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ティク・ナット・ハンの病と木の花ファミリーの暮らしとお金

ティク・ナット・ハンはベトナム出身の禅僧です。「行動する仏教(Engaged Buddhism)」の命名者で、ベトナム反戦運動を非暴力で貫きました。南軍北軍分け隔てなく両方の兵士を助けることで、両軍から誤解され、命を狙われるというシビアな状況に陥り、ティク・ナット・ハンは亡命を余儀なくされますが、仲間は非暴力を貫き両軍を助け続けたようです。1967年にはキング牧師の推薦でノーベル平和賞候補にもなっています。
現在は南フランスにあるプラムビレッジで暮らしています。そして、気づきの瞑想を実践し世の中に広げています。呼吸と共にあること、呼吸に意識を向けることを大切にしています。

ティク・ナット・ハンは次の時代の仏陀について以下のように述べています。

次の仏陀は人間の姿で現れることはないだろう。次の仏陀はコミュニティの姿で現れるかもしれない。それは他者を理解しようと努め、互いに慈しむ優しさを持ち、大事なことを常に意識しながら、人々が暮らすコミュニティである。これこそ地球の命をつなぐために私たちにできる、最も大事なことではないだろうか

ティク・ナット・ハンは今、プラムビレッジというコミュニティで暮らしています。それは次の時代の仏陀を現わすための実践なのでしょう。そして、それは木の花ファミリーも同様です。上記の言葉は木の花ファミリーが目指し実践していることを現わしています。そのため僕たちはティク・ナット・ハンの存在にずっと親しみを感じていました。

そのティク・ナット・ハンは現在、脳内出血のため入院中で厳しい状態にあるようです。プラムビレッジの僧侶は、マインドフルネス(気づき)の実践(一人一人が目覚めること)により、ティク・ナット・ハンにエネルギーを送って欲しいと求めています。そして、私たちはみんな、一つの大きな身体の細胞なのだから、この瞬間、一人一人が安定し、平和な心で過ごすことが、ティク・ナット・ハンへの一番の支えになると続けています。

一人一人が目覚めることが、お互いを支え合うことになり、遠く離れた人たちにもそのエネルギーは届いていく。心が通じ合っていれば、離れていてもお互いの思いや行動がシンクロしていく。この世界はそのように出来ているのです。

木の花ファミリーでは今、いさどんやようこちゃん、みちよちゃん、まゆちゃんがインドに出張しています。いさどんという精神的支柱がいない中、自分たちでどこまで場を創っていけるのか?また物理的な距離を超えてどこまで心をシンクロさせることが出来るのか?つまり、一つの大きな身体を現わすための実践の機会となりました。

ですが、それは僕たちがまだまだ心の解放や洞察が足りていないという現状を再確認する機会となりました。みんなの思いが響きあわず、なかなか良い場が創れない日が続きました。どうすればよいか?そんなことを模索する日々でした。そんな中、11月26日の大人ミーティングは繋がりを実感出来る時間となりました。



11月26日大人ミーティング後の写真
この日は、ケア滞在者の心のシェアや「僕といさどんと木の花ファミリー」を共有することで、メンバーの中で感動が響きとなって人から人へと伝わっていく時間となりました。そして「繋がること」の大切さを確認し合う時間となりました。そこに別室で書道をしていたまっちゃんが戻ってきました。まっちゃんはなかなか納得がいく作品が書けずにいましたが、とうとう書けたと言うのです。そして、「繋がり」の大切さに気づいたとシェアしました。一文字一文字は上手に書けていたのに、全体としてみたらしっくり来ない。そんな作品を何度が書く中で、字と字との繋がりの大切さに気づいたというのです。そして、それを意識して字を書いた時、心の底から納得がいく作品が出来たのです。まっちゃんの感動がその作品に入り、その作品がみんなを感動させていきました。こんなふうにしてみんなの心が一つになった時、今度はインドにいるようこちゃんからメールが届きました。それは「28日に木の花に帰った時、みんなと心を一つにして迎えたい」とい内容でその場で起きていることとまさに一致していました。「すご~い!」とみんなで感動を共有することが出来ました。

大切なのは、感動する出来事から、それを生んだ要素を学び、持続していくことです。その点はまだ不十分で27日は課題を再確認する時間となりました。

そして、今日、インドからみんなが帰ってきます。大きく成長し大きなうねりを持ってくることは間違いありません。そのうねりに乗れるように。これからが本番で、とっても楽しみです。

この僕たちのエネルギーはティク・ナット・ハンにも届いていくことでしょう。


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こんなふうに心は物理的距離を超えて人と人とを繋いでいき、みんなで一つの身体を表現することを可能とします。それは「木の花ファミリーで金庫番になって・・・・」で描いている世界です。この中で僕はお金を血液と表現していますが、お金は心と同じ機能を持っています。お金は時空を超えて存在し、知らない人同士の交渉を成立させることが出来ます。

「金(かね)」

カタカムナで見ると、「か」はこの世界に遍満する微細な見えないエネルギーです。そして「ね」は「根(ね)」、根源のもの、無限に広がる思念です。つまり「金(かね)」とは、この世界に時空を超えて無限に遍満している微細なエネルギーのことを現わしています。

お金とは何か?

この問いについては、お金とは何か?~「自分のお金」と「みんなのお金」~で書いていますが、
またあらためて別の角度からも書いてみたいと思っています。


すべては自分を映す鏡

天然循環経済学への系譜/二宮尊徳と大原幽学 を読んだ森野さんからメールをいただきました。以下、そのメールを紹介しますね。

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学生時代、ひょんなことで農業経済の教室に出入りすることになったのがきっかけで、農業やその歴史に関心を持ち来ることなっちゃいましたが、専門的な研究をするというよりか、もう少しじぶんに内在する不分明な気持ちに近いところで暇をみながら楽しみ半分で読書したりしてきただけで、あまり語ることもしませんでした。

ましてや、金融再編でいまはなき相互銀行業界で活躍された大内健二さんは、『虜囚』という著作のなかで、

どうも日本人は同じ日本人の言ったことには目をくれない癖がある輸入ものは粗悪品でも上等品だという外国崇拝の考え方が残っている」

と、書かれていますが、それはいつの時代でもそうらしいので、農学や農業の歴史に登場する人物の思想や実践は趣味の範囲にとどめおこうと考えてきたわけです。

それに、ぼくの生まれたのは、かつて那須烏山藩の相模の国の飛び地で、那須烏山で尊徳仕法を手がけて領民を救済した円応和尚らがそこでも仕法を実施しようとし病に倒れることになる(円応を失った尊徳の悲しみはたいそうなものであったそうですが)場所で、阿夫利嶺を望むところでした。尊徳の生地、栢山(かやま)のある足柄平野とは箱根、足柄、丹沢の三方に山をみる地ですが、違う方向から同じ山嶺を望む場所でしたので、どことなく親しみがあり、皮膚感覚的なレベルでの関心でもありました。

最近、少しそういう方面のこともツイしゃべっちゃうようになり、歳のせいかな(笑)。

かつての思想や実践に尋ねる場合、人々は、それを鏡にして自分を写しているんですね。尊徳なら尊徳という鏡にじぶんを写している。

尊徳の一元相対の思想は、戦前なら日本主義的な方向から一生懸命読まれた。敗戦後は民主報徳です。時代時代で、その鏡に写す人は変わり、映る姿も変わるようです。

近世の経済論で有名な、平田篤胤の学統に属する佐藤信淵など、かつては、例えば、羽仁五郎がそこに独自の社会主義があるとして喜んだり、大川周明が、近代を乗り越えた戦時統制経済の預言者と読んでみたり、帝国主義の先駆者だとか、古臭い封建主義だとかいう人がいたり、評価がさまざまというよりは、そこにじぶんを写す人の数だけ佐藤信淵がいたということにすぎないのでしょう。

東アジアの風土で育まれた農法・農業という鏡に外国の方々が自らを写してみて、その姿に「パーマカルチャー」なんて言ってきたのは微笑ましいですね。

じぶんを写して見る鏡はたくさんあったほうがいい。なにしろじぶんというものが最大の謎で課題であるかもしれないですから。たやすくなにかに心酔しがちな精神を昨今、よくみかける気もしますし。

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森野さんからメールからいただくと、そこには自分にあまり馴染みのない言葉があり、思索を巡らすきっかけとなります。


相互銀行という言葉から、無尽会社、そして無尽へと日本の金融の歴史へと思索は巡ります。
無尽とは日本の金融の一形態で、人々や法人が無尽講(むじんこう)もしくは頼母子講(たのもしこう)と呼ばれる相互扶助組織に加入します。そして、加入した人々は、組織に一定額の払い込みをし、その組織の規定に基づいた給付を受けます。日本では鎌倉時代からあるという無尽ですが、明治以後、営業を目的として無尽業者が発生し規模の拡大に伴い、1915年の無尽業法の制定、1951年の相互銀行法の制定と進んでいきました。その後、相互銀行は、相互掛金という独自の金融商品を扱いましたが、1968年の金融機関の合併及び転換に関する法律を受けて、ほとんどの相互銀行は、普通銀行となり、1992年には相互銀行法は廃止されています。
相互銀行はなくなりましたが、沖縄の模合(もあい)など機能している無尽もあり、金融機関から融資を受けられない社会的弱者に対する扶助としても機能しているようです。

無尽には、個人のお金をみんなのお金へ変換する機能があり、人々を繋がる機能があるように思えます。ですが、沖縄以外の多くの地域では衰退してしまっているようです。そこには人々の仲間意識や共有意識などが関係しているのではないかと思います。人の心がシステムを生み出し、心が変わればシステムも変わるものです。相互扶助のシステムが衰退するのは、人々の中でその意識が弱まっていたからだと思われます。日本全体で一人一人がそんな自分たちの心について振り返ることが大切で、木の花ファミリーの暮らしはそんな実践の一つです。

二宮尊徳は宇宙の万物は混沌とした一つの根元に起源し、相対する各々の事象は、独立の存在ではなく、相関連して一つの円相をなすと考えました。相対的に見えるこの世界も、元を辿れば一つとなります。この考えは、木の花ファミリーの世界観、そして昨年出会い学びを深めているカタカムナの世界観とも共通するものです。この世界観に基づき、数多くの農村の復興を果たしたことに素晴らしさを感じますが、大切なのはやはり精神性のようです。
高平市民館福島県南相馬市)のバーチャル報徳講座に「なぜ報徳仕法が続かないのか」という文章が掲載されています。至誠・勤労・分度・推譲。天の意志に従って日常生活を送り、無駄をなくし、余剰分は人に分け与えていく。尊徳が勧める道徳的態度を第一の目標にすることが大切で、それが出来ていないと、経済が豊かになると共に報徳仕法は廃れていくようです。信仰心がとても重要となります。上記の文章では、信仰に基づいて生きている例としてアーミッシュが挙げられていて、とても心に残りました。
どんな暮らしも世界観から切り離れてしまうと、抜け殻のようになってしまうのだと思います。木の花ファミリーの暮らしも、暮らしを維持することが目的なのではなく、世界観を暮らしの中で表現することを目的としています。そして、一人一人が自分を見つめ、心を磨いていくのです。

いろいろ書いて来ましたが、ここで書いていることは、森野さんのいうように僕を映す鏡なのだと思います。起きること、出会うこと、そのすべては自分を映す鏡と言えるでしょう。

鏡については、木の花ファミリーの創立メンバーの一人、古田偉佐美(通称:いさどん)は以下のような話しをみんなにしてくれています。


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鏡は神社の奥に祀られているご神体です。すべての人はお互いを映し合う鏡です。ということは、すべての人がご神体ということです。「鏡(かがみ)」という字は真ん中に「我(が)」という字が入っていますが、この「我(が)」を取ると「神(かみ)」となります。相手に映る自分の姿を見て自分の「我(が)」を知ることが出来ます。「我(が)」を知ると、それを取り除くことも出来るようになります。心を磨き「我(が)」を取り除くと「神(かみ)」となり、そこには宇宙の秩序が映るようになります。内なる鏡に宇宙の秩序を映し合う時、すべては繋がり一つになっていくのです。

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鏡(心鏡)は太陽を象徴していると言われています。
すべては一人一人を映し出す鏡です。語る言葉はその人自身を現わしています。そして、一人一人の人間は主観を持ちます。相対主義の立場からすると、このことから絶対的な真理はないという結論に至るかと思います。ですが、「鏡(かがみ)」は「我(が)」を取ると「神(かみ)」となります。「神(かみ)」となった「鏡(かがみ)」が映し出す世界は、現象世界の背後にある絶対的真理を映し出します。二宮尊徳もカタカムナも木の花ファミリーもそんな世界観を持っています。
大切なのは、今、この瞬間何を感じ、どんな判断を下していくかにあると思います。その際、歴史を振り返っておくと、現在を俯瞰してみることが出来るようになります。過去から未来に向けての大いなる流れ。それを感じることが出来るようになるのです。


10月に開催された木の花塾で語っているいさどん

カタカムナの潜象界と二宮尊徳の一元は同じことを言っていると思われます。
木の花ファミリーではその世界観を「農」に生かし天然循環法と名付けました。
そして、それを日常生活にも広げ、実践しています。
そんな話を聴きたい人は是非、11月30日に千葉市にお越しください。
出張木の花塾@千葉「すべては響き~宇宙視点の農」が開催されます。
今、インドに出張中の塾長いさどんがパワーアップして帰ってきます。




量的金融緩和の心と木の花ファミリーの暮らし

10月31日、日本銀行は追加の量的金融緩和を決定しました。
このことに関しては、肯定的な記事と否定的な記事、両方あるようです。
例えば、以下のような感じです。

肯定的な記事: Business journal

否定的な記事:東洋経済ONLINE

この金融緩和を受けて、日経平均株価は755円上昇し、
為替は1ドル112円まで円安が進みました。

円安が進むことで輸出産業は有利になり、
輸入原材料の値上がりにより中小企業は苦しくなる。

今まで言われてきていることです。

ここでは今回の金融緩和の是非はおいて、
それがどんな心から生まれてかを考えてみたいと思います。

デフレマインドを克服して消費が活発になることにより景気回復を図ること。
簡単に言ってしまえば、量的緩和(アベノミクス)の目的はここにあると言えます。
それは全体を考えての政策なのでしょうが、欠けている視点がいくつかあります。

まず1点目は、有限な自然環境への配慮がないこと。
次に人口が減少している現実を踏まえていないことです。
このあたりのことは、「持続可能な福祉社会」に書いているので、読んで見て下さいね。

それらに加えて、この政策には、人々の意識に対する視点が欠けています。
人々の消費を活発にすると言いますが、
その前提となっているのは「自分のために消費する人々」です。
人のため。みんなのため。そんな消費を促すような視点はありません。
一人一人がバラバラの自分のために消費していく。それは自己完結の消費です。
なので、人々の間に一体感は生まれず、
国家予算に対してもみんなのお金という感じが生まれません。

一人一人が自分の消費の先にあるものを意識すること。
それは繋がりの感覚をもたらし、人々の意識の転換を促します。
この意識の転換が今後もっとも重要になってくると思います。
量的金融緩和では決して育てることが出来ない心。
そんな心を木の花ファミリーでは、日々の生活を通して育てていっています。

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その木の花ファミリーでは今日、出航祈念祭という神事が行われました。


11月3日の朝の富士山です。
11月15日。木の花ファミリーメンバーのいさどん、ようこちゃん、まゆちゃんは、親しい友人のあわちゃん、じゅんぞうと共にインドに旅立ちます。
そして、GENOAの総会に出席するためにすでにインド入りしている道代ちゃんと合流し、
ハルトラビレッジやオーロビルを訪れます。
※道代ちゃんは今回を最後にGENOAの代表を降りる予定で最後の役割です。




この旅の安全、成功を祈って開催された祭りですが、それは精神的な意味では、この暮らしの意味・大切さを世界に広がるための船出を祝うものでもありました。
※天教山(富士山)より地教山(ヒマラヤ)への旅となっています。

神祭式の様子

暮らしの中で行われる神事は、カタカムナで言う潜象会(ない世界)へ意識を向けることであり、大いなる意思の流れを生活に呼び込むことになります。

僕たちはみんな大いなる意思の流れの元に生を受けています。
それを思い出すことはすべての存在との繋がりを回復することになります。
こんな意識を育むことで、すべてのお金はみんなのお金になって、ただ循環するだけになっていきます。
その時は、格差も貧困もきっとなくなっているでしょう。

そんな日が訪れることを信じて、僕らは淡々とカタカムナを取り入れた日々を送っています。
以下、お祭りの写真を何枚かお届けします。


花の舞


榊鬼


三つ舞


獅子舞


みろくの世


祈念祭後の空


みんなで記念撮影


みんなでお祈りです。


乾杯しています。



お金とは何か?~「自分のお金」と「みんなのお金」~

先日、長期滞在をしているワケあり女さんからこんな言葉を貰った。

「木の花ファミリーは知れば知るほど奥が深く、
さらに奥があることにびっくりさせられます。
私はずっと木の花のメンバーもお小遣いを貰っていて、
それを自由に使っているのだと思っていたのだけれども、
全くお小遣いはないのですね。
みんな必要な時になかのんからお金を貰って使っているのですね。
それはとってもびっくりすることでした。」

木の花ファミリーのメンバーは一人一人、自分名義の通帳(お金)を持っています。
それは個人のお金であり、好きに使おうと思えば使うことが出来ます。
ですが、僕たちは、それを自らの意志でみんなのものと見なしています。

僕たちにとって個人のお金を使っても全体のお金を使っても、結局は同じことです。
すべてがみんなのお金なので。
ですが、個人個人が自分のお金を使い始めると、
コミュニティ全体のお金の流れを把握するのが困難になります。
なので、僕たちは、全体のお金から支出をするようにしているのです。

※ここで言う全体のお金とはみんなから一定の金額を集めた生活費のことです。

「自分のお金」と考えることは、人と自分を切り離すことに繋がるのではないでしょうか?
城南信用金庫の吉原毅さんは「お金は個人主義が生み出した最大の幻想。」と述べています。
そして、お金の三大機能について以下のように語ります。

交換機能 → あなたと私は主体が別だ。
価値保存機能 → あなたにはあげないで自分で貯め込む
価値尺度機能 → 物事は自分を中心として一元的な価値で合理的に判断できる

そのため、お金は持てば持つほど孤独になるというのです。

ですが、僕たちはお金を「みんなのお金」と考えています。

僕たちはお金を持つことでメンバーとの繋がりを感じます。
そして、それを社会に還元することで社会との繋がりも感じます。
「みんなのお金」と考えることで、人と繋がっていけるのです。

物々交換から考えるお金の役割で書いたように、
循環の補助こそがお金の一番の役割なのです。

それは交易の歴史からも伺えることです。

栗本慎一郎氏の『経済人類学』には沈黙交易についての記述があります。

沈黙交易は、お互いに接触をせずに交互に品物を置き、
双方が相手の品物に満足した時に成立します。

原始経済社会の時代、共同体外部は異人の住むところであり、
畏敬の念を持っていました。

交易の成立は、その異人との間に平和が成立したことを意味するのです。

クラというトロブリアンド諸島の交易ネットワークがあります。
人々は、隣の島の人々とクラを行うために、
カヌーの船団を組織し、危険な航海を成功させます。
そこでは、白い貝の腕輪を反時計周り、赤い貝の飾りを時計周りに
財の交換がなされていきます。


クラ交易用首飾り
クラは「交換のネットワーク」であると同時に、
信仰や儀礼、神話や物語、信頼や名誉などが
埋め込まれた複雑な関係であり、人々を結びつけているのです。

交易は物々交換です。
ですが、その物々交換はモノの必要性から生まれたのではなく、
共同体外部との交流手段だったのです。
お金はこの延長に生み出されます。

人と繋がっていくこと。それが人の一番根源にある望みであり、
原動力です。
そして、物々交換、お金はその補助の役割をしていたのです。




日本のお金は日本を循環し日本を豊かにする。
世界のお金は世界を循環し世界を豊かにする。

その視点を得ることが出来た時、「自分のお金」は必要なくなります。
あるのは「みんなのお金」だけです。

「みんなのお金」は人と人を繋げて、みんなを豊かにしていきます。
そんな世界を実現している木の花ファミリー。
この暮らしが広がることを願い、僕たちは淡々と生活しています。






物々交換から考えるお金の役割

木の花ファミリーで暮らし始める前、僕は、神奈川県の藤野にあるパーマカルチャーセンタージャパン(PCCJ)に1年間通っていました。

パーマカルチャーとは、1970年代にオーストラリアで生まれた学問で、
パーマネント(permanent 永久の)とアグリカルチャー(agriculture 農業)をつづめたものですが、同時にパーマネントとカルチャー(文化)の縮約形でもあります。

土を大切にした永続可能な農業を基盤として持続可能な文化を生み出すためのデザイン体系です。

当時、PCCJで出会った友人、みっちーとのぞーるは今、
山梨県牧丘市で百姓をしています。(豆の樹の家

彼らは減農薬、無化学肥料でとても美味しいブドウ(巨峰)を育てています。
その巨峰が昨日贈られてきて、今日の夕飯の食卓に並びました。







みずみずしく甘いブドウ。子どもたちも喜んで食べていました。




みっちーとのぞーるは毎年、僕らに巨峰を贈ってくれます。
彼らの巨峰は僕たちの食卓に喜びを与えてくれます。

僕らはそのお礼に毎年、新米を贈っています。

木の花ファミリーと豆の樹の家は、毎年、巨峰とお米の物々交換をしています。
それはモノを贈り合っているだけではなく、心の交流でもあり、お互い暖かい気持ちになります。
こうしてモノと一緒に心が人々の間で循環していきます。

必要なものが循環し、心の交流があるところではお金は必要ありません。

交換の手段、価値の尺度、保存機能。

これらはお金の機能と呼ばれていますが、
それらは本質的な役割ではないと僕は思っています。

循環の補佐。

それこそがお金の大切な役割です。

特定の物質に依存せず、腐ることもないお金は時空を超えて存在し続けることが出来ます。
それは時空を超えて人と人を繋げることが出来るのです。

巨峰とお米の交換を通した心と心の交流。
そのような心と心の交流が世界中の人々と可能となるように。
過去や未来の人々と可能となるように。

お金はそのために存在していると僕は思っています。


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