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根っこから、根本から、世界を天に明け渡す

今日は節分ですが、節分について杉山開知くんは以下のように述べています。

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節分は「立春・立夏・立秋・立冬」のそれぞれ前日で、もともと四季の分かれ目を意味する日。なかでも立春前日は「春夏秋冬」の終わりとなる特別な日であるため、一番大切な「節分」となり、「えと」の区切りも本来はここからが「戌年」です。
この時期は、旧暦を使っていた明治以前は特に“新年”という感覚が強く、数え年でみながいっせいに誕生日を迎えて祝っていたため、節分が年(歳)の節目として大きな意味を持っていました。また立春を方位で例える陰陽五行では、丑と寅の間の“鬼門”の方位にあたることからも特別な日とされていました。1年の邪気を払う豆まき行事にウシの角にトラの毛皮を着た鬼が登場するのはその名残なのですね。

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1年の邪気を祓う節分を迎えてインフルエンザが大流行しています(「インフルエンザの大流行が止まらない」参照)。そのインフルエンザについて呼吸するだけで感染することが示唆される研究結果が出たようです(「インフルエンザは呼吸するだけで感染する?」参照)。加えて、ワクチンを受けた人がインフルエンザに感染した場合、呼気からのウイルス排出が受けていない人の6倍になるという結果もありますようです。以下、In Deepの記事からの引用です。

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今回は、アメリカで今月発表されたインフルエンザウイルスの感染経路に関しての医学的研究についてご紹介しようと思います。
いろいろ内容あるその論文の中にひとつ「衝撃的な事実」が示されていたのです。
それは、シーズン前にインフルエンザワクチンの接種を受けていた人で、その後、インフルエンザにかかった人の「呼気」から排出されるインフルエンザウイルスの量は、「接種していない人より 6.3倍多かった」ことがわかったのです。
これは「インフルエンザワクチンそのものがインフルエンザを爆発的に流行させているかもしれない」ことを示唆しています。
 ~ 中略 ~
この研究は、米国メリーランド大学の専門家などによるもので、今年 1月18日、冒頭にあります米国科学アカデミー紀要に掲載されました。米国科学アカデミー紀要は、ネイチャー、サイエンスと並んで権威のある発表媒体ですので、相当数の医学関係者がこの論文を読まれたことだと思います。
ちなみに、この論文は「ワクチンの接種がウイルスの拡散を6倍に増大する」という部分が発表のメインではなく、
「インフルエンザウイルスは、咳やくしゃみよりも、通常の呼吸で拡散している」
ということが判明したということが大きい内容でもあります。
つまり、「息をしているだけで拡散する」ことがわかったということです。そういう意味では、よくいわれる「マスク」という存在は微妙ではあります。
いずれにしましても、この研究の論文の中に、「インフルエンザワクチンの接種が、環境へのウイルスの拡散を増大させている」ということが示されているのです。
ここから考えられることは・・・たとえば、普通、ワクチンの接種はインフルエンザ・シーズン前に主におこなわれますが、その「接種キャンペーン」を官民あげて大々的に実施すればするほど、そのシーズンは「インフルエンザが爆発的に流行する」ということも言えるのかもしれません。
たとえば、今年のように
今のワクチン接種の状況を見ますと、今シーズンも、これからさらにインフルエンザは爆発的な流行となるかもしれません。
 ~ 中略 ~
ワクチン接種は、標的とされた病原体に対して免疫性を付与するという疑問のない確信に基づいて行われている。
そのために「ワクチン接種」と「予防接種」という用語が、しばしば同じ意味として使用されることがあるが、これは、不自然な意味の理論的混乱だ。なぜなら、インフルエンザワクチンの場合、予防についての確実性は完全ではないからだ。そこにあるのは、むしろ宗教的信念と近い概念ともいえるのかもしれない。
しかし、ワクチンがインフルエンザを予防するという宗教的理念が、その正統性を支持することができなくなったらどうだろうか。これについては、実際に数百の例があり、多くのワクチンの意図しない副作用が、その利点を上回ることを示す医学論文は 500近くとなる。それらのすべての医学論文はこちらのデータベースにリンクがある。
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ワクチンは人智で病気をコントロールしようとする試みであり、それが逆に感染を増大させているというのがもし本当ならば、人類に対するとても大きなメッセージだなと思いました。そして今日は節分であり邪気を祓う時です。
僕はこの記事を見て、富士浅間木の花祭りでの「金神様と翁の問答」を思い出しました(問答については、「鬼は内、すると心がきれいになって福が来る(2018)」を参照して下さい。)。この問答で、人間の代表である翁は、天の代表である金神様に根つきの榊を返します。これは「根っこから、根本から、世界を天に明け渡す」ことを意味します。それは一人ひとりが自分を天に明け渡すことを意味し、何が起きてもいただき、起きたことを元にして前向きに積極的に生きていく姿勢へと繋がっていきます。
病気は身体の調整をしてくれているのであり忌み嫌うものではありません。ワクチンはそれを排除しようとする試みであり、だからこそ反動として大流行が起きているのだと思えます。もしそうならインフルエンザの流行は中道への導きとも言えます。
根っこから、根本から、世界を天に明け渡す
今起きているインフルエンザの流行も天が与えた浄化とした有難くいただき、そしてその痛みから学んで姿勢を改めることが大切なのだと思います。
節分は1年の邪気を祓う時です。
嫌なモノを排除しようとする心を祓い清め、すべてをいただく心を育んでいこうと思いました。だから、鬼は内なのです。
鬼は本来道理を伝える存在なのですが、その厳しさから忌み嫌われ、鬼門に封印されました。それは病気を排除しようとする心と同様です。
鬼は外。
それは嫌なモノを排除しようとする心であり、ワクチンに繋がり、インフルエンザの大流行を生み出しているのかもしれません。「福は内」と願っていますが、福は来ていません。
鬼は内。
それは、道理に基づいてすべてをいただく心で、結果、心がきれいになって「相応しい福」が来ます。病気すら自らを調整してくれる存在として「福」になっていくのです。
根っこから、根本から、世界を天に明け渡す
それはすべてをいただく心を育むことで、すべてが「福」になっていく生き方です。
僕はそんなふうに生きています。
根つきの榊を持った金神様です。

人生とは場創りである

大切なのは場創り。富士浅間木の花祭りには外からもお客様が訪れます。その人たちに来て良かったなと思って貰えるように、何かを感じて貰えるようにすることが大切です。そのために僕たちは極めていくのですが、それは単純に技術的なことを究めていくのではなく、心を究めていくのです。

「大切なのは心だね」

そのことが伝わるように日常をしっかりと送り魂を込めていくのです。

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これは木の花祭り開催前のいさどんの言葉ですが、この言葉を聴いて、場創りとは他者のために生きることであり、人生とは場創りなのだと思いました。

「場が人を癒す」ことがあります。そんな場所についてカタカムナでは「イヤシロチ」と呼ばれていて、船井幸雄さんの著書『イヤシロチ-万物が蘇生する場所がある』では以下のように説明されています。

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「イヤシロチ」というコトバを御存知ですか。「イヤシロチ」に対するコトバを「ケガレチ」といいます。この二つのコトバは、これから流行語になりそうに思います。
 イヤシロチというのは、ほとんどの人や動物、そして植物がそこにいると気分のよくなる土地、いわゆる癒される土地のことなのです。
 ケガレチは、その逆の土地のことで、ともに語源は古代日本人(カタカムナ人)が使っていたコトバから出てきた…といわれています。(転載終了)


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他者のために。

そう思った時、特定の他者を想定すると視点が狭くなり、囚われとなる恐れもあります。ですが、場を同時に意識していれば、視点は時空を無限に広げていくことが出来ます。そして、場が健全になれば自ずと人は癒されるのです。だから常に場作りを心掛けていくことが大切なのです。

視点を場に持って行くと自分からも離れることが出来ます。そして健全な場は人を癒すのだから、自分自身も癒されます。自分のことを考えなくても、場を意識していれば、自ずと自分のためにもなるのです。

自他の区別を超えてみんなのために。

場創りを意識していればそんなふうに生きることが出来るのです。

そんなことを確認し臨んだ木の花祭りが1月27日に開催され、みんなで一つのうねりを生み出しました。このお祭りには世界各地(海外21ヵ所、国内79ヵ所)からご清水を送っていただいていますが、祭事の前にはそれらを釜戸の中で融合させます。今回その儀式を行った後、ひろっちは以下のような想いを発信しています。

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先程、かまちゃんサポートの元、世界各地、日本全国から届けられた清水を、釜にて融合させていただき、ただ今火にかけて温めています。
 
いつもの事ですが、この瞬間は、何とも言葉で言い表し難いものがあります。
 
世界中、日本中の神々様、精霊様達がここ富士の麓にお集まりになり、一つに融合していくのです。

空を飛び海を渡り、陸を通って、遥か遠くの精霊が集まっておられるのです。
 
釜の中の水は、何処からどう見ても一つです。

そこには堺も何もありません。完全に一つに解け合い混ざり合っているのです。

まさに世界が一つになっていく弥勒の世界を完璧に表現しています。

そしてそこにはそれを届けてくださった沢山の皆様の想いも入っています。

この祭りの意味に賛同する人の想いが祈りが願いが集まり、そして一つになっていきます。

手に取り、釜に注いでいく一つ一つの水がとっても重いです。
その様を目の当たりにしてシビレます。あまりに尊くて、そして有り難くて涙が出ます。
 
本当に痺れます。
何とも大切な事をさせられていると実感します。
 
ありがとうございます。
ありがとうございます。
勿体のうございます。
 
惟神(かんながら)たまちはえませ

でわ舞庭で会いましょう。



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釜戸で融合され「弥勒の世界」を表現するご清水は、祭りのクライマックス「湯ばやし」の舞で湯だわしを使い一斉に振りまかれ場を清めていきました。そして、祭り終了後には湯だわしを絞ったご清水を川に流しましたが、それによりご清水は「調和の響き」を持って地球と一つになっていきました。

祭りでは様々な個性、役割の人がご清水のように一つに溶け合ってうねりを生み出しますが、それがこの空間をイヤシロチにしていきます。場創りということに関して言えば、個人的には至らないところはありましたが、みんなが生み出したうねりがそれを洗い流し大きな動きを生み出していきました。みんなで一人一人の未熟を超えていく。それは世を治めるマツリゴト(政)にも求められることであり、毎年のことながらこのような場を生み出し続けること、そして広げていくことの大切さを改めて感じました。

木の花祭りは年の一度の晴れの舞台ですが、晴れの舞台を生み出しているのはその準備であり、そして日々の日常です。日常が晴れの舞台に奥行を与えているのです。だから毎日、何でもないように思える日でも場創りを意識することが大切なのです。それは今、自分がいる場に何をもたらしているかを自覚することから始まります。

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私たちは自らが美しい響きを響かせ、美しい響きのものを生産し、そして健全に生きていく。それを社会に還元し、社会を健全にしていくのが私たちの生きる本当の目的です。

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上記は昨年の収穫感謝祭にていさどんが語った言葉ですが、木の花祭りも同じ目的の下に行われています。毎日を健全に生きて、この場に美しい響きを生み出し、それを社会に広げていくのです。祭りの場で一つに融合し、そして世界に還っていくご清水はその象徴と言えます。

だからこそ日常から魂を込めて生きること。そしてみんなと一つになっていくこと。そのことを忘れずに成長し続けて、それが更なるうねりへと繋がっていくように。心掛けて生きていこうと思っています。

人生とは場創りである。

それは今この場に一人一人が美しい響きを響かせることです(^-^)

「湯ばやし」です。



融合したご清水が場に振りまかれ場を清めました。

混沌とした泥の中から美しい蓮が生まれる

一昨日、1月23日は「ひふみ」の日。「ひふみ」という言葉から僕は天が意図した「ひふみの法則」という言葉を思い出します。以下、それを説明している文章を引用します。これは2016年6月21日、銀河の夜明けから本格的な光の時代へと切り替わる「トキ」に合わせて掲載されたものです。

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かつて、「死」さえも天が統治して導いてくれているということを感謝と共に受け入れていた時代がありました。身体を持った「生」の時間と、身体から離れた「死」という時間を、行ったり来たりすることは、"悠久の宇宙時間"の中に在る魂にとっては何も怖いことではなかったのです。

しかし、「生」にあった時、「出逢った大切な人・時間と共にいつまでも在りたい」という当たり前の欲求によって、"宇宙時間"から自分達のための"人間(物質)時間"への執着が生まれたといいます。


やがて"人間時間"の中でのサバイバルを目的とした「男性性」が暴走を始めます。自分たちのやり方で、競争・支配(コントロール)の価値観に基づき、自分たちのルールと科学に傾倒していくうちに、いつしか私たちは天(宇宙に委ねていく在り方)から離れました。


『天から離れたということは、内宇宙と外宇宙が分離し共振性が損なわれたということ。』


私たちの身体の中に存在する内宇宙。それは微生物たちも含めた世界であり各々の心の周波数が創り出す世界です。その内宇宙と、地球と同期する外の微生物たちが創り出す世界(外宇宙)は、本来は統合していて共に響き合っていました。


宇宙には天が意図した「ひふみの法則」というものがあります。
無意識に統合の時代を生きていた時代(ひふみの「ひ」=源)から、我々は「個」の体験を重ねるという分離の時代(ひふみの「ふ」=分離)を過ごしてきました。そして、今、まさに私たちは「生」の本来の目的を想い出そうとしているのです。(ひふみの「み」=意識をもって統合の時代を生きていく)。


『全ての生命(いのち)が響きあう場所で天に導かれて愛を生きる。』


競争やエゴ、自分(たち)さえ良ければ、今さえ良ければ、という世界ではなく、皆がひとつの真実の方向に向かって響き合う、「大いなる循環」の中で自らの輝きを活かしていく時代の到来。統合の時代へとシフトする今このとき、宇宙時間の中で、自分の輝きを、自分の中心で、真の女性性を取り戻しながら神の子として蘇る。天と自分の魂との約束を果たす時が今まさにやって来たのです。


自分自身を籠の中に閉じ込めているのは、「自分のやり方こそがベストだ」と信じ込んでいる自分自身なのです。その観念を一旦天へと戻して、認めたくない自分やもう二度と感じたくはない感情と再び出逢い、向き合い、その奥に在る、分離の時代には成しえなかった


『自分の中にある本当の想いや愛と繋がりなおす。』


そういうチャレンジを体験することが、閉じ込めた籠の中から輝ける自分自身を解き放つことにつながっているのです。


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ここ最近、木の花ファミリーではいさどんからメンバーに向けて死生観プレゼンが行われていますが、そこで確認されていることはこの文章で表現されていることとほぼ同じで、今僕たちに必要なのは、皆がひとつの真実の方向に向かって響き合う、「大いなる循環」の中で自らの輝きを活かしていくことなのだと思います。そのために必要なことは、認めたくない自分やもう二度と感じたくはない感情と再び出逢い、向き合い、その奥に在る、分離の時代には成しえなかった『自分の中にある本当の想いや愛と繋がりなおす』ことなのです。それは「死」を含めて全てを受け入れる姿勢であり、問題に出会った時、それをなくそうとするのではなく、問題を通して自分を知り高まっていく生き方といえます。そんな生き方についていさどんは以下のように語っています。

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地球温暖化や経済格差、紛争、難民、国々や民族の対立・・・・現代社会は混沌としています。混沌の中、その解決策を求める気持ちになるかもしれませんが、そこには人生の深みがありません。

問題が生じている時、問題のないところにいって、みんなで幸せになろうとする。それは良いことに聴こえるかもしれませんが、とても薄っぺらな話しです。みんなで幸せになろうとする時、幸せになるべき人間性があって初めて幸せになるのではないでしょうか?人間性が高まらない状態で幸せを求めることが社会に何をもたらすのか?そのことに想いを巡らせてみて下さい。

問題がある時、ただ解決策だけを求める。

それは新しい発想だけ貰って楽になろうとしている姿勢です。その姿勢が人々を現実から引き離し停滞を生み出しているのではないでしょうか?そこからは結局新しい発想も生まれないのです。

新しい発想は自分を放棄した時初めて生まれるものです。

この世界には法則性があります。常にそれと対話していくこと。それが天と共に生きるということです。

問題ごとに出会った時、ただそれを改善しようとしていく。それは人間の知恵の中で良い生活を送ろうという心に繋がり、その結果、天は離れていき、停滞が生まれます。

美しい蓮池を生み出しているのは水中で混沌としている泥の存在です。表面に浮かぶ現象を生み出している奥の世界。それを知り生かすことで人生は深まり花開いていくのです。

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過去から未来へ繋がる魂の変遷の途上に今があり、生きていることの奥には死の世界、魂の世界がありそちらが土台であり本質です。ですが、現代では「死」は忌み嫌われる存在となっています。人々は自らの土台を忌み嫌っているのです。それは鬼についても同様です。もうすぐ節分ですが、節分では通常「鬼は外、福は内」と言います。そのように人々は鬼を忌み嫌っていますが、鬼は本来、人々に道理を伝える存在、鬼が云うで魂となるように、それは世界の土台を司っているのです。

人は自らの都合を追い求め、都合に合わないものを忌み嫌ってきました。その結果出来上がったのが、それぞれの損得で繋がったり離れたりする表面的な世界です。多くの人が一生懸命に生きていますが、都合の悪いもの、死や鬼を忌み嫌っているため、魂が抜けてしまっているのです。

土台である魂を取り戻すためには都合の悪いこと、問題と向き合っていく必要があります。魂を入れる。それは自分と向き合う姿勢のことです。

美しい蓮池を生み出しているのは水中で混沌としている泥の存在です。表面に浮かぶ現象を生み出している奥の世界。それを知り生かすことで人生は深まり花開いていくのです。

このいさどんの言葉を心に置いて、世界や自分の混沌に向き合い、花を咲かせていこうと思っています。

正直に誠実に自分の役割をこなす

人と自然が共にある生き方を学びたい、と、お母さんと一緒に木の花ファミリーにやってきた台湾人のビリーさん。シルク・ド・ソレイユのダンサーでもある彼は、昨夜、富士浅間木の花祭りのために用意された和太鼓を使って見事に舞い踊り、まるで祭り前の「神寄せ」がなされたかのようでした。
今日の午前中はヨガ教室を開き、午後はリゾットを作ってみんなに振る舞い、夜は木の花祭りのハイライトである「四ツ舞」の稽古に参加してみんなで大盛り上がり。稽古後に、こんな感想を教えてくれました。
  
「僕はダンサーとして世界中の様々なダンスを見てきたけれど、コミュニティのダンスほど大切で、素晴らしいものを見たことがない。これはダンスを超えるもの。
木の花祭りでは、世界中の水が集まって釜の中でひとつになることで、エネルギーが大きくなっていく。同じように、その周りを舞い踊る人々も、みんなで舞い踊って、エネルギーがどんどん大きくなっていく。踊りに参加していないおばあさん達も、心は参加していて、この場を支えている。音楽からも、おばあさん達からも、そのエネルギーを感じた。
今、世界の人々は、まるで水がいっぱいに入ったコップのよう。自分のコップがいっぱいで、もうそれ以上入る余地がない。僕が木の花ファミリーで学んだことは、みんながからっぽになっていくこと。からっぽだから、ここには世界が入ってくる。」
 
祭りまであと10日。ビリーさんとお母さんは明日の夜明け前に台湾へと旅立ちますが、きっと祭りの日も、心は共に舞い踊っていることでしょう。(ともこ)


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上記は先日木の花ファミリーを訪問して下さった台湾人のビリーさんとの交流を描いたものですが、このようなお客様にも恵まれ、今、木の花ファミリーでは全体が富士浅間木の花祭りへ向けて軽やかに大事な暮らしを営んでいます。

そんな中、僕は木の花ファミリーを批判する人々の言葉と向き合い、体調も崩し、重たい気持ちで過ごしていました。特に背中と胸の痛みはひどく、歩くだけでも振動が響き、痛みで眠れない日もあり、祭りで舞うことが出来ないのでは?という不安がよぎり、全体の流れと自分の違いを強く感じ「いけない」と思い苦しんでいました。そういう自分と向き合いながらブログを綴り少しずつ軽さを取り戻していって、そして「何ももらっていなくても」という言葉、そして記事へと繋がり、僕はこの記事を大人ミーティングでシェアしました。みんなにシェアしたのはこの記事が大事な話だというフィードバックを貰ったからなのですが、重たい気持ちを出発点として生まれたこの記事が軽やかな全体の中で大事な話として共有されたことに不思議な感覚を持ちました。なにせ記事を書いた時は、あくまで自分と向き合う中で出て来た言葉であり、全体の流れには沿っていないと感じていたのです。それが全体に大事な話として共有され、そして不思議とあれだけ痛かった背中と胸の痛みがなくなりました。

これで祭りで舞うことが出来る!

それもみんなと同じ気持ち、そして軽やかさで。それが確信となりました。

僕にとってこの経験はとても大きなものとなりました。自分が全体の流れと違うと感じていたのですが、僕は好き好んで木の花を批判する人々の言葉に向き合っていたのではありません。役割としてこの時期に一度しっかりと向き合っておく必要があると思いそうしたのです。ですがそれが全体の流れと違っているように感じて苦しくなりました。でも、そうではないのです。流れはもっと多層的になっていて、メインとなる流れだけでなく常に潜在している流れがいくつもあって、きっとそれがこの世界に厚みと彩りを与えてくれているのです。重たい気持ちが軽やかな全体の中で生かされていくこともあれば、今現在、次の流れとして潜在している流れもありそれも大切なものと言えます。だから正直に誠実に自分の役割をこなしていくだけなのです。それが目に見える目立った流れとは違っているように感じても、全体性を意識していれば、きっといつかどこかでそれは生かされていきます。目に見える全体の流れと違うと感じると落ち込んだり、被害的になったり、ふて腐れたりする気持ちも生じますが、こういう気持ちが本来生かされるはずのものを殺してしまうのです。そのことを強く感じました。

ところで、富士浅間木の花祭りは地球の神様である国之常立神(クニノトコタチ)の復活を描いたお祭りですが、かつていさどんは国之常立神について以下のように語っています。

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インテグラル・ヨーガの創始者でもあったオーロビンドのアシュラムに行った時のこと。いさどんは初めて、オーロビンドの魂を感じました。
その魂はいさどんの視線を誘導し、そこにある様々なものに目を向けさせました。植物の葉っぱ、大理石の柱、壁の傷。その視線と共に、いさどんの指も、その一つひとつを指さしていました。そしてひとつ指さすごとに、「そこに私はいる」「そこにも私はいる」「どこにでも私はいる」という言葉が降りてくるのです。それは全てに遍満している存在なのだ、といさどんが思うと、「全てに遍満しているということは、無である」という言葉が降りてきました。全てに遍満しているということは、全てが自分であり、自分(自我の特定)はないということ。その時にいさどんは、これは地球の魂ではないかと直感しました。シュリ・オーロビンドの魂は、地球神・国之常立大神、つまり艮の金神の魂なのです。
オーロビンドの魂は言いました。「私を知っているであろう。今まであなたは私と一緒にいた。その私にあなたは会いに来た。」そこでいさどんは尋ねました。「あなたは私の中においでになりますね?」オーロビンドは答えました。「私は、あなたの内にも外にも、どこにもいる。




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艮の金神、国之常立神の復活は、世の中のひっくり返しを意味し、それは立脚点の転換でもあります。自分の側から世界を見て、自分の価値観で世界を評価してきたのが今までだとしたら、これからは世界の側から自分を見て自分を正していくのです。世界というみんなが共通する地点に立って学びを共有し一つになっていきます。

その世界とは?

地球神・国之常立神は「私は、あなたの内にも外にも、どこにもいる」「全てに遍満しているということは、無である」と言います。それはどこにも固定されないものです。だから世界という視点も固定をしてしまったら、それは気づかぬうちに自我の視点となっていくのです。

例えば最近の僕には、富士浅間木の花祭りに向けて軽やかに進む世界が見えていました。そしてそれにそぐわない自分を感じていました。ですが、それは表面的な見方であり、その奥には様々な流れがあってそのすべてが全体を生み出しています。

軽やかな世界とそれにそぐわない自分。

その視点は「そぐわない自分」を際立たせるものともいえ、それに固定してしまったら、そぐわないものとしての自分が強化されていくのです。それは世界から自らを分け際立たせる自我の動きです。

世界の側から自分を見る。

その世界とは無限に広がり変化変容を繰り返すもので自分の視点で捉えきれるものではありません。だから固定せずに常に変遷として見ていく必要があるのです。そして、与えられた役割をこなしながら「内にも外にも、どこにもいる」国之常立神の視点へと想いを馳せ自分をからっぽにしていこうと思っています。その先にあるのは、生まれ清まり舞い踊るうれしたのしの世の中です(^ー^)


ビリーと木の花ファミリーのみんな(ヨガ教室後)







何ももらっていなくても

昨日の朝起きた時、「何ももらっていなくても」という言葉が浮かんできました。この言葉は僕の中で、2年前の2月にいさどんが語った言葉と結びついています。それはこんな言葉です。

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生きていることが天の意志であり、計らいであるとしたら、ある程度地上を生きる者の事情も加味して計らってもらわないと、天の計らいを意識して生きる者にとっては、生きることが人によっては辛いことばかりになってしまうことがある。そして、歩みが遅れる。だからこそ、少しは天に向かってありがたいと思えるように、その計らいを感じられるようにしていただかないと、と思っていた。そうしたら、それに対する答えが降りてきた。

天に計らいをしていただかないといけない、という自分の心の中に、困ったことが起きたという、ある意味緊張と言うのか、心の筋肉が張っている状態があった。そうしたら、ふぁーっと、それに対する回答が返ってきた。それを何と表現したらいいのだろう・・・・水鉄砲からぴゅーっと水が発射されたような感じのものが何本も降りてきて、それは霧のようなものだけど水ではなく、虹のようでもあって、光でもない。それはいったい何だろうと探っていくと ――――― 響き。

カタカムナでいう潜象界から「カ」がヒフミヨイと進み、マワリテメクルで現象化の自転公転の動きが起き、そしてムナヤコトでアマ界に至り現象化してみこと(命)になって出て来るでしょう。アマ界から現象化して出てくる時に、最初は響きとして出て来る。その響きが、現象界の水のようにちりちりちり・・・と破線のような感じで、いくつもいくつも平行にしゅーっと降りて来る。そういう景色が、返事として返ってきた。

それで、わかったぞ、と思った。そして今、それを伝えようと思い、その前段となる自分が天に向けた想いを語り始めた。配慮をしていただかないと、ことが起きることばかりを受けていては、人間は道を信じていただくことを忘れがちになります。それは困ったことが起きましたという感じで心の筋肉が緊張している状態であり、そういうふうになると道が遅れます、と。僕がそう意識を向けたことに対して、ちりちりちり・・・といくつも降りてきたものは、その緊張をふーっと取ってくれた。

緊張をふーっと取られて、その瞬間に「回答が返ってきた」と思った。ところが、こちらが天に向けた想いを説明して、さてその回答を言葉にして語ろうと思ったら、言葉は何も出てこない。ただ緊張だけを取ってくれた。

それをあえて言葉にするならば ―――――
最初に思っていたのは、「私は天の意志をいただいて生きる者ですから、どんなことでもいただきます」という心。それは、いつも自分の中にベースとして持っている心。だからこの道を歩んできた。けれどもあまりにもこういったことが起きると、人間が苦痛を感じて道を歩むことが遅れます、という言葉を上へ伝えたことに対して、もともと持っていた心へ戻りなさい、という意味で、緊張をさーっと取ってもらった。

その時に、なぜ人の道が遅れるのかというイメージがあった。滞りが起きる時、自分が一人でそれを受け取るならば、天意だから何でも受け取りますという心はある。けれども、例えば自分がこの人だったら、と考える。人のことを想うと、みんなはそれぞれに目いっぱいになるから、それでその者たちの道が遅れます、ということを僕は思った。

けれどもそこを解き放つのが、それを束ねてみんなを道へ進ませる自分の役割であり、一人ひとりの滞りを正すのも自分の役割だと思っている。だからそう考えた。
それはある意味、現世的には人に対する想いやりでもある。もう一つの奥にあるのは、私の道が楽になりますように、ということ。もう面倒くさく煩わしいから。僕の心の動きを観ると、人の道に滞りがないようにと想うのも、ある意味その背景に「私が楽になるように」という想いがあるとしたら、僕のベースにある「何でもいただきます」という心と、それに十分成り切っていないギャップの心があるということを示している。

それに対して、「ギャップがあって未熟だぞ」という指摘はまったくされない。ただ無言で、響きを持って、その緊張だけをほぐしてもらえた。それをある意味意志として返してもらったのだと思い、それを言葉にしようとしたら何も出てこなかった。

このメッセージを別の解釈をすると、何も答えはない。もしも負荷がかかったならば何も考えずに負荷の状態を解き放てばよい、ということ。それはよく僕が言っていること。ダメだと思ったならやめればいい。ダメだと思うということは、気付いたということなのだから。ダメだと思わなければ、進めばいい。それが滞りの種であれば、滞りが起きるだろうから。そして滞りが起きたら、それ以上進めるのをやめればいい。

先案じをして取り越し苦労せずに、今を生きるということだよ。そう。誰よりも真剣に生きているのだから。誰よりも道にふさわしい歩みをしているのだから。迷うことは何もない。

今言葉を語ったのは、頭を回したのではなく、中空にある絵を観て語った。頭を使ったとしたら、その絵から受け取れるものを言葉にしただけ。

僕も頑固者だな。誰と比べて頑固者かというと、出口王仁三郎聖師。彼は警察に捕まり牢獄に入れられて、そこで尋問を受けた。その時に、自分の姿勢を曲げずに、尋問をするものに道を説いて聞かせた。そのくらい頑固者だよ。
その時の精神は、今の自分の状態と一緒だと思う。僕は監獄には入れられていないし、状況は違っても、ものごとに動じて道を踏み外すことはない。

ただ、これは万人の道。人として地上に降りてきて目指すべき、万人の道。そのことをわかるものは、この時代の変わり目を迎えても、まだまだ少ない。
ただ、出口王仁三郎聖師の時代とは違い、切り替えの時がもう来てしまったから、時期にその証が現象化されるということでは、希望のある時代だ。彼はその夜明けを見ないで終わったのだから。僕は土台を生きるとしても、夜明けを見て終われるんだよ。子どもたちは、その夜明けの向こうを創っていく子どもたちだ。

ありがとうございます。

何ももらってはいないのに、ありがとうございます。

ただ今があるだけなのに、ありがとうございます。

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僕がこういう言葉をこんなふうに思い出すのは、僕が弱く未熟だから。僕の未熟が揺るぎない心を求めているからです。いろいろ経験してこの道を歩む意志は強く確かなものとなっています。だから僕の中の弱さがなくなったかと言ったら、そんなことはありません。自我を持つ僕は日々の出来事に一喜一憂し、揺れ動きます。だけれども僕は強くなったとも思っています。その強さとは何かと言ったら、いつでもすぐに揺るぎのない心と繋がれることです。揺るぎのない心を支えに僕は日々揺らいでいるのです。

自分の自我の弱さや未熟さが僕を謙虚にしてくれます。そしてそれは他者の未熟を理解する助けともなります。だからこの弱さや未熟さはなくなる必要がないのです。その奥にある揺るぎのない心をいつも感じていたら、すべての出来事は祝福となっていきます。

揺らぎと揺るぎのない心。

両方を生きることで僕の幅は広がっていきます。

上記の文章で天がいさどんに対してしたことはただ緊張を解いただけ。それだけでいさどんは元の「すべてをいただく心」に戻りました。天に心を向ければ、いつでも緊張はリセットされ、再スタートをすることが出来るのです。それは揺るぎのない真実です。だからいつでもどこでも

何ももらってはいないのに、ありがとうございます。

ただ今があるだけなのに、ありがとうございます。

という心となれるのです。

そして、同時に思い出したのは、堕天使ルシフェルの存在です。地獄でサタンとなったルシフェルについては以下のように書いている本があります。

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私達が悪魔と呼ぶサタン、ベルゼブルこそが、身の毛もよだつような分の悪い役割を自ら担い、人間の心に生ずるありとあらゆる悪の部分は、すべて彼のものとして位置づけし、彼の仕業であるということで、人々は自分自身を救ってきたのです。

 ~ 中略 ~ 

「ねえお母さん、天国の扉の鍵はルシエルが持ってるんだって。私たち人間が、この世にはびこる悪というものを本当によくわかるようになるまで天の国の扉は開かずに、みんなその前でウロウロしているらしいよ」


ルシフェルは悪い役割を自ら担いました。なぜそのような存在が必要だったかというと、人々が自分のことを見て来なかったからです。悪とは何かと言ったら、自分の都合を求めてきた人々に排除された存在です。人間は自分の都合を求めていろいろなものを切り捨ててきました。その結果、地球環境は悪化し、社会の分断と孤立が深まっています。その状態は偏りであり均衡を取り戻す必要があります。だから、人々が切り捨てているものが何かを教える存在が必要となるのです。役割としての悪。それは人々の姿を映すことで学びへと導いているのです。

人類はずっと正義の名の元に争ってきました。自分の行為を正当化し、争いを生み出している心の種を見ることはありませんでした。悪は自分の中にあるのにそれを認めずに外を改善しようとしてきたのです。それは自分の都合を求める心です。自分の都合を求めて争いが起き緊張しているのが今の人間社会と言えます。だから天に心を向けてすべてリセットするのです。そして「すべてをいただく心」でみんなが再スタートをすれば、全ての存在と出来事が認められ、今ある問題はすべてなくなっていくでしょう。なぜならいつでもどこでも、

何ももらってはいないのに、ありがとうございます。

ただ今があるだけなのに、ありがとうございます。

という心で生きていけるからです。

ありがとうございます(^-^)



自我は惑いの中にある

多種多様な経験をし、様々な立場の人たちが共に暮らすこの世界では意見の相違があるのは当然です。違う立場の人が敵となって表れる。それも不思議なことではありません。その時、それを有難いこととして受け止め、そこから学んでいけば、敵は好敵手となり人は成長しあらゆる立場を超えた視点を育むことが出来るのです。

たとえば僕は老若男女100名近くと血縁を超えて共に暮らしていますが、このような暮らしをしているといわれのない非難を受けることもあります。それらは経験や立場の違いから生まれる偏見と言えますが、彼らの視点を理解すれば、僕らの決意を試す有難い言葉ともなります。そんなふうに僕らは成長して来ました。それがなくなって欲しいと思う必要もなくてただ道理を通して暮らし変遷として見ていけばいいのだと思っています。

過去から未来へと続いていく天の物語。その長い物語の中に自分は位置し物事に出会いますが、すべては流れの中にあります。敵に出会うのもその流れの中であり、そこから学ぶことで敵は消え、また新たな敵が表れるのでしょう。敵の存在を認め尊重していれば、それは絶え間なく続く成長のプロセスであり、すべては役割でありそこには「有難い」しかないのです。




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この文章にあるように、時に木の花ファミリーのことを批判する人に出会いますが、そのような時、第三者にその出来事の意味を説明することもあります。そんな時、僕は木の花を批判する人たちの言葉を徹底的に読み込んでいます。繰り返し繰り返し読み、彼らの視点から木の花を眺め、その言葉を実感を持って味わうようにしています。すると実際を離れて本当にその通りに思えてきます。今や彼らの言葉は僕の言葉ということが出来るぐらいです。こんなふうに彼らの視点を確認した後、そこから抜け出しいつもの自分の位置に戻ってきます。これは数年前からやり続けている作業で、僕はずっと批判者の文章を読み続けていますが、こんなふうにお互いの立場を行き来しながら、どちらの視点にも立たない言葉を紡ぐようにしています。

誰の側にも立たずにみんながそうだねと思える言葉を紡いでいく。

それが僕の目指すところで日々そのための努力をしていますが、批判者の実感を味わいながら自分を保つのはなかなかしんどい作業でここ最近の苦しみはそこから生まれていました。

木の花ってひどいところ。

そんな言葉を実感を持って味わいその視点で日常を送りながら、この道を歩む意志を固めていくのです。年始に批判者たちの文章をまとめて読み込みその視点を沢山味わって彼らに共感し、共感することで今、その奥をさらに見通すことが出来たのはないかと思っています。それは自分自身の奥を見通すことにも繋がります。

自我は惑いの中にある

これが今浮かんでいる言葉です。

みんな様々な出来事に出会いその中で自分の考えを育んでいて、そこにはそこに至るワケがあり、その人の正当性があります。人間の自我は目の前の出来事に反応し一喜一憂しながら自分の利益を求めていきます。それは多分みんな共通していて、だからその人の立場に立ったらその気持ちになるなと理解し合うことが出来るのです。僕はこんなふうに批判者たちの言葉を理解しています。ですが、これはあくまでそれぞれの状況に対する反応です。だから状況が変われば心も意見も変わります。なぜなら自我が求めているのはあくまでも自分の利益であり正当性だからです。そして、それは僕らの意見にも同じことが言えます。もし僕の言葉が自我からの言葉ならば、それはあくまで自分の立場や状況から生まれているものです。状況が変われば気持ちは変わります。だからもしその状態で言葉を保とうと思ったら自分に「大丈夫だ」と言い聞かす必要があるでしょう。自我からの言葉は状況に左右されますが、変化変容を本質とするこの世界では未来は未知であり絶対はありません。自我の思惑から世界を眺めたらどうしても惑うことになり、逆に一つの視点に固執したら、そのことが世界を見えなくさせます。そこに自我による決心の弱さや危うさがあり、自我による共感はそれぞれの都合を認め合うことで分断が進んでいく今の社会を追認するのです。

先に僕は奥を見通したと書きました。それは僕の言葉が自我からのものではないことの確認です。僕が生きているのは自分の意志で生きる前に生かされているからであり、自我の奥には自分を生かしている働き掛けがあります。今、僕がここで暮らすのも自分の意志より前にその働きかけがあるからであり、それは自分の損得を超えたものでありその事実は揺るぎがないものです。そこに立つ時、僕は自我の惑いを超えて思惑を超えたところでみんなと繋がっていけるのです。そして、この視点が今の社会の行き詰まりを突破するものだと感じるから、ひどいところと言う人がいたとしても僕はここの大事をみんなが分かる言葉で伝えていくのです。そしてそれは大切な繋がりや心の豊かさを生み出しているという事実を伝えることでもあります。

自我の思惑を超えたところに「みんなでそうだね」と奥のところで感じ合える言葉があります。それは自我による共感を超えたものであり、様々な立場にいる人々を繋いでいきます。そんな本当の絆が広がるように。最後に一つの文章を引用して終わりにしたいと思います。

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思惑や感情の奥に本当の自分がいて、その自分はこの宇宙と一体で常に響きあっています。自我が生み出すヒビキを超えることで、世界と響き合っている本当の自分のヒビキを生きることが出来ます。それは円が縁を紡ぐこの世界の中で与えられた自分の位置、誰とも比べることが出来ない自分独自のヒビキです。

自分の中には自我を含めていろいろな層があり、それぞれの層が発しているヒビキがあります。自分の意識がどのヒビキとチューニングしているかによって、そのヒビキに相応しい心の状態となって現実を生み出していきます。だから自分の持つヒビキを見通していこうと思っています。そして、この世界に心を開いて、世界とヒビキあっていこうと思っています。




木の花ファミリーパンチームのみんなです。年始に美味しいパンを作ってくれました。

突破口は気づきにある(5)

今週はずっと体調が悪く苦しい1週間でした。ちょうど、「敵は自分であり有難い存在となる」を書いた後から風邪をひきそうな予感がして、昼間長めに休んだのだけれども、やっぱり風邪をひいて、頭痛、咳、鼻水、加えて、背中が強く痛み、肩と首が凝り、腰も痛み・・・というような状態で立っていても座っていても歩いていても寝ていても何をしていてもしんどい日々でした。そして、長めに休んだことで仕事が溜まり情報の整理をするのが大変になっています。

12日の夜、癒し処たんぽぽの鍼灸師、じゅんぞうくんに指圧とお灸をしてもらいかなり楽になりましたが、パソコンに向かうとやはり腰や肩、背中に痛みは発生します。年始早々なかなかな状況を迎えていますが、これも当然、自分の心が生み出しているわけです。この状態のきっかけとなった「敵は自分であり有難い存在になる」に僕は以下のように書いています。

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多種多様な経験をし、様々な立場の人たちが共に暮らすこの世界では意見の相違があるのは当然です。違う立場の人が敵となって表れる。それも不思議なことではありません。その時、それを有難いこととして受け止め、そこから学んでいけば、敵は好敵手となり人は成長しあらゆる立場を超えた視点を育むことが出来るのです。

たとえば僕は老若男女100名近くと血縁を超えて共に暮らしていますが、このような暮らしをしているといわれのない非難を受けることもあります。それらは経験や立場の違いから生まれる偏見と言えますが、彼らの視点を理解すれば、僕らの決意を試す有難い言葉ともなります。そんなふうに僕らは成長して来ました。それがなくなって欲しいと思う必要もなくてただ道理を通して暮らし変遷として見ていけばいいのだと思っています。

過去から未来へと続いていく天の物語。その長い物語の中に自分は位置し物事に出会いますが、すべては流れの中にあります。敵に出会うのもその流れの中であり、そこから学ぶことで敵は消え、また新たな敵が表れるのでしょう。敵の存在を認め尊重していれば、それは絶え間なく続く成長のプロセスであり、すべては役割でありそこには「有難い」しかないのです。


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今現在、役割として僕の敵になってくれている存在がいるのですが、この文章はその存在を意識して書いたもので書いた後に僕は調子を崩しました。そこには僕の弱さが表れています。僕には僕の役割があります。そして、その役割は敵の存在を認め尊重しながら務めるものですが、尊重するとは慣れ合うことではありません。相手の立場を理解しながらも情に流されず道理を通していく必要があります。しんどい状況からあらためてその覚悟を深める必要性を感じています。

ベトナム反戦運動を主導し、北軍南軍双方の兵士を助けることで誤解を生み、両軍から攻撃を受けても非暴力を貫いた仏僧ティク・ナット・ハン氏は、非暴力主義の鑑と言えます。そのティク・ナット・ハン氏は、何らかの理由で引きこもり家から出て来なくなった青年に対して、その青年の家を焼き、社会生活をするように促したことがあるようです。その行動は心を鬼にしてとった行動であり厳しいものですが、その奥には青年に対する理解と愛があります。今僕は、昔、本で読んだこのエピソードを思い出しています。

そして今、1月27日に開催される富士浅間木の花祭りに向けて稽古が本格的になってきていますが、僕はこのお祭りで鬼を演じます。鬼は人々に忌み嫌われていますが、鬼は本来、人びとに道理を説く存在です。鬼についてカタカムナの単音で調べると以下のような意味となります。

「オ」 6方(前後左右上下)へ限りなく拡散、または凝縮する思念。大きい 重い 奥の方・潜象の場  ※潜象界とはカタカムナでは「ない世界」のこと

「二」 定着する

この意味を発展させて「いさどんと鬼の面」では鬼について以下のように説明しています。

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「オニ」とはマクロにもミクロにも限りなく広がる現象界、および現象界の元になる潜象界をも含む、両方の世界の働き(仕組み)を定着させるものである。そして、「鬼が云う」と書いて「魂」となる。魂とはこの世界の仕組みのもとにある心で、鬼は人間に、この世界の道理を伝えるものなのである。

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「鬼が云う」で魂、鬼の言葉が魂となります。魂とは本来の姿であり、一人ひとりの自我(エゴ)を超えた存在です。相手を理解する時、そこに相手の自我に対する理解も含まれますが、尊重するのは相手の自我ではなく魂です。すべての存在が魂では通じ合っています。だから魂を尊重するとは、すべての存在に通じる道理を通すことなのです。それは相手の自我にとったら認められないこともあり反発を受けることもあるでしょう。ですが僕は僕の情に惑わされずただただその道理を意識して役割を務めていきます。この言葉が僕の傲慢ならば、結果がそれを教えてくれます。だから常に変遷を見ていけばいいのです。ここで昨年の10月に書いた言葉を思い出しました。

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突破口は気づきにある。

それを意識し生活することが大切だと思っています。

多くの人は現状に問題を感じた時、その分析をします。その分析の奥には「こうあって欲しい」というイメージがあって、そのためには「こうする必要がある」と訴えることになります。それは自分の想いを実現しようとする姿勢であり、自分の視点に対する理解を周りに求めることになります。この姿勢のまま「これではいけない、なんとかしよう」と一生懸命になっても突破口を開くことは出来ないのでしょう。

我々の直面する重要な問題は、それを作った時と同じ考えのレベルで解決することはできない。

上記はアインシュタインの有名な言葉ですが、今、直面している問題は自分たちの想いの結果生み出されたものです。自分の想いを通そうとしても、突破できないのは当然と言えます。ですが、人はそれを周囲のせいにすることもあります。自分の考えは正しいのに周りの理解がないから実現出来ない。こんなふうに考え、それに固執し、その結果、停滞していくのですが、それも自分の想いが生み出している現実です。

気づきとはこの世界に対する理解です。それを得るためには世界に起きていることをただの情報として眺める視点が必要となります。感情や思惑が挟まると世界は自分の色に染まっていきます。そして、想いのままに行動することになり、そこに気づきは生まれません。

人は他者からの理解を求めるものです。ですが、その時理解される自分とは今の自分であり、今の自分が現在の問題を作ってきたのです。だから他者からの理解を求めることはないのです。そうではなく、ただ世界や他者を理解していく。そのことに努めた時、自ずと気づきは生まれ、それが新しい動きとなっていきます。




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役割としての敵が存在する今の状態は問題がある状態とも言えます。ですが、僕はそのことに対する理解も結果も求めません。そうではなく世界と他者を理解していく。そのことを心掛けそこから見える道理を通し変遷を見ていく。それはきっと新しい動きとなって僕を未来へと導くことでしょう(^-^)

「突破口は気づきにある」僕の中でこの言葉はこのとセットになっています。



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