。

3月21日オープンのロータスランドはそんな空間にしてきます。是非、異次元空間を体験しに来て下さいね。




またここで書いたような世界観にどっぷりと浸かりたい方には2月19日スタートの一ヶ月間の真学校がお勧めです。


前回の一ヶ月間の真学校受講生のみんなです。


多くの方との出会いを楽しみにしています(^-^)




出会う出来事の奥を探求する

1週間ぐらい前かな?小学校2年生のれいくんとお風呂場で以下のような会話をしました。

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れいくん : なかのん、木の花祭りで鬼ら?

なかのん : そうだよ。れいくんも鬼ら?

れいくん : うん。

なかのん : 鬼ってどんな存在かな?

れいくん : みんなの間違えを正す存在。

なかのん : そうだね。みんなの間違えを正すからにもまずは自分を正さなければね。

れいくん : うん。

なかのん : 鬼の心を育むことが大切だよ。だから、忘れ物などしないようにしようね。

れいくん : うん。鬼になる。

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こんな会話を子どもとすると嬉しくなってこんなふうにブログで紹介したくなります。ですが、お風呂に出た後のれいくんの様子は相変わらずだらしのない態度で、いろいろな人に注意をされていました。それは大人の姿勢の鏡で、こうやってきれいな言葉を取り上げても、日常の姿勢が変わらなければ、ブログで紹介しても、それは表面を飾っているだけで何の意味もありません。それで結局、ブログに書くのは止めました。

・・・と言いながら今、ブログでこの会話を紹介しているのですが、その理由はこの記事を最後まで読んでいただけたらなんとなく伝わるのではないかと思います。なので、最後まで読んでみて下さいね。

話しは大きく変わって・・・

紙と文字の発明によって平面的思考が始まった。

いさどんはよくそう語ります。そして、平面的思考についてはこんなふうにも語っています。

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3次元世界に暮らしながらも人間は物事を2元的に観ている。それは、出会うこととそれに対する自分の反応で物事を見ているから。それで平面的になっていく。だけれども、その奥にはこの世界を動かしている意志がある。出会うこととそれに対する自分の反応、そしてその奥にある意志。それらすべてを意識した時、この世界を立体的に観ることが出来る。

出会うことに反応することで人は一喜一憂する。それが人間で一喜一憂しなければ生きている意味がない。一喜一憂しながらも、出来事の奥にある意志を感じて、一喜一憂している自分を離れて観る。そして流れをいただいていく。それが生きていることの醍醐味で、人生に翻弄されずに楽しむことが出来るようになる。
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出会うことに反応する人間。その時、人は出会う出来事を固定して捉えています。

紙や文字が発明されることにより人は記録を取ることが出来るようになりました。一つの形にして残しておく。書かれた言葉は変化せずに残り続けます。それは変化を本質とするこの宇宙の法則からしたら異質なことなのだと思います。

固定された記録。それが人に囚われをもたらし、一喜一憂することになります。ですが、この世界で出会うことはすべてプロセスの中にあり、本来、固定はされずに流れ続けていくのです。出来事の奥にある意志を感じた時、その流れが見え、自分を固定から解放することが出来ます。

「記録」と似た言葉で「記憶」という言葉がありますが、人の記憶は記録と違い固定していません。心理学では、記憶が人の感情に左右されることが分かっていて、今の心の状態により過去の記憶は変わっていくのです。自分を解放すれば、記憶も世界に対して解放されます。

冒頭のれいくんとの会話も流れの中で生まれたものであり、それはその後のだらしのないれいくんも同様です。すべてが固定されることはありません。その奥には大きな広がりを持ちます。

言葉による「記録」はこの世界に打込まれた固定です。そして、それに引きずられ人は出来事を固定して捉えるようになります。そして、自分を固定していきます。ですが、奥に目を向けると一つの流れが見えてきます。そして固定された「記録」の捉え方も多様であることが分かります。固定の奥に変幻自在の解釈が存在し、すべてが変化し続けることが見えてくるのです。

出会う出来事の奥には自分の人間性があり、その奥には天の意志があります。そこを探求する時、なんでもない日常の奥にとっても深い世界が見えてきます。

もうじきアメリカでトランプ大統領が誕生します。トランプ氏は大統領就任前から様々な騒ぎを起こしていますが、その奥には現代の人々の人間性、そしてその奥には天の意志があります。ただ表面的な出来事を見て、右往左往するのではなく、それらを探求することによりとても豊かな世界が開かれわくわくします。僕ら、木の花ファミリーのみんなはそんな世界を感じています。

今年の木の花祭りは1月28日(土)の新月。もうじきです。

木の花祭りでは、みんなで歌い、舞い踊り、この世界の奥を探求し表現します。是非、遊びに来て下さいね(^-^)




心を爆発させ個人的感情も吹き飛ばす

今年のテーマは「爆発」です。それを受けて「心を爆発させ思考の枠を吹き飛ばして(空っぽになって)いく」と書いた時、2年前の10月に書いた「空っぽへのあこがれ」を思い出しました。この記事ではいさどんがお釈迦さまに逆切れをするエピソードを紹介しています。以下、その内容を転載します。

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僕は、お釈迦さま、そして神さまに出会い、道理を伝えられてきました。
お釈迦さまが語られるのは仏道、道なのですよね。
プロセスをずっと見ていく客観視点を育てられます。

そうすると自分の感情が苛立っている状態を観なければいけなくなります。
普通の人は感情が出てくると、感情のままに出して、
それを主張することが自由だったり束縛されていない状態と思ったりしています。
ところが、僕にはもう一つの目線がありました。
それも強制的に示される目線です。
そちらの方から「お前の今の感情はこうだぞ」と言われると、
僕みたいな道理人間、理屈人間は理屈で負けてしまうのです。

それでどうするかというと、僕は理に叶った方に行こうとします。
自分の主張が愚かであっても、そこに執着したい自分がいますが、
理に適った方に行かなければなりません。
そのように、そちらを選べば選ぶ程、情がわいている自分を否定することになります。
理に適った方を選んでは自分を否定していく。
その繰り返しになりますが、その覚悟が出来ていないとだんだん辛くなるのです。

そこで「俺はつらいんだー」となって爆発したことがありました。
そうすると、お釈迦さまは「それなら止めるか?」と尋ねてきました。
「なんてひどい薄情なことをいうの?あなたは」と思いました。

そこでまた道理を考えました。
僕が執着して道を歩むことに辛い想いをしていることに対して、
そのまま執着して進むことは、その道を外れるということになります。
止めるか?という話に乗るのもこの道を外れることになります。
どちらの自分も認めることが出来ません。

道理のところに行くことによってのみ楽になれる。
自分で自分を本当に意味で認めることが出来るのです。

認めたくない自分に執着をしてそのままで行こうとしますが、
それはすごいバカなことをやっているのです。
それでも執着している時はつらいものです。

僕はその想いを怒りに変え、伝えました。

「何を言っているのですか。止めるわけがないではないですか。
これを知らずにいかない人は世の中に沢山いますが、
一度、これを知って行かないものがいるでしょうか?
絶対やめない。見ておれ。やめんから。」

逆切れしたのですよね。

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思考の枠組みだけではなく、個人的な感情も爆発によって吹き飛ばしていくのです。

執着や強欲、嫉妬などの感情は我欲から生まれるものであり、個人的なものです。道を求めるならば、これらの感情は吹き飛ばしていく必要があります。吹き飛ばして空っぽになっていくのです。その一方、崇高なものを求める感情、人と共にあることを喜ぶ感情、人の幸せを喜ぶ感情など。これらの感情は理に適ったものであり人を幸せにしていきます。心を爆発させ空っぽになっても器は残ります。空っぽになった器には新しいものが沢山入ってきます。その時、自然に湧き上がる感情やインスピレーションは天からのものであり、世界と人を幸せに導いていくのです。

心を爆発させ空っぽになっていく。それは自分を克服することです。

サティシュ・クマールさんの『君あり、故に我あり』の中でイスラムの思想家マウラーナー・ワヒドゥディン・カーン氏は聖戦(ジハード)とは葛藤なのだと言っています。以下、その言葉を要約します。

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我々の敵とは誰か?
それは欲望、貪欲、自己中心。
勝利とはこれら心にうちに秘められた敵に対する勝利。
絶え間なく続く自我との戦い(葛藤)。
それが聖戦であり、それは非暴力へと繋がっていきます。
非暴力は偉大であり、非暴力の実践はどんな時も人生に祝福をもたらします。

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例えば、世界平和など崇高な志を持っていたとしても、虚栄心や嫉妬心など個人的欲望に負けてしまっていたら、その志は個人の欲望を叶える手段となっていくでしょう。

元日からトルコのイスタンブールで銃の乱射により39名が死亡するテロ事件が起きました。イスラム過激派によるテロ事件は世界中で多発していますが、彼らは自爆テロに聖戦という言葉を使っています。聖戦という言葉から崇高な志を感じさせますが、個人的欲望に負けてしまっているため暴力的な存在になってしまっているのでしょう。

崇高な志が個人的な欲望に負けている。それはアメリカや日本にも当て嵌まるのではないでしょうか?アメリカや日本が平和という言葉を使う時、それは自国の利益に基づく平和のことであり、それにより抑圧される人々のことは意識されていません。そして、それは国民一人ひとりが日常の中で個人的欲望を克服していないことの顕れなのです。

我欲は個人を際立たせることにより、人々を切り離し、その結果、世界に分断をもたらします。それが今の世界の姿であり、自分の姿でもあるのです。だから今、心を爆発させ空っぽをするのです。空っぽになった心に理に適った感情や高い志を育んでいくのです。木の花ファミリーの生活はみんなで共に暮らすことにより乗り越えるべき自我を浮き彫りにしその取り組みを加速させます。つまりは人を幸せに導く暮らしなのです(^-^)

最後にそんな木の花ファミリーのお正月の様子を写真でお伝えしますね。


アメリカの学生さんたち20名を迎え、ウェルカムコンサートをしています。


おせち料理。2日の夕食です。

2日の夕食です。
3日の昼食はお餅つきでした。

3日の夕食。ゲストで来ているマイケルの誕生日を祝っています。



一喜一憂しながら一つになっていく

子宮頸がんで10月26日から12月12日まで病院に入院していたきょうこちゃん。そのきょうこちゃんをお見舞いに行ったいさどんとの会話をようこちゃんがまとめた「必死」とは「必ず死ぬ」と書く ~きょうこちゃんの「どこまでもいただきます」物語には沢山の学びが詰まっています。今回は以下の文章を引用します。

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わたしは「今回、奇跡って何だろう?と思ったときに、『奇跡』はその人の『軌跡』・その人の歩いた跡だから、奇跡をその人にとっての最高の境地だとするならば、奇跡とはそこに至るまでのその人の歩みにしかすぎないんだよね」と言い、いさどんは「それはDNAだからね。DNAは体験したことが記憶してある情報にしかすぎない。だから、自分がぶれなくてもいいんだよ。自分を観て、ぶれていたら、揺れている自分がいるなと思うだけだ。そしてそこをどうしていくかという歩みが一つの生きるエネルギー源になっていく。そのままでいいなら、皆あっさりと向こうに行っているはず。そこにもだえ、苦しみ、抵抗し、そこで何かを掴んで人は成長していく。世の中にはもだえ、苦しみ、抵抗しただけで終わり、学びが一切なく、転げ落ちていく者もいるから、いろいろだ。

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そして、僕は先日、いさどんと以下のようなことを話しました。

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3次元世界に暮らしながらも人間は物事を2元的に観ている。それは、出会うこととそれに対する自分の反応で物事を見ているから。それで平面的になっていく。だけれども、その奥にはこの世界を動かしている意志がある。出会うこととそれに対する自分の反応、そしてその奥にある意志。それらすべてを意識した時、この世界を立体的に観ることが出来る。

出会うことに反応することで人は一喜一憂する。それが人間で一喜一憂しなければ生きている意味がない。一喜一憂しながらも、出来事の奥にある意志を感じて、一喜一憂している自分を離れて観る。そして流れをいただいていく。それが生きていることの醍醐味で、人生に翻弄されずに楽しむことが出来るようになる。

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人は出来事に出会うことで一喜一憂します。そこでもだえ、苦しみ、抵抗し、そして何かを掴んで人は成長していきます。その時、必要なことは物事を立体的に観ることなのだと思います。目の前の出来事と自分という平面ではなく、その奥に貫いている意志を感じていく。そうすることで現実は過去から現代、そして未来へと繋がり、立体的になっていくのです。そして、その意志は自分をすべての存在へと繋げていきます。

奇跡は軌跡。軌跡とは自分だけの軌跡ではなく、宇宙の始まりから今の自分に至るまでの軌跡です。だからいさどんはDNAだと言っています。この世界の奥にある意志はすべてのものを貫いています。だから話題は一つにことからあらゆるところに飛んでいくのです。

きょうこちゃんといさどんは病室でこんな会話もしています。

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それからいさどんは「今、アメリカで起きていることは、皆、今までを基準にしてものを考えるだろう?まさか、『こういうふうになるとは』とか『もうこれ以上は』と言うけれど、行けば行くほど、その次の世界がある。結局、所有しているだけなんだよ。自分の枠の中で限定しているから、『これ以上行ったら考えられない』というものが皆あるんだよ。次から次へとある。ただそれに自分の思考が追いつかないだけ。だから、思考しないでいただいていく姿勢になれば、自由自在になれる。限定する自分に囚われがあると、『いやだ!』とか『考えられない!』となるけれど、どちらにしても考えられるわけがないんだよ(みんな、笑)」と言った。

きょうこちゃんは「この生をいただいている。本当に皆に出会えてよかった」と言い、いさどんが「昨日の話で、もしここで別れて向こうへ行ったら、『なんだ!こちらのほうが近かった!』という話は面白いと思ってね。『向こうも近いと思ったけど、なんだ、こっちのほうがもっと近い!』と僕は思うんだよ。なぜここへ来てこのような生き方をしているのかと思うと、そこに出会うわけがある。それで戻っていったら、戻っていったで、『向こうのわけはこちらに元があったんだ!なんだ、ばかばかしい。あっちのほうが大本だった』ということになる。すべてあちらで操作している」と言うと、こうちゃんは「向こうで操作するのも面白そうだし、こっちでアップダウンしながら操られているのも結構面白い(笑)」と言った。

それからいさどんは窓から富士山を見ながら、「窓の外の景色を見ると、昨日の景色も今日の景色も天気が違うから多少違うように見えるけど、同じように見えるだろう?あれをじっと観ていると、ドーッと何かが流れている。移り変わっている。移り変わっているということは、今この部屋の中では毎日いろいろな出来事があって一喜一憂するわけだ。そこで気持ちは一喜一憂しながら、『まだ生きていたよ』などと言っているけれど、この世界全体がドーッと動いている。自分が意識したところはダイナミックで過激なように見えるけれど、実はそこら中ダイナミックで過激で、すべて同じなんだよ」と言い、こうちゃんも「本当に流れているだけだな。流れがそこにあるだけだなって思っていた」と言い、きょうこちゃんは「世界は面白くなるねえ。フリーな立場でいれば本当に面白いね」と言った。

その後、看護師さんが何度か部屋に来たときにいさどんは「あの人たちが入ってきてさ、僕を見て、『トランプさんがなぜここにいるのだろう?』となぜ聞かないのか(笑)。ヘアスタイルが違うからか(笑)」と言い、皆で笑って、わたしたちは病院を後にした。





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人は自分の枠に基づき思考しています。ニュースを見て、経済のことを考える時もトランプさんのことを考える時も沖縄のことを考える時も真珠湾のことを考える時も南スーダンのことを考える時も自分の立場から自分の枠組みで考えています。それは大抵、他の枠組みと相いれないことがあるから行き詰まります。だから思考を超えていくことが大切です。

思考しないでいただく姿勢になれば自由自在になれる。自由自在になって一喜一憂して揺れ動く。自由じゃないじゃんと思えるけれども、実は自由で常に心は現象の奥、天へと向かっている。だけれども現実をしっかり楽しみ一喜一憂する。そうこうするうちにバラバラだった現実がいつの間にか天の意志の下に一つになっている。思考はお手上げ状態。だけれども一つの流れの下にいつの間にかみんなが一つになっている。

そんなふうに生きていきます(^-^)


みんなの中でよみがえり生きていく(2)

12月18日(日)は月の一度の自然食レストラン「恵みいただきます」の日でした。メニューは12月ということで、★メリークリスマス・スペシャルプレート★でした。そして、僕は例年通りトナカイとなって売店でお客様をお迎えしていました。

「恵み」当日。サンタさんたちと記念撮影です。


クリスマスと言えば、イエス様です。僕はイエス様のお話については以下のように考えています。

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多くの人々に救いをもたらしたイエス・キリスト。イエスは処刑されますが、予言通り3日後に復活します。僕は常々、イエス・キリストの死と復活については、心の成長過程のモチーフになっていると思ってきました。

イエス・キリストはすべての人間の罪を背負って磔(はりつけ)にされ、命を落とします。人間の罪とはすなわち「自我(エゴ)」だと思うのです。自我の元、人間は自らの欲望を叶えようとし、世界に働きかけます。その結果が今の社会であり、環境問題、経済格差、人種差別、民族紛争など様々な問題を生み出しました。イエスの死は、問題を起こしてきた自我の死を意味します。自我の死とは自意識を捨てることであり、自分視点を離れることです。その体験は人に恐怖を与えるのかもしれません。執着の感情が湧き上がるのかもしれません。ですが、自我の死、自意識を手放すことは人間に新しい可能性をもたらします。

磔にされ肉体の死を迎えたイエス・キリストは、3日後に復活するのです。それはイエスの魂の復活であり、それ以後、イエスは人々の中で再生し、今も世界を見まもり続けています。人が自意識を捨てる時にも同じようなことが起こります。

自意識を捨てる時、人は今まで囚われていたものから解放されます。その時、人は、自分(自意識)が知らなかった自分と出会います。思いもよらない感情や能力が湧き上がってくるのです。そしてそれは波動となって世界に広がり、人々の心に伝わっていきます。自意識の元、自分の中だけに留まっていた心、感情が動き出し他の人々の心の中に入っていくのです。そして、その心は人々の心の中で生き続けます。自分の魂が肉体を超えてみんなの中で生きていく。自意識を超えた時、そんな生き方が可能となるのです。

木の花ファミリーの生活は自我を手放す生き方へとみんなを導いてくれます。多くの人と共に暮らす生活では、調和の心が何よりも大切になります。自分だけの都合で動くことは、軋轢が生じるきっかけとなります。毎日の生活の中で、現象を通して、自分を知り、自意識を手放していくことが出来るのです。そして、自意識を手放し空っぽになった自分の中には、みんなの心が入ってきます。
個性豊かな人々の心によって自分が創られていくのです。こうなると成長の可能性は無限大となります。出会う人々、出会う体験が自分を創っていくのです。それがどんなものになるかは自分の想像をはるかに超えることです。人生はまさに道(未知)への旅です。わくわくします(^-^)




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上記は2年前、2014年の12月に書いた文章です。文章を読んであらためてこの時期の自分の心がクリア(明晰)だったことを感じます。その後、2015年の夏から秋に掛けて自分の自我(エゴ)が浮き彫りになり、その後もいろいろありましたが、今はそれらの体験を活かし深みを持ってあの頃の明晰さを取り戻していると思っています。

ところで、僕は今年の8月いさどんから以下の言葉を貰っています。

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自分というものを内からだけ見ていてはいけません。

外から見える自分と内から見える自分というものが、
自由自在に行ったり来たり出来る状態になることが大切です。
ブログを読んでそれが少し出来るようになってきたことを感じました。

この道を極めることが大切です。
そこに向けて真っ直ぐに行くと人の価値が上がります。
そして価値が上がると自然にみんなから支持されるようになるのです。
その位置で願いが叶っていくことが大切です。
想うと叶うというのはそういうことです。

ところがあなたの場合、叶わない現状にありながら、
願いを叶えたいという願望や欲望になっているものだから、
宇宙の法から外れてしまったのです。
だからそれは「自分のこと」であり、我欲となっていくのです。
宇宙は「もっと叶えたい。あなたの望みは全部叶えたい。」と願っています。
その代わり宇宙の法に沿って願えということです。

だけれどもあなたの願いが叶うところまであなたが高まった時、
あなたにとってその願いはどうでもよくなっていることでしょう。
だから、今、あなたが持っている願いはどこかにボタンの掛け違いがあるのです。
そのためエネルギーを使えば使うほど価値を下げる状態となっています。
それはエネルギーの出どころが間違えているということです。

あなたは自分の心の足りない部分を埋めようとしています。
それは相手を見ているのではなく自分を見ているのです。
その願いは自分の矛盾から発生しているものです。
自分の中に矛盾がなければ、矛盾を埋めようという想いは出て来ません。
ただ淡々と生きていれば、そしてそれが清々しければ、
相応しく人が集まってくるのです。
そうではなく努力して人にアプローチする行為は、
自分を埋め合わせようとしている行為なのです。

あなたの矛盾は爆弾のようなものであり、あなたはそれを抱えています。
そうするとここに出会うことであなたがどれほど救われているか。
そう思いここに出会った価値を上げるとしたら、本物となることです。

そのためには正確に振り返ることが大切です。
逃げずに自分というものに真正面から向き合い、
誤魔化さずに正確に見ていくのです。
そうすれば自分が仕上がっていきます。

あなたは自分の爆弾を忘れてはいけません。
クリアしたからと言ってなくなったと思ってはいけません。
心を磨くという志を持っている限り、
自分の中にしっかり古傷としてもっていないと
調子にのったり、忘れたりします。
そうすると古傷が疼いた時にチェック出来ない状態となるのです。

だからしっかりと向き合いクリアしそれを忘れずにいて下さい。


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ここで語られている「爆弾」は僕の中にある衝動で、僕は22歳の時、1997年11月、この衝動を解き放ち、この衝動に従って生きていこうと決意しました。それは自分に正直に生きようという決意でしたが、この衝動は僕の人生に混乱をもたらしました。僕は解き放った衝動をコントロールすることが出来ずに振り回されていくのです。

そんな中、10年前は以下のような状態にもなりました。


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10年前の10月、中学校で勤めている時、僕は職員室の自分の机を蹴飛ばし、
そのままドアに向い、ドアを叩きつけて締めて、そのまま学校を離れました。
そして、道路を歩きながら、傘を叩きつけて、傘を壊したら、空から雨が降ってきて、
僕は濡れながら家まで5km歩いて帰りました。

僕はその頃、毎晩泣いていて、
人前でもきっかけがあると涙を止めることが出来ませんでした。

そして窓から飛び降りる衝動に襲われ、マグカップを人に投げつける衝動に襲われ、
心を静めるために一日に何回も屋上に行き、一人で佇んでいました。

なんか漫画みたいなバカな話。ε-( ̄ヘ ̄)┌ ダミダコリャ…
僕はそれぐらい自分の感情に翻弄されていました。


空っぽへのあこがれ」より引用(一部修正)

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衝動に振り回される日々、でもそれは僕にとって必要なものでした。爆弾は僕に与えられた大切なテーマです。それを僕は抑えこんだり、切り離したりして生きてきました。それでもあるものはあるのです。それを否定することは自分を否定することになります。自分を取り戻す。そのために僕は衝動を解き放ったのです。

そして、僕は自分を取り戻しましたが、取り戻した自分はとてもひどいものでした。こだわりが強く、他人のことを考えず、自分の基準で他者や世界を裁いていく。自暴自棄で後先のことを考えない。これが押し殺していた自分で、当然のように僕は苦しむようになります。それでもそれは必要なプロセスでした。

天への志と爆弾。

爆弾を克服するプロセスが僕のオリジナルな物語で、この物語を通して僕は天へと至るのです。そのためにはイエス様が一度死んだように、僕の自我(エゴ)も死ぬ必要があります。死ぬことでみんなの中でよみがえるのです。今日は冬至ですが、冬至は1年で最も太陽の光が弱い日です。それは太陽の死とも捉えられ、イエス様の物語同様、冬至も死と再生を表す日なのです。以下、Facebook(地球暦)からの文章を引用します。

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陰極まりて陽に転ずという一陽来復(いちようらいふく)の冬至は、これから少しずつ太陽の出ている時間が長くなり、反対側の夏至へ向けて光が増えていく合図。冬至は古くは生命の終わりを意味し、新しい命の再生復活の時と考えていました。

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爆弾を生き抜き爆弾を克服した僕は爆弾によって自我(エゴ)が吹き飛び新しい自分として復活します。新しい自分は外から自分を眺めることで以下のような状態を目指します。

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自分がある限り、その自分の内側から外を認識する目線はあるのだから、それはそれでいいのだが、同時に、自我のフィルターを抜きにした外側から同じように自分を観る目線が必要なのだ。それは、自らと他者との距離がなくなるということ。他者の目線が自らの目線であり、自らの目線が他者の目線になる。そこは何の境もない、「あなたは私、私はあなた」という世界だ。そのあなたと私の差を取ることが、差取り=悟りにつながる。


その世界を体現するためには、人々は群れて、運命共同体として生きる必要がある。その昔、厳しい自然の中を人々が群れというひとつの生命として生き残ったように、我々はもう一度群れて、コミュニティがひとつの生命として生きることによって、この世界の真実を現していく。それは、個が個に走り過ぎて自我からしかものが見えなくなった現代社会が混乱から抜け出す、唯一の方法だ。


いさどんブログ「円が縁を紡ぐ〜人間からヒトへ」より

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クリスマスを前にしてシリア政府軍が制圧したアレッポ、戦闘が長期化しているイラクのモスル、日本がPKO部隊を派遣している南スーダンなど緊迫したニュースが連日のように流れています。そして、ドイツやトルコではテロが起きたと報道されています。

まるで人々が抱えている爆弾が爆発し合っているかのようです。

そんな中、人々は平和を願い求めますが実現しません。その平和は「自分」が思い描いたものであり、「自分」の願いを追い求めているから実現しないのです。

イエス様の物語は死と再生の物語であり、それは自我(エゴ)を手放すことを意味します。それは冬至の意味も同様です。そんなふうに思う時、クリスマスは願いを叶える日ではなく、願いを手放す日であることが明らかになります。人々が手放した願いをサンタさんが叶えてくれるのです。それは自分の想定や想像を超えた世界です。

今日は冬至でもうすぐクリスマスです。クリスマスに向けて何かを願うのではなく、願いを手放していこうと思います。願いや感情を手放しそれらを超えた時、人は自由となり自分を外側から観ることが出来ます。それはみんなの視点であり、みんなの中でよみがえり生きていくのです。


こちらは「恵み」当日の料理です。
こちらは「恵み」当日の集合写真です。

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