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出会う出来事の奥を探求する

1週間ぐらい前かな?小学校2年生のれいくんとお風呂場で以下のような会話をしました。

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れいくん : なかのん、木の花祭りで鬼ら?

なかのん : そうだよ。れいくんも鬼ら?

れいくん : うん。

なかのん : 鬼ってどんな存在かな?

れいくん : みんなの間違えを正す存在。

なかのん : そうだね。みんなの間違えを正すからにもまずは自分を正さなければね。

れいくん : うん。

なかのん : 鬼の心を育むことが大切だよ。だから、忘れ物などしないようにしようね。

れいくん : うん。鬼になる。

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こんな会話を子どもとすると嬉しくなってこんなふうにブログで紹介したくなります。ですが、お風呂に出た後のれいくんの様子は相変わらずだらしのない態度で、いろいろな人に注意をされていました。それは大人の姿勢の鏡で、こうやってきれいな言葉を取り上げても、日常の姿勢が変わらなければ、ブログで紹介しても、それは表面を飾っているだけで何の意味もありません。それで結局、ブログに書くのは止めました。

・・・と言いながら今、ブログでこの会話を紹介しているのですが、その理由はこの記事を最後まで読んでいただけたらなんとなく伝わるのではないかと思います。なので、最後まで読んでみて下さいね。

話しは大きく変わって・・・

紙と文字の発明によって平面的思考が始まった。

いさどんはよくそう語ります。そして、平面的思考についてはこんなふうにも語っています。

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3次元世界に暮らしながらも人間は物事を2元的に観ている。それは、出会うこととそれに対する自分の反応で物事を見ているから。それで平面的になっていく。だけれども、その奥にはこの世界を動かしている意志がある。出会うこととそれに対する自分の反応、そしてその奥にある意志。それらすべてを意識した時、この世界を立体的に観ることが出来る。

出会うことに反応することで人は一喜一憂する。それが人間で一喜一憂しなければ生きている意味がない。一喜一憂しながらも、出来事の奥にある意志を感じて、一喜一憂している自分を離れて観る。そして流れをいただいていく。それが生きていることの醍醐味で、人生に翻弄されずに楽しむことが出来るようになる。
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出会うことに反応する人間。その時、人は出会う出来事を固定して捉えています。

紙や文字が発明されることにより人は記録を取ることが出来るようになりました。一つの形にして残しておく。書かれた言葉は変化せずに残り続けます。それは変化を本質とするこの宇宙の法則からしたら異質なことなのだと思います。

固定された記録。それが人に囚われをもたらし、一喜一憂することになります。ですが、この世界で出会うことはすべてプロセスの中にあり、本来、固定はされずに流れ続けていくのです。出来事の奥にある意志を感じた時、その流れが見え、自分を固定から解放することが出来ます。

「記録」と似た言葉で「記憶」という言葉がありますが、人の記憶は記録と違い固定していません。心理学では、記憶が人の感情に左右されることが分かっていて、今の心の状態により過去の記憶は変わっていくのです。自分を解放すれば、記憶も世界に対して解放されます。

冒頭のれいくんとの会話も流れの中で生まれたものであり、それはその後のだらしのないれいくんも同様です。すべてが固定されることはありません。その奥には大きな広がりを持ちます。

言葉による「記録」はこの世界に打込まれた固定です。そして、それに引きずられ人は出来事を固定して捉えるようになります。そして、自分を固定していきます。ですが、奥に目を向けると一つの流れが見えてきます。そして固定された「記録」の捉え方も多様であることが分かります。固定の奥に変幻自在の解釈が存在し、すべてが変化し続けることが見えてくるのです。

出会う出来事の奥には自分の人間性があり、その奥には天の意志があります。そこを探求する時、なんでもない日常の奥にとっても深い世界が見えてきます。

もうじきアメリカでトランプ大統領が誕生します。トランプ氏は大統領就任前から様々な騒ぎを起こしていますが、その奥には現代の人々の人間性、そしてその奥には天の意志があります。ただ表面的な出来事を見て、右往左往するのではなく、それらを探求することによりとても豊かな世界が開かれわくわくします。僕ら、木の花ファミリーのみんなはそんな世界を感じています。

今年の木の花祭りは1月28日(土)の新月。もうじきです。

木の花祭りでは、みんなで歌い、舞い踊り、この世界の奥を探求し表現します。是非、遊びに来て下さいね(^-^)




心を爆発させ個人的感情も吹き飛ばす

今年のテーマは「爆発」です。それを受けて「心を爆発させ思考の枠を吹き飛ばして(空っぽになって)いく」と書いた時、2年前の10月に書いた「空っぽへのあこがれ」を思い出しました。この記事ではいさどんがお釈迦さまに逆切れをするエピソードを紹介しています。以下、その内容を転載します。

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僕は、お釈迦さま、そして神さまに出会い、道理を伝えられてきました。
お釈迦さまが語られるのは仏道、道なのですよね。
プロセスをずっと見ていく客観視点を育てられます。

そうすると自分の感情が苛立っている状態を観なければいけなくなります。
普通の人は感情が出てくると、感情のままに出して、
それを主張することが自由だったり束縛されていない状態と思ったりしています。
ところが、僕にはもう一つの目線がありました。
それも強制的に示される目線です。
そちらの方から「お前の今の感情はこうだぞ」と言われると、
僕みたいな道理人間、理屈人間は理屈で負けてしまうのです。

それでどうするかというと、僕は理に叶った方に行こうとします。
自分の主張が愚かであっても、そこに執着したい自分がいますが、
理に適った方に行かなければなりません。
そのように、そちらを選べば選ぶ程、情がわいている自分を否定することになります。
理に適った方を選んでは自分を否定していく。
その繰り返しになりますが、その覚悟が出来ていないとだんだん辛くなるのです。

そこで「俺はつらいんだー」となって爆発したことがありました。
そうすると、お釈迦さまは「それなら止めるか?」と尋ねてきました。
「なんてひどい薄情なことをいうの?あなたは」と思いました。

そこでまた道理を考えました。
僕が執着して道を歩むことに辛い想いをしていることに対して、
そのまま執着して進むことは、その道を外れるということになります。
止めるか?という話に乗るのもこの道を外れることになります。
どちらの自分も認めることが出来ません。

道理のところに行くことによってのみ楽になれる。
自分で自分を本当に意味で認めることが出来るのです。

認めたくない自分に執着をしてそのままで行こうとしますが、
それはすごいバカなことをやっているのです。
それでも執着している時はつらいものです。

僕はその想いを怒りに変え、伝えました。

「何を言っているのですか。止めるわけがないではないですか。
これを知らずにいかない人は世の中に沢山いますが、
一度、これを知って行かないものがいるでしょうか?
絶対やめない。見ておれ。やめんから。」

逆切れしたのですよね。

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思考の枠組みだけではなく、個人的な感情も爆発によって吹き飛ばしていくのです。

執着や強欲、嫉妬などの感情は我欲から生まれるものであり、個人的なものです。道を求めるならば、これらの感情は吹き飛ばしていく必要があります。吹き飛ばして空っぽになっていくのです。その一方、崇高なものを求める感情、人と共にあることを喜ぶ感情、人の幸せを喜ぶ感情など。これらの感情は理に適ったものであり人を幸せにしていきます。心を爆発させ空っぽになっても器は残ります。空っぽになった器には新しいものが沢山入ってきます。その時、自然に湧き上がる感情やインスピレーションは天からのものであり、世界と人を幸せに導いていくのです。

心を爆発させ空っぽになっていく。それは自分を克服することです。

サティシュ・クマールさんの『君あり、故に我あり』の中でイスラムの思想家マウラーナー・ワヒドゥディン・カーン氏は聖戦(ジハード)とは葛藤なのだと言っています。以下、その言葉を要約します。

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我々の敵とは誰か?
それは欲望、貪欲、自己中心。
勝利とはこれら心にうちに秘められた敵に対する勝利。
絶え間なく続く自我との戦い(葛藤)。
それが聖戦であり、それは非暴力へと繋がっていきます。
非暴力は偉大であり、非暴力の実践はどんな時も人生に祝福をもたらします。

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例えば、世界平和など崇高な志を持っていたとしても、虚栄心や嫉妬心など個人的欲望に負けてしまっていたら、その志は個人の欲望を叶える手段となっていくでしょう。

元日からトルコのイスタンブールで銃の乱射により39名が死亡するテロ事件が起きました。イスラム過激派によるテロ事件は世界中で多発していますが、彼らは自爆テロに聖戦という言葉を使っています。聖戦という言葉から崇高な志を感じさせますが、個人的欲望に負けてしまっているため暴力的な存在になってしまっているのでしょう。

崇高な志が個人的な欲望に負けている。それはアメリカや日本にも当て嵌まるのではないでしょうか?アメリカや日本が平和という言葉を使う時、それは自国の利益に基づく平和のことであり、それにより抑圧される人々のことは意識されていません。そして、それは国民一人ひとりが日常の中で個人的欲望を克服していないことの顕れなのです。

我欲は個人を際立たせることにより、人々を切り離し、その結果、世界に分断をもたらします。それが今の世界の姿であり、自分の姿でもあるのです。だから今、心を爆発させ空っぽをするのです。空っぽになった心に理に適った感情や高い志を育んでいくのです。木の花ファミリーの生活はみんなで共に暮らすことにより乗り越えるべき自我を浮き彫りにしその取り組みを加速させます。つまりは人を幸せに導く暮らしなのです(^-^)

最後にそんな木の花ファミリーのお正月の様子を写真でお伝えしますね。


アメリカの学生さんたち20名を迎え、ウェルカムコンサートをしています。


おせち料理。2日の夕食です。

2日の夕食です。
3日の昼食はお餅つきでした。

3日の夕食。ゲストで来ているマイケルの誕生日を祝っています。



一喜一憂しながら一つになっていく

子宮頸がんで10月26日から12月12日まで病院に入院していたきょうこちゃん。そのきょうこちゃんをお見舞いに行ったいさどんとの会話をようこちゃんがまとめた「必死」とは「必ず死ぬ」と書く ~きょうこちゃんの「どこまでもいただきます」物語には沢山の学びが詰まっています。今回は以下の文章を引用します。

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わたしは「今回、奇跡って何だろう?と思ったときに、『奇跡』はその人の『軌跡』・その人の歩いた跡だから、奇跡をその人にとっての最高の境地だとするならば、奇跡とはそこに至るまでのその人の歩みにしかすぎないんだよね」と言い、いさどんは「それはDNAだからね。DNAは体験したことが記憶してある情報にしかすぎない。だから、自分がぶれなくてもいいんだよ。自分を観て、ぶれていたら、揺れている自分がいるなと思うだけだ。そしてそこをどうしていくかという歩みが一つの生きるエネルギー源になっていく。そのままでいいなら、皆あっさりと向こうに行っているはず。そこにもだえ、苦しみ、抵抗し、そこで何かを掴んで人は成長していく。世の中にはもだえ、苦しみ、抵抗しただけで終わり、学びが一切なく、転げ落ちていく者もいるから、いろいろだ。

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そして、僕は先日、いさどんと以下のようなことを話しました。

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3次元世界に暮らしながらも人間は物事を2元的に観ている。それは、出会うこととそれに対する自分の反応で物事を見ているから。それで平面的になっていく。だけれども、その奥にはこの世界を動かしている意志がある。出会うこととそれに対する自分の反応、そしてその奥にある意志。それらすべてを意識した時、この世界を立体的に観ることが出来る。

出会うことに反応することで人は一喜一憂する。それが人間で一喜一憂しなければ生きている意味がない。一喜一憂しながらも、出来事の奥にある意志を感じて、一喜一憂している自分を離れて観る。そして流れをいただいていく。それが生きていることの醍醐味で、人生に翻弄されずに楽しむことが出来るようになる。

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人は出来事に出会うことで一喜一憂します。そこでもだえ、苦しみ、抵抗し、そして何かを掴んで人は成長していきます。その時、必要なことは物事を立体的に観ることなのだと思います。目の前の出来事と自分という平面ではなく、その奥に貫いている意志を感じていく。そうすることで現実は過去から現代、そして未来へと繋がり、立体的になっていくのです。そして、その意志は自分をすべての存在へと繋げていきます。

奇跡は軌跡。軌跡とは自分だけの軌跡ではなく、宇宙の始まりから今の自分に至るまでの軌跡です。だからいさどんはDNAだと言っています。この世界の奥にある意志はすべてのものを貫いています。だから話題は一つにことからあらゆるところに飛んでいくのです。

きょうこちゃんといさどんは病室でこんな会話もしています。

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それからいさどんは「今、アメリカで起きていることは、皆、今までを基準にしてものを考えるだろう?まさか、『こういうふうになるとは』とか『もうこれ以上は』と言うけれど、行けば行くほど、その次の世界がある。結局、所有しているだけなんだよ。自分の枠の中で限定しているから、『これ以上行ったら考えられない』というものが皆あるんだよ。次から次へとある。ただそれに自分の思考が追いつかないだけ。だから、思考しないでいただいていく姿勢になれば、自由自在になれる。限定する自分に囚われがあると、『いやだ!』とか『考えられない!』となるけれど、どちらにしても考えられるわけがないんだよ(みんな、笑)」と言った。

きょうこちゃんは「この生をいただいている。本当に皆に出会えてよかった」と言い、いさどんが「昨日の話で、もしここで別れて向こうへ行ったら、『なんだ!こちらのほうが近かった!』という話は面白いと思ってね。『向こうも近いと思ったけど、なんだ、こっちのほうがもっと近い!』と僕は思うんだよ。なぜここへ来てこのような生き方をしているのかと思うと、そこに出会うわけがある。それで戻っていったら、戻っていったで、『向こうのわけはこちらに元があったんだ!なんだ、ばかばかしい。あっちのほうが大本だった』ということになる。すべてあちらで操作している」と言うと、こうちゃんは「向こうで操作するのも面白そうだし、こっちでアップダウンしながら操られているのも結構面白い(笑)」と言った。

それからいさどんは窓から富士山を見ながら、「窓の外の景色を見ると、昨日の景色も今日の景色も天気が違うから多少違うように見えるけど、同じように見えるだろう?あれをじっと観ていると、ドーッと何かが流れている。移り変わっている。移り変わっているということは、今この部屋の中では毎日いろいろな出来事があって一喜一憂するわけだ。そこで気持ちは一喜一憂しながら、『まだ生きていたよ』などと言っているけれど、この世界全体がドーッと動いている。自分が意識したところはダイナミックで過激なように見えるけれど、実はそこら中ダイナミックで過激で、すべて同じなんだよ」と言い、こうちゃんも「本当に流れているだけだな。流れがそこにあるだけだなって思っていた」と言い、きょうこちゃんは「世界は面白くなるねえ。フリーな立場でいれば本当に面白いね」と言った。

その後、看護師さんが何度か部屋に来たときにいさどんは「あの人たちが入ってきてさ、僕を見て、『トランプさんがなぜここにいるのだろう?』となぜ聞かないのか(笑)。ヘアスタイルが違うからか(笑)」と言い、皆で笑って、わたしたちは病院を後にした。





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人は自分の枠に基づき思考しています。ニュースを見て、経済のことを考える時もトランプさんのことを考える時も沖縄のことを考える時も真珠湾のことを考える時も南スーダンのことを考える時も自分の立場から自分の枠組みで考えています。それは大抵、他の枠組みと相いれないことがあるから行き詰まります。だから思考を超えていくことが大切です。

思考しないでいただく姿勢になれば自由自在になれる。自由自在になって一喜一憂して揺れ動く。自由じゃないじゃんと思えるけれども、実は自由で常に心は現象の奥、天へと向かっている。だけれども現実をしっかり楽しみ一喜一憂する。そうこうするうちにバラバラだった現実がいつの間にか天の意志の下に一つになっている。思考はお手上げ状態。だけれども一つの流れの下にいつの間にかみんなが一つになっている。

そんなふうに生きていきます(^-^)


みんなの中でよみがえり生きていく(2)

12月18日(日)は月の一度の自然食レストラン「恵みいただきます」の日でした。メニューは12月ということで、★メリークリスマス・スペシャルプレート★でした。そして、僕は例年通りトナカイとなって売店でお客様をお迎えしていました。

「恵み」当日。サンタさんたちと記念撮影です。


クリスマスと言えば、イエス様です。僕はイエス様のお話については以下のように考えています。

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多くの人々に救いをもたらしたイエス・キリスト。イエスは処刑されますが、予言通り3日後に復活します。僕は常々、イエス・キリストの死と復活については、心の成長過程のモチーフになっていると思ってきました。

イエス・キリストはすべての人間の罪を背負って磔(はりつけ)にされ、命を落とします。人間の罪とはすなわち「自我(エゴ)」だと思うのです。自我の元、人間は自らの欲望を叶えようとし、世界に働きかけます。その結果が今の社会であり、環境問題、経済格差、人種差別、民族紛争など様々な問題を生み出しました。イエスの死は、問題を起こしてきた自我の死を意味します。自我の死とは自意識を捨てることであり、自分視点を離れることです。その体験は人に恐怖を与えるのかもしれません。執着の感情が湧き上がるのかもしれません。ですが、自我の死、自意識を手放すことは人間に新しい可能性をもたらします。

磔にされ肉体の死を迎えたイエス・キリストは、3日後に復活するのです。それはイエスの魂の復活であり、それ以後、イエスは人々の中で再生し、今も世界を見まもり続けています。人が自意識を捨てる時にも同じようなことが起こります。

自意識を捨てる時、人は今まで囚われていたものから解放されます。その時、人は、自分(自意識)が知らなかった自分と出会います。思いもよらない感情や能力が湧き上がってくるのです。そしてそれは波動となって世界に広がり、人々の心に伝わっていきます。自意識の元、自分の中だけに留まっていた心、感情が動き出し他の人々の心の中に入っていくのです。そして、その心は人々の心の中で生き続けます。自分の魂が肉体を超えてみんなの中で生きていく。自意識を超えた時、そんな生き方が可能となるのです。

木の花ファミリーの生活は自我を手放す生き方へとみんなを導いてくれます。多くの人と共に暮らす生活では、調和の心が何よりも大切になります。自分だけの都合で動くことは、軋轢が生じるきっかけとなります。毎日の生活の中で、現象を通して、自分を知り、自意識を手放していくことが出来るのです。そして、自意識を手放し空っぽになった自分の中には、みんなの心が入ってきます。
個性豊かな人々の心によって自分が創られていくのです。こうなると成長の可能性は無限大となります。出会う人々、出会う体験が自分を創っていくのです。それがどんなものになるかは自分の想像をはるかに超えることです。人生はまさに道(未知)への旅です。わくわくします(^-^)




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上記は2年前、2014年の12月に書いた文章です。文章を読んであらためてこの時期の自分の心がクリア(明晰)だったことを感じます。その後、2015年の夏から秋に掛けて自分の自我(エゴ)が浮き彫りになり、その後もいろいろありましたが、今はそれらの体験を活かし深みを持ってあの頃の明晰さを取り戻していると思っています。

ところで、僕は今年の8月いさどんから以下の言葉を貰っています。

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自分というものを内からだけ見ていてはいけません。

外から見える自分と内から見える自分というものが、
自由自在に行ったり来たり出来る状態になることが大切です。
ブログを読んでそれが少し出来るようになってきたことを感じました。

この道を極めることが大切です。
そこに向けて真っ直ぐに行くと人の価値が上がります。
そして価値が上がると自然にみんなから支持されるようになるのです。
その位置で願いが叶っていくことが大切です。
想うと叶うというのはそういうことです。

ところがあなたの場合、叶わない現状にありながら、
願いを叶えたいという願望や欲望になっているものだから、
宇宙の法から外れてしまったのです。
だからそれは「自分のこと」であり、我欲となっていくのです。
宇宙は「もっと叶えたい。あなたの望みは全部叶えたい。」と願っています。
その代わり宇宙の法に沿って願えということです。

だけれどもあなたの願いが叶うところまであなたが高まった時、
あなたにとってその願いはどうでもよくなっていることでしょう。
だから、今、あなたが持っている願いはどこかにボタンの掛け違いがあるのです。
そのためエネルギーを使えば使うほど価値を下げる状態となっています。
それはエネルギーの出どころが間違えているということです。

あなたは自分の心の足りない部分を埋めようとしています。
それは相手を見ているのではなく自分を見ているのです。
その願いは自分の矛盾から発生しているものです。
自分の中に矛盾がなければ、矛盾を埋めようという想いは出て来ません。
ただ淡々と生きていれば、そしてそれが清々しければ、
相応しく人が集まってくるのです。
そうではなく努力して人にアプローチする行為は、
自分を埋め合わせようとしている行為なのです。

あなたの矛盾は爆弾のようなものであり、あなたはそれを抱えています。
そうするとここに出会うことであなたがどれほど救われているか。
そう思いここに出会った価値を上げるとしたら、本物となることです。

そのためには正確に振り返ることが大切です。
逃げずに自分というものに真正面から向き合い、
誤魔化さずに正確に見ていくのです。
そうすれば自分が仕上がっていきます。

あなたは自分の爆弾を忘れてはいけません。
クリアしたからと言ってなくなったと思ってはいけません。
心を磨くという志を持っている限り、
自分の中にしっかり古傷としてもっていないと
調子にのったり、忘れたりします。
そうすると古傷が疼いた時にチェック出来ない状態となるのです。

だからしっかりと向き合いクリアしそれを忘れずにいて下さい。


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ここで語られている「爆弾」は僕の中にある衝動で、僕は22歳の時、1997年11月、この衝動を解き放ち、この衝動に従って生きていこうと決意しました。それは自分に正直に生きようという決意でしたが、この衝動は僕の人生に混乱をもたらしました。僕は解き放った衝動をコントロールすることが出来ずに振り回されていくのです。

そんな中、10年前は以下のような状態にもなりました。


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10年前の10月、中学校で勤めている時、僕は職員室の自分の机を蹴飛ばし、
そのままドアに向い、ドアを叩きつけて締めて、そのまま学校を離れました。
そして、道路を歩きながら、傘を叩きつけて、傘を壊したら、空から雨が降ってきて、
僕は濡れながら家まで5km歩いて帰りました。

僕はその頃、毎晩泣いていて、
人前でもきっかけがあると涙を止めることが出来ませんでした。

そして窓から飛び降りる衝動に襲われ、マグカップを人に投げつける衝動に襲われ、
心を静めるために一日に何回も屋上に行き、一人で佇んでいました。

なんか漫画みたいなバカな話。ε-( ̄ヘ ̄)┌ ダミダコリャ…
僕はそれぐらい自分の感情に翻弄されていました。


空っぽへのあこがれ」より引用(一部修正)

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衝動に振り回される日々、でもそれは僕にとって必要なものでした。爆弾は僕に与えられた大切なテーマです。それを僕は抑えこんだり、切り離したりして生きてきました。それでもあるものはあるのです。それを否定することは自分を否定することになります。自分を取り戻す。そのために僕は衝動を解き放ったのです。

そして、僕は自分を取り戻しましたが、取り戻した自分はとてもひどいものでした。こだわりが強く、他人のことを考えず、自分の基準で他者や世界を裁いていく。自暴自棄で後先のことを考えない。これが押し殺していた自分で、当然のように僕は苦しむようになります。それでもそれは必要なプロセスでした。

天への志と爆弾。

爆弾を克服するプロセスが僕のオリジナルな物語で、この物語を通して僕は天へと至るのです。そのためにはイエス様が一度死んだように、僕の自我(エゴ)も死ぬ必要があります。死ぬことでみんなの中でよみがえるのです。今日は冬至ですが、冬至は1年で最も太陽の光が弱い日です。それは太陽の死とも捉えられ、イエス様の物語同様、冬至も死と再生を表す日なのです。以下、Facebook(地球暦)からの文章を引用します。

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陰極まりて陽に転ずという一陽来復(いちようらいふく)の冬至は、これから少しずつ太陽の出ている時間が長くなり、反対側の夏至へ向けて光が増えていく合図。冬至は古くは生命の終わりを意味し、新しい命の再生復活の時と考えていました。

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爆弾を生き抜き爆弾を克服した僕は爆弾によって自我(エゴ)が吹き飛び新しい自分として復活します。新しい自分は外から自分を眺めることで以下のような状態を目指します。

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自分がある限り、その自分の内側から外を認識する目線はあるのだから、それはそれでいいのだが、同時に、自我のフィルターを抜きにした外側から同じように自分を観る目線が必要なのだ。それは、自らと他者との距離がなくなるということ。他者の目線が自らの目線であり、自らの目線が他者の目線になる。そこは何の境もない、「あなたは私、私はあなた」という世界だ。そのあなたと私の差を取ることが、差取り=悟りにつながる。


その世界を体現するためには、人々は群れて、運命共同体として生きる必要がある。その昔、厳しい自然の中を人々が群れというひとつの生命として生き残ったように、我々はもう一度群れて、コミュニティがひとつの生命として生きることによって、この世界の真実を現していく。それは、個が個に走り過ぎて自我からしかものが見えなくなった現代社会が混乱から抜け出す、唯一の方法だ。


いさどんブログ「円が縁を紡ぐ〜人間からヒトへ」より

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クリスマスを前にしてシリア政府軍が制圧したアレッポ、戦闘が長期化しているイラクのモスル、日本がPKO部隊を派遣している南スーダンなど緊迫したニュースが連日のように流れています。そして、ドイツやトルコではテロが起きたと報道されています。

まるで人々が抱えている爆弾が爆発し合っているかのようです。

そんな中、人々は平和を願い求めますが実現しません。その平和は「自分」が思い描いたものであり、「自分」の願いを追い求めているから実現しないのです。

イエス様の物語は死と再生の物語であり、それは自我(エゴ)を手放すことを意味します。それは冬至の意味も同様です。そんなふうに思う時、クリスマスは願いを叶える日ではなく、願いを手放す日であることが明らかになります。人々が手放した願いをサンタさんが叶えてくれるのです。それは自分の想定や想像を超えた世界です。

今日は冬至でもうすぐクリスマスです。クリスマスに向けて何かを願うのではなく、願いを手放していこうと思います。願いや感情を手放しそれらを超えた時、人は自由となり自分を外側から観ることが出来ます。それはみんなの視点であり、みんなの中でよみがえり生きていくのです。


こちらは「恵み」当日の料理です。
こちらは「恵み」当日の集合写真です。

みんなの変化をいただいていく

2年前の今日、僕は「みんなでみんなの人生を生きる」を書きました。そこではいさどんのこんな言葉を紹介しています。

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僕が他人について語る時、その人以上に詳しく語ることがよくあります。それは客観的な視点から語ることで、より深く多様にその人を描き出し、本人やみんなへ気づきをもたらしてきました。今、みかちゃんとなかのんが僕や僕の言葉について語っています。それは僕の言葉に新たなる彩りを与えています。切り口が変わり、多様な表現となっていきます。一人一人がこのように語りだしていくことで、ここの暮らしは新しいステージに移行し、より豊かな場となっていくでしょう。

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そしてほぼ1ヶ月前、僕は以下の文章を書いています。

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魂は生まれてきて自分に相応しい肉体と出会います。そして、両親に出会い、身内に出会い、友や仲間と出会って行きます。その中で感情が育まれていきます。すべては相応しく与えられる出会いであり、その出会いを通して魂は自分を知っていきます。

僕たちの本来の姿は魂です。肉体や感情は相応しく与えられるものであり、それを通して自分を知る材料であり、だからこそコントロールすることが出来、その変化を通して魂も変化していくのです。


この視点に気づいた時、魂はすべての出来事から離れ、自由となり∞(無限)の可能性へと開かれていきます。∞(無限)の世界の中で魂を成長させていく。それが心磨きです。

この視点は完全にニュートラル(中立・中庸)なものです。なぜなら魂の世界は人間社会の善悪や価値観を完全に超えた世界だからです。それらを超えた価値、あらゆる価値観を超えたニュートラルな価値があり、それを積み上げていく。それが魂の成長であり、心磨きです。

僕は今、こんなふうに感じています。

魂の成長。それはこの世界の本質に気付き、自由になっていくことであり、自らの思惑から解放されていくことです。それは今まで自分が身に着けてきた反応パターンのそぎ落としです。一つのパターンがそぎ落とされた時、自分自身の感情、そして出会う現実が変わっていきます。どんなふうに変わるかは変わってみなければ分かりません。だから、これは思惑を超えた世界であり、変化は自ずから起きるもの、変化を起こすのではなく、変化をいただく生き方なのです。


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客観的な言葉。それは切り口により深く多様なものとなっていきます。それがこの世界を豊かにしていきます。木の花ファミリーでは一人ひとりの人生をみんなで共有していますが、それを客観的な位置からみんなで語り合うことで、みんなの人生が∞(無限)に広がっていくのです。

客観的な言葉に至るには、一人ひとりが主観を超えていく必要があります。人は通常、自分の感情を通してこの世界を見て体験していきます。そして、世界を自分の色に染めていきます。それは行き過ぎると「自分」という単色の世界になっていくものです。感情に翻弄されている人の人生は、その人にとってはリアルでも他人からの共感は得られなくなっていきます。ですが人は自らの感情を離れてこの世界と自分を見ることも出来ます。その時、それは客観的であると同時に自分オリジナルなものともなるのです。そんな視点をみんなで混ぜ合わせていく。それがこの暮らしの醍醐味であり、心を磨くことでそれを味わっていけるのです。

コロンビアのサントス大統領は、ノーベル平和賞の授賞式で、対話の重要性を訴えました。「ここは何だろう・・・あれ?!」にも書きましたが、昨年のノーベル平和賞の受賞者チュニジアの国民平和カルテットも対話の重要性を訴えていました。ここ数年、対話の価値がクローズアップされています。ですが、ただ対話をすればよいということではありません。それぞれが自分の主張をするだけならば、いくら対話をしても分かり合うことはないでしょう。チュニジアが問題を抱えつつも民主化に成功しているのは、平和という大きな目的のために、それぞれの団体が自分の立場を超える努力をし続けているからでしょう。今、様々な危機が叫ばれる中、人々は自分の立場を超える努力をし始めています。それは希望ではありますが、受け身の態度とも言えます。危機が解決した際、元に戻るようならば、その態度は再び人類に危機をもたらすでしょう。自発的に自分の立場を超えていく。そのような態度が大切です。それを可能にするのが心磨きです。

魂を成長させ、自らの思惑を離れた時、世界と自分がひとつになっていきます。そうすると自分の変化がみんなの変化となり、みんなの変化が自分の変化となります。そして、それは自ら作り出すものではなくいただいていくものです。

自らの感情を離れて、予測不能の変化をいただき、それを通して世界と自分を知っていく。それは多様で変幻自在な世界と自分です。そのような生き方を多くの人が楽しむようになった時、世界は真の平和に向けて動きだすことでしょう。僕は木の花ファミリーのみんなと心を磨くことで少しずつそんな生き方を楽しめるようになっています(^-^)

行きつく先はきっと世界平和。でもそれは思い描いたものではなく予測をはるかに超えたものなのです。










克服すべきは自分自身

キューバのフィデル・カストロ前国家評議会議長が死亡しました。キューバ革命を成し遂げ、アメリカという大国の側で、独自の立場を貫いたカストロ氏は英雄と見なされる一方、100万人以上のキューバ人を難民にした無慈悲の独裁者としても見られています。

教育費や医療費の無料化を成し遂げ、99.8%(2011年)という高い識字率をキューバにもたらしたカストロ氏は、核の悲惨さや環境保護の大切さも語ってきました。カストロ氏が平等や平和を目指し、共産主義国家を樹立したことは間違えないのでしょうが、自由の弾圧という負の遺産も抱えているのです。

旧ソビエトでも中国でも共産主義の下に弾圧が行われました。これは共産主義の持つ負の側面ですが、その萌芽はマルクス思想の中に初めからありました。マルクスは歴史を階級闘争と見なし、資本家から権力や財産を奪取する必要性を訴えていました。権力や財産を奪取した後、社会全体のものに変えていこうとしたのですが、その奥には対立の心があり、それが原動力となっていたのです。

共産主義は、資本主義を悪とし、それに対抗することで自分たちが正義となり、それを誇りとしてきました。その誇りが時に暴走し、横暴な態度に繋がり弾圧を生み出してきたのです。出発点が対抗(対立)の心であるため、それはいつまで経っても真の平和に至ることがないのです。

同じようにアメリカの存在はキューバを脅かしましたが、それに対抗することがカストロ氏の原動力となっていたのだと思います。そのため平等や平和という高い志が実現することはなかったのです。カストロ氏の人生は対立の中にあるように見えます。

これはカストロ氏がどうこうという問題ではなく、時代がそういう時代だったということです。一つの時代を築き大きな影響力をもったカストロ氏の死亡は、時代の変化を表しています。それはトランプ氏が大統領選に勝利し、国の威信を低下させているアメリカの姿にも表れています。

今、時代は大きく変化しようとしています。

今までの時代は、外に悪を見出し、それを克服しようとすることを原動力とし、エネルギーを使ってきました。貧困、飢餓、環境破壊、気候変動など。これらは確かに大きな問題ですが、それらを悪とし克服しようとしても解決することはないでしょう。なぜなら、その奥には都合の悪いものを排除する心があり、その不寛容な心が人々の対立を生み出し続けているからです。

克服すべき対象は外にあるのではありません。克服すべきは自分自身です。一人ひとりが自分の中にある不調和な心を見出し克服し続けること。それだけがこの世界を真の平和へと導けるのです。

今、木の花ファミリーでは来年の1月28日(土)に行われる富士浅間木の花祭りへ向けての練習が始まっています。この祭りでは新しい時代の到来が表現されています。それが一番端的に表れている金神様と翁の問答を紹介します。自分を克服し、掃除洗濯を済ますことで、金神さまと共に尊き天意転換(たてなおし)を実現しましょう(^-^)

金神さまです。


金神様と翁の問答              

 
  
伊勢天照皇大神 熊野権現 富士浅間 ところは当初の氏大神。木の花の佐久夜の御庭におわします、金色(こんじき)の尊き姿の御身は、どなた様にてござりましょう。

金神  

この方(ほう)は、艮の金神と申す。
時いよいよ来たれり。この度は、地球(くに)最後の天意転換(たてなおし)。一度に清める神幽顕の三千世界(みちよかい)。 汝らの宇宙(うつ)、光一つ上ぐる仕組み。今の世は「我よし、力よし」の獣の世、蛇の「あやま知」支配する、穢れ(けがれ)逆巻く魔釣りの世。

      

艮の金神とはいかなるお方にてござりましょう

金神
  
この方(ほう)は、宇宙(うつ)を創りた元つ神。こ度の宇宙(うつ)の天意転換(たてなおし)、始原(はじまり)の、時より決まりてありた事。この方隠れている間、「我よし」「あやま知」逆巻いて、神が息の出来ぬほど、穢れ(けがれ)汚れたこの世界、最後の最後の大仕上げ。この方再び現れたなら、光に穢れ(けがれ)混じること、適わぬ(かなわぬ)世となるべきなり。古き仕組みに変わりたる、新たな仕組み始まれり。
縁ある御魂引き寄せて、掃除洗濯 済みしものより、神の使える器となりて、こ度の尊き天意転換(たてなおし)、汝らご用に使うてやる。


一度はお隠れなされた御身が、再び現れ出る(いでる)と申されるか

金神  

いかにも。この世は逆さまじゃ。どうにもならぬ者どもを、今から改心させるため、世の中ひっくりかえすぞよ。これからは、神人(かみびと)、天地が一体の「弥勒の世」が始まるぞ。
故に皆々様、御魂磨いて下されよ。御魂磨かずおられては、使えるものにはならぬぞよ。
神多くの人民の、御魂目覚めて欲しいのぞ。汝ら皆々大切な、地球(くに)の日月の神々じゃ。
一なる花を二の花へ、二なる花を三なる花へ、大和の御魂を呼び覚まし、腹にまことを据えるのじゃ。
この心、天教山より日の本の、隅々にまで広げるぞ。汝らその役、引き受けられい。

      

引き受けましょう。我らこれより「弥勒の世」、創らんがためありましょう。

金神  

一度は渡したその榊。天の元に供えられい

(金神は後ろを向く。翁が榊の枝を金神の腰に差して退場する。
金神、根付きの榊に持ち替えて、四方でへんべいを踏んだ後、神座に戻る)

皆々様、いよいよ金神動くぞよ。さすればこの世、嬉し嬉し、愉し愉しの世となりて、真(まこと)の世が花開く。皆々笑え、愛し合え。真(まこと)次々現れくるぞ。
あっぱれ、あっぱれ、富士は晴れたり、日本晴れ。
オー、オー、ヒフミヨイ マワリテメクル ムナヤコト オー。
真(まこと)の神が現れる。神人(かみびと)共に現れる。弥勒の世の幕開けじゃ。
真(まこと)の真釣り(まつり)始まるぞ。新たな時代へ、船出の時じゃ。幕開け祝い踊ろうぞ。




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