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炎の中で座る~相反するものの統合~

何か必要なことを推し進めようとする時、自分の中に漠然とした抵抗感が生まれる時があります。何が・・・という理由があるわけではないのですが、なんとなくそれを避けようとする気持ちが生まれます。それはきっと、僕の元々の性質が受け身であるからなのだと思います。

話しは大きく変わって。

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エジプトよ。あなたは一人ではないよ。みんな民主主義に向けて努力していることを忘れないで。民主主義は専制政治に対する抵抗から始まった。専制政治は目の前の現実。だから戦おう!でも専制政治はみんな(+すべての組織)の中にあるロールでもある。みんな、時には自分や誰かに対して専制的になる。民主主義がずっと続くように。内なる戦いに踏み出そう。そして自分の中にある専制的な要素を取り除こう。そして、他者の視点を取り入れていこう!なぜって?それらはたいていあなた自身の声だから。世界から飛び出そう!そして心の奥底へ分け入ろう。一緒に戦い愛を深めていこう!

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上記は2013年8月、クーデター後の混乱の中にあったエジプトに向けたアーノルド・ミンデル(アーニー)の言葉です。当時、翻訳してFacebookでシェアしたのを久しぶりに目にしました。アーニーが実践するプロセスワークでは深層民主主義を掲げており、一人ひとりの心の奥底からの同意を目指しています。そして、その実践の一つとしてワールドワークというものがあります。ワールドワークでは、グループでの対話を通して一人ひとりの心の奥に入っていきます。世界で起きていることを一人ひとりの心の反映と捉え、現実社会と一人ひとりの心をクロスさせながら対話を深めていきます。アメリカのロサンジェルスの各地で暴動が起きた頃、アーニーはそのロスでワールドワークの実践をしたことがありますが、ワールドワークが行われた地域では暴動が起きなかったということを聴いたことがあります。ワールドワークの場では時に激しい対話も行われますが、その激しさの中で対立のエネルギーが昇華されていくのだと思います。

"Sitting in the fire"
 炎の中で座る。

アーニーはワールドワークの実践をそう表現しています。

僕は昔、プロセスワーク、特にこのワールドワークの実践に大きな可能性を感じ、プロセスワークの学びを深めていました。ですが、ワールドワークはあくまでセミナーでありイベントです。日常に大きな影響を与えたとしてもそれは非日常の場となります。それだけだとどうしても限界があります。もし本当に深層民主主義の実現を目指すならば、その取り組みを日常の場へと広げていく必要があります。

老若男女約100名で毎日を共にしている木の花ファミリーの暮らしは日常が深層民主主義へと至る実践です。目の前に起きる出来事を通して、みんなで学びを深めていく。その際、一人ひとりの心の奥を探り、天の流れに沿っていきます。表面上は違いがあって、それが時に対立に発展したとしても、この世界の元の心は「ひとつ」です。天の流れに沿うことですべての意見が調和の下に変化変容を繰り返し、それは美しいハーモニーとなっていくのです。

民主主義は人々の多様性を尊重しますが、人間の自我の心により表面的な違いが際立ち、対立や分断、孤独に繋がることがあります。これは心の奥、天の流れを無視することによって生まれる状態で、今の世界の姿と言えます。

冒頭で取り上げたように2013年、エジプトでクーデターが起きました。あれから4年経ちますが、世界はさらに専制的となり対立や分断、孤独が深まっています。アメリカのトランプ大統領、ロシアのプーチン大統領、中国の習近平国家主席、北朝鮮の金正恩氏、トルコのエルドアン大統領などはその象徴と言えます。利害関係に囚われ対立し挑発し合う世界のリーダー達。それは損得感情でいっぱいになった人々の姿の反映と言えます。人々は心の奥へは飛び込まず、目の前の出来事に一喜一憂し、翻弄され、行先を見失っているのです。

蜜蜂のように生きる」に書いたように、蜜蜂の世界では無数に存在する働き蜂が群れの方向性を決めています。1匹1匹の働き蜂が奥の部分で通じ合い、気候や天候、自然の流れを読んでいるのです。それは天の流れの下、一つにまとまった姿であり、その姿が美しいハーモニーを奏でていきます。人間一人ひとりも、自我の心、「自分が・・・」という心を超えて奥へと飛び込んだ時、天の流れの下、一つになっていくことが出来るのです。

それは本当の自分へと至る過程でもあります。人間の自我は、目の前の出来事、表面的な喜怒哀楽に心奪われ、損得勘定に走りますが、その奥にはこの世界に生かされている自分がいて、それはすべての存在と繋がっているのです。世界が自分であり、自分が世界。自分自身はこの全世界の一つの表現であり、自分の中にすべての世界が含まれ、自分は世界の一部となります。一人ひとりがそこに目覚めた時、調和の下に多様性が展開され、きっと今ある分断や対立は超えていくことが出来るでしょう。

そこで冒頭の話に戻ります。

何か必要なことを推し進めようとする時に僕の中に漠然とわく抵抗感。僕が持つ受け身な心。これは僕の自我の偏りです。基本、受け身だからこそ積極的に動いていくことが大切なのだと思っています。そうすることで受け身と能動、相反する姿勢が僕の中で統合されていきます。陰と陽、相反するものがこの世界、そして自分を生み出していますが、自我は偏りを持って世界と自分を捉えます。その偏りに閉じこもることで、分断や対立は生まれていくのです。だから常に相反するものに心を開いていく必要があります。その姿勢が自我を超えていくということであり、それは絶え間なく続くプロセスの中にあります。

自分の中に湧き上がる心、その出どころは様々です。そこを見極め相反するものを自分の中で統合していく。そして宇宙の流れに沿っていく。その姿勢がこの世界に統合をもたらします。なぜなら、世界は自分の映し鏡だから。

僕は今、そんな道を歩んでいます(^-^)

川の上流へと向かって歩いています。




海としての自分を生きる

公立中学校で学校事務職員をしていた頃、職員室で当時の教頭先生に対して怒りをぶつけたことがあります。僕に頼りがちで調子の良いことを言って仕事を振り続けていた教頭先生に対し、僕は不満を溜めていました。そして、勇気を振り絞って、「しっかりしてもらわないと困る」と伝えました。教頭先生は、そんな僕に対し謝罪をし、その後、お互いに協力し合って仕事をするようになりました。この時、心が通じ合ったように感じ、僕はこういうことを伝えたのだから、「さらにしっかりしなければならない」と気持ちを引き締めたのを覚えています。

この経験は、僕の中で大切な思い出として残っていて、自分は成長したように感じて来ましたが、それは僕からの視点です。僕は今、この体験を違ったものに感じています。

僕が普段から筋を通して淡々と必要なことを伝えていたら、教頭先生も淡々とそれに応じていたと思います。教頭先生が過度に僕に頼ることも僕が不満を溜めることもなかったでしょう。つまり上記の状況は必要なことを伝えない僕が創りだしたものなのです。そして、僕は「勇気を振り絞って」伝えます。これは「追い詰められた状況から逆転する」という僕好みの英雄物語と言えます。僕は自分を被害者の位置に置くことで、教頭先生を加害者に仕立て上げています。そして、勇気を振り絞ります。これ、当時は全く無自覚ですが、自分の英雄物語、成長物語に相手を巻き込んでいるとも言えるのです。そして、教頭先生はみんなの前で僕のような若造に怒鳴られます。それはとても恥ずかしい体験で、普段から僕が毅然としていたら本来必要ないものなのです。

成長の過程とはいえ、相手に不必要な傷を与えた。

僕は今、この体験をそんなふうに思っています。

冒頭の僕の話、僕の成長話として共感してくれる人もいるのではないかと思います。もしこの話に多くの方が共感してくれたとしても、それは客観的な視点ではありません。客観的視点、それは天からの視点、個人的感情を超えた視点です。常にこの視点に沿って自分を改善していこうと思っています。

感情は浮かんでは消える波のようなものです。大きな波、小さな波、いくつもの波が同時に存在していますが、特定の波に飲み込まれると、そこからの視点がすべてとなり、海である自分を見失います。僕は今まで何度もそんな経験をしていますが、昨年の8月、そのような状態になった僕に対して、いさどんは以下のように語りました。

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自分というものを内からだけ見ていてはいけません。

外から見える自分と内から見える自分というものが、
自由自在に行ったり来たり出来る状態になることが大切です。
ブログを読んでそれが少し出来るようになってきたことを感じました。

この道を極めることが大切です。
そこに向けて真っ直ぐに行くと人の価値が上がります。
そして価値が上がると自然にみんなから支持されるようになるのです。
その位置で願いが叶っていくことが大切です。
想うと叶うというのはそういうことです。

ところがあなたの場合、叶わない現状にありながら、
願いを叶えたいという願望や欲望になっているものだから、
宇宙の法から外れてしまったのです。
だからそれは「自分のこと」であり、我欲となっていくのです。
宇宙は「もっと叶えたい。あなたの望みは全部叶えたい。」と願っています。
その代わり宇宙の法に沿って願えということです。

だけれどもあなたの願いが叶うところまであなたが高まった時、
あなたにとってその願いはどうでもよくなっていることでしょう。
だから、今、あなたが持っている願いはどこかにボタンの掛け違いがあるのです。
そのためエネルギーを使えば使うほど価値を下げる状態となっています。
それはエネルギーの出どころが間違えているということです。

あなたは自分の心の足りない部分を埋めようとしています。
それは相手を見ているのではなく自分を見ているのです。
その願いは自分の矛盾から発生しているものです。
自分の中に矛盾がなければ、矛盾を埋めようという想いは出て来ません。
ただ淡々と生きていれば、そしてそれが清々しければ、
相応しく人が集まってくるのです。
そうではなく努力して人にアプローチする行為は、
自分を埋め合わせようとしている行為なのです。

あなたの矛盾は爆弾のようなものであり、あなたはそれを抱えています。
そうするとここに出会うことであなたがどれほど救われているか。
そう思いここに出会った価値を上げるとしたら、本物となることです。

そのためには正確に振り返ることが大切です。
逃げずに自分というものに真正面から向き合い、
誤魔化さずに正確に見ていくのです。
そうすれば自分が仕上がっていきます。

あなたは自分の爆弾を忘れてはいけません。
クリアしたからと言ってなくなったと思ってはいけません。
心を磨くという志を持っている限り、
自分の中にしっかり古傷としてもっていないと
調子にのったり、忘れたりします。
そうすると古傷が疼いた時にチェック出来ない状態となるのです。

だからしっかりと向き合いクリアしそれを忘れずにいて下さい。


☆彡 ☆彡 ☆彡

人は感情という波を通してこの世界を経験し、そして自分を認識します。それが内から見える自分です。ですが、人は本来、海そのもので全世界と繋がっています。その視点から自分を眺めることが外から見える自分です。

感情の波に飲み込まれると人は海としての視点を失います。そうすると自分自身がちっぽけな波となって不足感に襲われることになります。そうして外に対象を求めるようになります。冒頭の教頭先生の話も、卑屈な感情に飲み込まれた僕が生み出した現象であり、教頭先生は自分自身の矛盾です。だから当時の僕は教頭先生を通して、自分自身の矛盾を見ていたのです。そしてそれは爆弾(怒り)へとなって現れました。

この世界で出会う出来事はすべて自分自身の現れであり、相応しく与えられています。

願いも感情と同様、浮かんでは消える波のようなものです。叶うものは自ずから、自動的に叶うし、叶わないものは叶いません。それは天が相応しく与えるものであり、叶うか叶わないかはあまり重要ではありません。大切なのは、どんな時も海としての自分を見失わないことです。海であり続けたら自分の中に矛盾が生じることはありません。変化変容を繰り返す宇宙の法則に従い常に成長し続けることが出来ます。

自分というものに真正面から向き合い誤魔化さずに正確に見ていく。

それは波に飲み込まれずに海としての自分から波を見通すことです。かつて波に飲み込まれたことがある。その古傷を忘れずに僕は海として生きます(^-^)


困りごとから果実が生まれる

8年ぐらい前、研修会でプレゼンをする機会があって、その時、「因」という字と「困」という字を間違えたことがありました。当時の日記を見るとこんなふうに書いています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

(研修の)最後・・・ということで、
今まで学んだこと。
自分の変化。
これからのビジョン。
そんなことを3分間で話した。

プレゼン用に模造紙を書いている時、
僕は「困⇒果」という文字をたくさん書いて、
それが天の意志で調和に向かっている図を描いた。

「因⇒果」と書いているつもりだった。
「因」「困」を間違えて書いていることに、
人から指摘されるまで気付かなかった。

僕はこの図は以前から何度か書いていて、
その度に「困⇒果」と書いていた。

書き間違い。
そこから言葉が生まれた。

「困りごとから果実が生まれる」
そして、それが調和に向かっている。

欠点や問題は神からの祝福。
それを通じて自分を磨ける。
愛おしい特質。

欠点や問題を通じて学ぶことでそれらを生かせる。

それが僕の生きかた。

☆彡 ☆彡 ☆彡

困りごとから果実が生まれる

昨日、なぜかこの言葉を思い出しました。

このプレゼンをした時は、ホワイトボードに模造紙を貼ったのですが、準備をする時、内容を書いた方ではなく、何も書いていない方を表にして貼っていました。真っ白。そんなものを見せてもプレゼンが出来るわけがないのに。これも人から言われて気づき直しました。そして、笑いを取りました。笑いを取って、まさに困りごと(失敗)から果実(笑い)が生まれましたね。と話し始めました。

間違えや失敗など。人は不都合なことに出会うと困るものです。ですが、困りごとに心を開くと自分を改善するきっかけとなり、自分の幅を広げてくれます。

・・・と簡単に書きますが、現実の社会を見ると人は間違えを繰り返し、そこから学んでいるようには思えません。長崎市長は、平和宣言で原爆の悲惨さを訴えると共に、核兵器禁止条約の交渉会議にさえ参加しない日本政府へ、その姿勢を見直すことを訴えています。加えて、核の保有国及びその傘の下にいる国々に、核軍縮の義務を果たすことを求めています。そして、世界中の人々に「最も怖いのは無関心なこと、そして忘れていくことです」と呼び掛けています。

無関心、忘れていくことが最大の問題なのです。

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人は失敗などの現象に出会った時、ああだったから、こうだったからと理由を並べるけれども、理由を並べることで、問題を自分の人間性から切り離していく。そして、問題をなかったことにしていく。

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昨晩いさどんが別の話題でこんなふうに語ったことが心に残っていますが、人は放っておくと問題をなかったことにしていく、つまりは忘れていくのです。

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この世界は氷山のようなもので目に見えていることは10%に過ぎなくて、その奥に90%あって、その90%を探求していくことが大切。

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これもいさどんの言葉ですが、問題事が起きた時、人が並べる理由は大抵、目に見えていることで、氷山の10%の中で語られています。出来事に反応して表面的なことを語っているだけでその背後を掘り下げていないのです。

今年の7月26日、マヤの新年の際、いさどんはこんなふうに語っています。

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私たち人間は、生きている限り、この地球上で様々な出来事に出会います。人生の中で出会うことは、すべて私たちの生きた証であり、それまでの生き様にふさわしい結果として出会っているのです。今、世の中には、世界的な規模で解決策を見出せないようなたくさんの滞りがあり、それを何とか解決しようと世界のリーダーたちは模索していますが、その動きでは解決できないでしょう。なぜなら、どのような現象も、そこに生きる者たちのそれまでの生き様の結果として与えられたものですから、その現象を変えるには、それをもたらした人々の生き様を変える必要があるのです。その現象に出会った結果、それまでの自らの生き様がどのような結果をもたらすものであったのかを悟り、その生き様を変えていくことによって、自ずと、自動的に、その現象は存在する意味をなくし、消えていくのです。そこで、原因である生き様を変えずに、学びのない姿勢のまま、現象を追い求めていることを「欲」と言います。


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すべては自分自身、そして人類全体の生き様の結果です。そして、生き様を変えることとは、氷山の見えない部分、90%を掘り下げることであり、それが出来た時、現象(問題事)は自ずと、自動的に消えていきます。ですが、多くの人は「欲」のままに現象(改善)を追い求め、氷山の見える部分、10%を分析しているのです。それは自分や人間の本質からは切り離された分析であり、表面的で深みはなく、人の印象には残りません。いつしか問題は意識から薄れ忘れ去られていきます。そして、再び問題に出会い同じことが繰り返されていくのです。

すべては自分自身、そして人類全体の生き様の結果、その奥にはそこに至る物語があります。その物語をしっかりと把握し生き様を変えた時、自ずと、自動的に、その現象は存在する意味をなくし、消えていくのです。

氷山の見えない部分、90%には人の本質が隠されていて、そこを探求することで人生は一つの物語となりとても豊かなものとなります。不都合な出来事や意図していない出来事に出会うと人は困るものです。ですが、その困りごとをきっかけに人は本質の探究をすることが出来ます。この探求が始まった時に初めて、困りごとから果実が生まれるのです。

だから常に探求していくことです。

正解や結果があって、それに基づいて生きていく。人はとかくそんな生き方を求めがちですが、それは本質を探究する姿勢ではありません。正解や結果に固執することで未来を自分の視点で区切ってしまうのです。

流れを観て、流れに沿っていく。そして、未知なる未来をいただいていく。

そんな姿勢が人を本質へと誘います。

過去から現在、そして未来へと繋がる、宇宙や地球、人類、そして自分の物語。流れに沿うことで、それを探求し紡いでいく。僕はそんなふうに日々を楽しんでいます(^-^)

ブルーベリーの果実です。

ただ出会う感情を楽しんでいく

出会う出来事を感情を挟まずにいただいていくように、出会う感情も感情を挟まずにいただいていく。それは感情から自由になるということです。出来事をいただくということは我慢とは違います。常に感情から自由でニュートラルである必要があります。

過去に滞りをいただいた時のことを思い出すと、大抵、何らかの感情に飲み込まれていることに気づきます。それは自覚している時もあれば、無自覚の時もあるのですが、感情が物事を見えなくさせているのは事実です。

自らの感情を表現しながらも、それを離れて眺めて、どう展開していくかを楽しんでいく。そんな姿勢が大切なのだと思います。この世界の中のものはすべて変化していきます。ならば感情も変化していくのですが、感情に飲み込まれてしまうと、それが絶対になり感情を満たすことに心を奪われていきます。そして、感情に翻弄され、それが出来事にも影響し右往左往することになります。

出会う出来事が自分の今までの生き方の結果であるように、出会う感情も自分の今までの生き方の結果です。それは自分に相応しく与えられています。そして、今の自分の感情が未来を生み出していきます。だから常に自分自身を見つめ導く必要があります。

変化変容がこの世界の法則です。その法則に自らの感情を委ね、出会う感情を楽しんでいく。そして感情が生み出す出来事をいただき楽しんでいく。そんなふうに生きていけば、きっと自分自身が天の法則の表現となります。

今、世界には多くの滞りが発生しています。それは今までの人類の歴史の結果であり、そこから生まれる感情も同様です。湧きおこる感情のままに行動していたら、今まで通りの世界が展開することになります。

今、北朝鮮がミサイル発射の実験を繰り返しています。

それは今までの北朝鮮や韓国、日本、中国、アメリカなど関係諸国の政治や経済が生み出している結果です。そこに感情的に反応し、そこから判断を下していたら今まで繰り返しとなります。例えば、それに脅威を感じて米軍と自衛隊が共同訓練をすることや外交圧力を強めることから新しい動きが生まれるようには思えません。

今までの自分たちを振り返ることで認識を深め、そこから新しい感情が生まれることで新しい動きは生まれます。きっとそれが滞りの解決へと繋がっていきます。

政治や経済、そして社会の動きは一人ひとりの心の総和です。一人ひとりが日常の中で自分を見つめ導くことで新たな動きが生まれます。それは人間の理解、理屈を超えた動きであり、だからこそ希望があります。どうにもならないと思える状態も変化していくのです。そうだから、ただ出会う感情を楽しんでいこうと思っています(^-^)

(以下、7月22日、早朝の空と富士山です)






奥に流れているものに目を向ける

カフェ&ショップ・ロータスランドでは今、土用の丑の日フェア!を開催しています。その初日の朝、準備に慌ただしくしているみんなを眺めながらいさどんはこんなふうに語りました。

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こうやって賑やかにしていると、人の目は表面に顕れる出来事にいきます。ですが、その奥に流れているものがあってそれは常に新しい流れを生み出し続けています。そこに目を向けていないと新しい動きには間に合わなくなっていくものです。

ロータスランドが始まり、私たちの暮らしは特に忙しくなりました。忙しい毎日を送っていると、給料を貰い生活をしている人々ならば、ストレスが溜まってきます。そのためストレスを解消するためにお金や余暇が必要となります。ですが、ここの人達は忙しい毎日を送っても疲れて眠くなるだけです。それはこの暮らしの安心感がもたらすものですが、その余裕、ゆとりのようなものを心磨きに向けていく必要があるのです。

忙しく賑やかな毎日を生み出している奥のもの、そこを緻密に見ることによって、プロセスから学び、それは自分の成長として積み上がっていきます。その成長が天の生み出す新しい流れと呼応していくのです。表面的な賑やかさにかまけて、安心感の中、ぼうっとしていると次の流れには間に合わなくなるのです。

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この話を聴きながら、僕は自分のことを振り返りました。

人と人、人と自然とが調和した木の花ファミリーの暮らしは、少ないお金、そして低い環境負荷で豊かな暮らしを実現しています。それは環境破壊やそれに伴う異常気象、経済格差や貧困、戦争や紛争、人々の分断や孤立など様々な問題が溢れている現代社会に対して一つの答えを提示しています。一般社会で暮らす中で様々な矛盾を感じて苦しんだ僕は木の花ファミリーで暮らすことを選びました。それは一つのゴールであり、僕は形の上では正解を選んだのですが、数年後には意欲をなくしている自分がいました。僕が選んだ答えは到達点であり、その暮らしをそのまま続けていればよく、当時の僕はそれ以上何かを変化させる必要を感じていませんでした。形ばかりに目を向けていた僕は、その奥から生まれる新しい流れに間に合わなくなり、次第に停滞し意欲をなくしていったのです。

木の花ファミリーの暮らしは自然界をモデルとしています。すべてのものが生かし合い支え合っている自然の姿を人間社会に顕すことを一つの目標としています。ということは自然の動きと連動している必要があるのです。

春夏秋冬。ただ繰り返しにも見える自然の動きですが、よく見ると、毎年新たな動きがあり、自然は常に新しいところへと向かっています。変化変容が自然の本質です。

それは木の花ファミリーの暮らしも同様です。自然界をモデルとし、天の流れが生み出したこの暮らしは変化変容し続けます。表面的には同じことの繰り返しに見えたとしても、その奥には常に新しい流れが生まれ続けているのです。そこに目を向け、自身も共に変化していかないと流れに置いていかれます。するとそこで起きていることが分からなくなり、意欲を失っていくのです。

このような状態になると、「変わろう」と思ってもなかなか変わることが出来ません。おそらくそれは自分の在り方が流れから外れてしまっているからです。流れに沿っていれば、変化は自ずから生じます。なぜなら、変化変容がこの世界の法則であり、自分もその一部だからです。2014年の終わり、僕は変化について以下のように書いています。

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このBLOGを立ち上げた時、僕は別に「変わろう」とは思っていませんでした。ただ広い視点を持つことを心掛けて毎日を過ごしていました。その結果、僕はとても幸せになりみんなに変わったと言われます。一方、僕が意識的に変わろうと努力した時、僕は変われなかったし、あまり幸せにもなれませんでした。

その違いは何か?

僕が意識的に変わろうとした時、僕は自分の変わる姿をイメージしていました。評価される自分、出来る自分をイメージしていました。要は自分がかわいかったのです。そして、自分に囚われていました。その囚われが僕の変化を邪魔していたのでしょう。




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変わろうと思っても、それが自我(エゴ)の思惑ならば、変化が生まれることはなかなかありません。大切なのは、変化変容を本質としている自然の流れに沿うことです。そのためには常に出来事の奥に目を向ける必要があります。今の形、自我が生み出す世界に安住していると人は流れから外れ停滞していきます。そして変化は遠ざかっていきます。ですが、その奥に流れるものに目を向け心を開く時、変化は自ずと生まれます。

天の流れが生み出す変化。それは自分の想像を超えた大いなるもので、何気ない日常も深い体験となりただ出会う出来事を楽しむことが出来るのです。

ただ出会う出来事を楽しんでいく

そのために奥に流れるものに目を向け続けていこうと思いました(^-^)



不自由の中にある自由、それが本当の自由

以下の言葉は2015年10月、自分の感情に囚われ大きな滞りを生み出していた僕に対するいさどんの言葉です。

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なかのんは、自分の状態は問題だということは言います。
だけれども、駄目なところに情を掛けて執着してしまっているのです。
そこはシビアになって抜け出さないと次の段階に行けません。

そこに情を持って執着していると、言っていることとやっていることが違ってきます。
それは矛盾を創ります。
そんなことをずっとやっていたら霊的には罪を犯すことになります。

問題があると認識しているならば、
そのことを認めて改善する意志を明快に示すことです。
そして、常に問題を意識して生きるのです。
毎日を冷静に見ていく。緻密に見ていく。
客観的に自分を離れてみていくことが必要なのです。

木の花ファミリーのようなみんなで創っている場所、
これはある意味、組織みたいに見えます。
そうすると、そこに共鳴出来ない不調和な状態にいる人にとっては、
この組織みたいなものが個人を締め付けているように感じます。

だけれども、ここでやっていることは個人の質を高めることによって、
みんなで目的を達成しようという投げかけをしているだけで、
締め付けをしているわけではなくて、あなたにそのことを託し、
そして同時にあなたの価値を上げようとしているのです。
その時に、日頃、語っていたり、
みんなで確認し合っていたりすることをぶち壊すということは、
ここ全体に対して逆風になるし、自分の価値を下げることにもなります。

客観的に見たら、そんな行動を取るのはおかしなことでしょう?
それなのに、なぜそのおかしな行動を取るかといったら、
その未熟な自分に執着しているからです。

それで、僕の話をしますが、僕も昔、同じところを通ってきました。
僕は、お釈迦さま、そして神さまに出会い、道理を伝えられてきました。
お釈迦さまが語られるのは仏道、道なのですよね。
プロセスをずっと見ていく客観視点を育てられます。

そうすると自分の感情が苛立っている状態を観なければいけなくなります。
普通の人は感情が出てくると、感情のままに出して、
それを主張することが自由だったり束縛されていない状態と思ったりしています。
ところが、僕にはもう一つの目線がありました。
それも強制的に示される目線です。
そちらの方から「お前の今の感情はこうだぞ」と言われると、
僕みたいな道理人間、理屈人間は理屈で負けてしまうのです。

それでどうするかというと、僕は理に叶った方に行こうとします。
自分の主張が愚かであっても、そこに執着したい自分がいますが、
理に適った方に行かなければなりません。
そのように、そちらを選べば選ぶ程、情がわいている自分を否定することになります。
理に適った方を選んでは自分を否定していく。
その繰り返しになりますが、その覚悟が出来ていないとだんだん辛くなるのです。

そこで「俺はつらいんだー」となって爆発したことがありました。
そうすると、お釈迦さまは「それなら止めるか?」と尋ねてきました。
「なんてひどい薄情なことをいうの?あなたは」と思いました。

そこでまた道理を考えました。
僕が執着して道を歩むことに辛い想いをしていることに対して、
そのまま執着して進むことは、その道を外れるということになります。
止めるか?という話に乗るのもこの道を外れることになります。
どちらの自分も認めることが出来ません。

道理のところに行くことによってのみ楽になれる。
自分で自分を本当の意味で認めることが出来るのです。

認めたくない自分に執着をしてそのままで行こうとしますが、
それはすごいバカなことをやっているのです。
それでも執着している時はつらいものです。

僕はその想いを怒りに変え、伝えました。

「何を言っているのですか。止めるわけがないではないですか。
これを知らずにいかない人は世の中に沢山いますが、
一度、これを知って行かないものがいるでしょうか?
絶対やめない。見ておれ。やめんから。」

逆切れしたのですよね。

さっきのなかのんの言葉もある意味逆切れですよね。
だけれどもなかのんは自分と向き合わない方向に切れていました。

僕は「絶対にあなた(お釈迦さま)のところにいく」という逆切れ。
同じエネルギーの掛け方でも違う方向に向かっているのです。

僕は辛いから泣きました。でもその涙は自分にとって肯定的です。
そこまでやるんだ。
その想いが自分を強くしてくれます。

なかのんの逆切れは心を強くするものではなく、ある意味逃げています。
そうやって逃げていくと悔やみの心が出てきます。

また自分が否定する、本当はそうではないという方向に行ってしまった

その繰り返しになり、だから定期的にその想いが湧いてくるのです。
自分が嫌いな自分を演じて、自分で苦しんでいる状態です。

※いさどんとお釈迦さまのエピソードは「木の花記~金神さまの巻~」をお読みください。



☆彡 ☆彡 ☆彡

当時の僕はまずは自分の想いに従い行動し、現象に出会ってから、問題だと感じ、その自分にネガティブな印象を持ちながらも執着していました。

今は?

今の僕は自分の想いを離れて物事を眺める視点を持っています。それは木の花の暮らしの中で育まれたものですが、その視点から自分を見て自分の行動を決めていますみんなが「いいね」と思える判断、そして行動に自分を導く。そのために道理に合わない想いは自発的に手放していきます。そんなふうにしていると、ここで紹介したいさどんのエピソードを思い出します。

当時のいさどんと同じ地点に立てたかな?と思っています。

そして、僕は自分を手放す覚悟は出来ています。それは今までに与えられた「痛み」という愛によって育まれて来ました。そして、自分を手放していると思いもよらない出来事に出会います。例えば、先日、ロータスランドで提供しているおまかせセットとミニブルーベリーパフェを特別にご馳走になりました。これは自分が希望したことではなく周りから与えられた特別な出来事です。こういう特別なことがあると、それに相応しくあるように、全体性を意識する気持ちがさらに強まります。

そしてこの時、僕はいさどんからこんな言葉を貰っています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

この暮らしを始める時、自分の持っているものが自分ものでなくなることの喜びがありました。それは最初、お金や私有財産だったりしましたが、それが血縁や身近なものを手放していく喜びに繋がっていきました。ところが、これをやってきて、それが素晴らしいと思えば思うほど、そして究めれば究めるほど世の中とのギャップを感じてきました。そして、たくさんの無理解者と出会ってきました。周りに理解がないと人はくじけるものです。だけれども大事を持っているからこそ、これを続け、くじけそうになったら広い視点から見てその大事を確認してきました。そして歩むことを恐れません。その結果は、思い通りになるということではなく、ただいただいたものを答えとして逞しく生きていくのです。そうやって価値を積み重ねてきました。時代の流れを見るとこれは必要な生き方だから、それを先駆けとして生きていくのは尊いことです。ところが今の評価を欲しがると人は崩れていきます。今の評価と先駆けとしての生き方をどう織り交ぜるか?そんなことが問われ続けます。

そんな中、なかのんは風当りの強いところで役割をこなしてきました。それは定めということもありますが、その定めは僕に寄りそってきたからです。批判の対象は本来、僕。僕の近くにいるからそういう役割をこなしてきたのです。それがここのところ、なかのんは自分で立って、自分の道として、その役割をこなすようになって来ています。それに対して僕は感謝の言葉は掛けません。なぜなら、なかのんが自分で歩んで自分の価値を高めているのだから。ただ、その孤独と辛さを僕は知っています。だからその歩みに対する慰労の気持ちがあって、それでこの場が持たれました。

その位置に立つと誰かに頼ることは出来なくなります。支えになるのは自分自身のこの道に対する覚悟だけです。自分で生き方を確立し、それを自分に伝えていく。自問自答しかないのです。

☆彡 ☆彡 ☆彡

この道は言ってみれば、自己否定の旅だと思っています。それはもっと大きな自分、世界と一つになるための自己否定です。常に否定し続け、それが即、肯定へと変容し続けます。それは自分を手放すことが出来ることへの誇りであり、大いなるものへと自分を委ねる覚悟となります。

この道は山登りに例えられます。山のすそ野は広くどこからも登ることが出来ますが、頂上は一つ。登れば登る程、道は限られていきます。同じように、この道は究めれば究める程、道は狭くなり、今まで良かったことも駄目となり、自らの選択はどんどん限られていきます。

不自由の中にある自由。

一見、不自由に見える心の道ですが、それを進むことが本当の自由への道です。

なんでもいいけど道は一つ。

そんな感じです。

多くの人は自分の想いのままに行動することが自由だと思っています。ですが、思い通りにことが運ぶことはほとんどありません。結果、自らの想いに翻弄され、現実の中で右往左往するのです。平和を求めて争ったり、平和のために核武装したり。人々は自らの想いに翻弄され、それが矛盾に満ちた社会を生み出しているのです。

自らの想いが何をもたらすか?

その視点がないためにこのような現実となって表れています。

自らの想いを離れ、客観的視点に基づいて高みへと進んでいく。それが本当の自由への道であり、それは予測不能の1本道、ただ出会う出来事を楽しんでいく道なのです。

ご馳走になった今週のおまかせセット。1日20食550円で提供しています。

ご馳走になったブルーベリーパフェです。


真の女性性が蘇る

7月7日は七夕でした。七夕について滝沢泰平さんは以下のように書いています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

本日は77日の七夕の日です。

すでに過ぎましたが、77日の午前1時頃に天頂付近に主要な星が上り、天の川、牽牛星、織女星の3つが最も見頃になる時間帯となっていました。

この七夕の夜(77日午前1時頃)のことを別名で「夜明けの晩」と呼ばれています。

かごめの歌にもある「夜明けの晩」といえば「鶴と亀が滑る(統べる)」

天を舞う鶴と地を這う亀の「天地一体・陰陽統合」

七夕の夜の陰陽統合といえば、七夕物語に出てくる「織姫(ベガ)」「彦星(アルタイル)」の男女であり、これは日本の引き離されて隠された神を象徴していると言われています。

織姫は「瀬織津姫(セオリツヒメ)」であり、一方の彦星(牽牛星=スサノオ[出雲王])は「饒速日(ニギハヤヒ)」という話です。



この縄文の夫婦神の統合が起こる七夕ですが、どちらかといえば、やはりメインは女性性の時代、女神の象徴である瀬織津姫。

~ 中略 ~


月の女神としても知られる瀬織津姫。

~ 中略 ~


この解放と男女の統合・和合が始まっている今、今日の七夕を境にそのエネルギーはもっと加速するように思えます。



☆彡 ☆彡 ☆彡

そして「夜明けの晩」、「女性性」については別の場所でこんなふうに書いています。

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『夜明けの晩』に本当の自分と出逢うこととは、自分がこの地球で実現させたかった真の想い・自分自身の中に眠っている未知なる才能と出逢うことを意味しています。

今回の夏至の瞬間を誰よりも待ち望んだけれど、既に魂が肉体を離れ天に戻った私の親友である先住民族の長老はこのように語っていました。

新たな時代への潮流の中で大切なことは、(それが一番良い方法だと信じて)全てを自分でやろうとするあり方(誤解)から自分自身を解き放つことだ。自分が望む結果よりも、遥かに偉大な結果へと天が導いてくれるということを信じて委ねられるか。それは、また宇宙時間への回帰の大切さを意味している。』

そのためのキーとなるのが、自らの中に「真の女性性を蘇らせる」ということだと思います。

真の女性性とは

『天の愛を受けとる在り方であり、天に導かれながら生きていくということ。』

かつて、「死」さえも天が統治して導いてくれているということを感謝と共に受け入れていた時代がありました。身体を持った「生」の時間と、身体から離れた「死」という時間を、行ったり来たりすることは、"悠久の宇宙時間"の中に在る魂にとっては何も怖いことではなかったのです。

           天下泰平ブログ・第1話「宇宙時間」より

☆彡 ☆彡 ☆彡

ここで話しは変わって。

7月4日、僕は3年半ぶりに実家に帰りました。そこで1枚の写真を見つけました。
それは2000年12月23日に僕が創った箱庭の写真です。

2000年12月23日に作成した箱庭です。


この箱庭を創った時はちょっとしたトランス状態になっていて、この箱庭は、心の奥底から自分を出し切ったものとなっています。

箱庭の右下では、男性と女性が対面しているのですが、間には4頭の恐竜がいて、今にも戦おうとしています。陰陽統合、男性と女性が出会うためには争う恐竜を超えていく必要があるのです。

恐竜は進化の段階では哺乳類以前であり、大脳新皮質は発達していません。本能的な感情、情動を司る大脳辺緑系が中心となります。つまり、恐竜は本能的な感情や情動を表していて、それを超えた時に初めて陰陽の統合は生まれるのです。

僕の中にはずっと強い情動がありました。あまりにも強くそれが自分のすべてのように感じたこともあります。それがなければ生きる意味がない。それに従うことが本当の自分を生きること。そんなふうに感じ、それに従って生きようと決意をしたこともあります。その結果、情動に翻弄され、様々な場面で人生を台無しにして来ました(「あなたの未熟もみんなに役立つ」参照)。

この箱庭を創った時も、僕は情動に価値を置いていました。

情動に従うことで陰陽の統合が実現する。

当時はそんなふうに、箱庭を自分に都合よく解釈していたのです。想いが強すぎると世界がその色に染まり、それに従うのが流れのようにも見えるものです。自分の視点を超えることの難しさがそこにはあります。ですが、天は常に相応しい結果を与えてくれます。今までの人生で生じた滞りは陰陽統合へと導く天からの愛なのです。

箱庭を創ってから17年。

箱庭の本当の意味に従い感情や情動を超える時が来ました。

7月9日、13時07分。山羊座の満月です。

7月9日午前1時頃のお月様です
僕が生まれた時、月は山羊座にありました(満月ではありませんが・・・)。
その山羊座での満月です。

山羊座は結果、目標達成を表します。(「結果を出す山羊座の満月」参照)。

僕の中で真の女性性が蘇りました。

それは宇宙時間を生きるということであり、感情や情動、思惑を超えて、ただ出会う出来事を楽しんでいくということです。

ここでまたまた話しは変わって。

7月7日、陰陽統合を表す七夕の日。核兵器禁止条約が採択されました。それは女性性が蘇る時代の流れに沿ったものと言えます。ですが、核保有国や日本は交渉会議に参加しませんでした。日本政府は条約に署名をしない意向を表明していますが、署名の邪魔をしているのは恐怖や疑心であり、それに基づく思惑、核の抑止力という考えです。

真の女性性は、死さえも感謝と共に受け入れ、すべてを天に委ねるものです。一人ひとり、そして社会がそんな姿勢を育む時、疑心暗鬼や核兵器はなくなり、人類の未来に希望が生まれることでしょう。

僕の中で、真の女性性は今、蘇っています。

それは2004年にハワイ島で描いた本当の自分を生きるということでもあります

2004年に描いた本当の自分=ボディマップ

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