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木の花の暮らしについて書いた記事

木の花ファミリーの暮らしとは・・・・

木の花ファミリーでは9月10日に稲刈り神事が行われ、13日に新米をみんなで食しました。人は自然の恵み、お米という命をいただき自分の命を次へと繋げていきます。それは自然の大いなるサイクルの一部となることであり、そこに意識を向けることで自分の心は大いなる循環へと開かれ自然と一つになっていくのです。

人は自然や他者に生かされているのです。

木の花ファミリーではそのような心を大切に育んでいます。
それではそのメンバーになるとはどういうことでしょうか?

木の花ファミリーメンバーになるということは自我(エゴ)を超える道を歩むことです。今、多くの人は自我の赴くままに暮らしているので、自我を意識することはあまりありません。ですが自我を「超える」と決めることにより、その人の自我は浮き彫りになります。浮き彫りになることで自分と向き合うことになるのです。

行動基準~死の向こうまで伴える価値を積み上げていく」に描かれているように、過去には木の花ファミリーを離れていくメンバーがいましたが、彼らはその時点では自我のままに生きることを選び、自分と向き合うことを止めました。

自我を超えることを選び、浮き彫りになった自我に苦しみ、そしてそこから離れていく。

そこには一人の人間の物語があり、彼らを知ることは人間の業の深さを知ることに繋がります。そして今、社会には様々な問題が起きていますが、そこにも人間の業の深さが現れています。これらの出来事から浮かびあがる人間性、その業の深さ。その奥に時代の流れを感じます。今の時代、人間の自我は以下のような状態にあるのです。

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我思う、故に、我あり。(コギト・エルゴ・スム)

私が存在するのは、私が思考しているから。

自分の存在基盤を自分の思考に求めたこのデカルトの言葉は、自我による自然からの独立宣言で、他者の存在なしでも自分は存在出来るという幻想を生み出しました。

自然から独立した自我は、自然をただの物質と捉え、切り刻み利用していきます。それは自我による可能性や欲の追求で、その結果、物質文明は発展しますが、自然環境は限界を迎え、人々は離れ離れとなり、自我は孤独になっていきました。

孤独となった自我は、不足感を持ち、それを埋め合わせよう努力します。不安から必要以上に求めるようにもなります。それは自然から離れた自我の生み出す矛盾です。矛盾した努力は天の法から外…

心を爆発させ個人的感情も吹き飛ばす

今年のテーマは「爆発」です。それを受けて「心を爆発させ思考の枠を吹き飛ばして(空っぽになって)いく」と書いた時、2年前の10月に書いた「空っぽへのあこがれ」を思い出しました。この記事ではいさどんがお釈迦さまに逆切れをするエピソードを紹介しています。以下、その内容を転載します。

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僕は、お釈迦さま、そして神さまに出会い、道理を伝えられてきました。
お釈迦さまが語られるのは仏道、道なのですよね。
プロセスをずっと見ていく客観視点を育てられます。

そうすると自分の感情が苛立っている状態を観なければいけなくなります。
普通の人は感情が出てくると、感情のままに出して、
それを主張することが自由だったり束縛されていない状態と思ったりしています。
ところが、僕にはもう一つの目線がありました。
それも強制的に示される目線です。
そちらの方から「お前の今の感情はこうだぞ」と言われると、
僕みたいな道理人間、理屈人間は理屈で負けてしまうのです。

それでどうするかというと、僕は理に叶った方に行こうとします。
自分の主張が愚かであっても、そこに執着したい自分がいますが、
理に適った方に行かなければなりません。
そのように、そちらを選べば選ぶ程、情がわいている自分を否定することになります。
理に適った方を選んでは自分を否定していく。
その繰り返しになりますが、その覚悟が出来ていないとだんだん辛くなるのです。

そこで「俺はつらいんだー」となって爆発したことがありました。
そうすると、お釈迦さまは「それなら止めるか?」と尋ねてきました。
「なんてひどい薄情なことをいうの?あなたは」と思いました。

そこでまた道理を考えました。
僕が執着して道を歩むことに辛い想いをしていることに対して、
そのまま執着して進むことは、その道を外れるということになります。
止めるか?という話に乗るのもこの道を外れることになります。
どちらの自分も認めることが出来ません。

道理のところに行くことによってのみ楽になれる。
自分で自分を本当に意味で認めることが出来るのです。

認めたくない自分に執着をしてそのままで行こうとしますが、
それはすごいバカなことをやっているのです。
それでも執着している時はつらいものです。

僕はその想いを怒りに変え、伝えました。

「何を言っているのですか。止めるわけがないではないですか。
これを知らずにいかない人は世の中に沢山いますが、
一度、これを知って行かないものがいるでしょうか?
絶対やめない。見ておれ。やめんから。」

逆切れしたのですよね。

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思考の枠組みだけではなく、個人的な感情も爆発によって吹き飛ばしていくのです。

執着や強欲、嫉妬などの感情は我欲から生まれるものであり、個人的なものです。道を求めるならば、これらの感情は吹き飛ばしていく必要があります。吹き飛ばして空っぽになっていくのです。その一方、崇高なものを求める感情、人と共にあることを喜ぶ感情、人の幸せを喜ぶ感情など。これらの感情は理に適ったものであり人を幸せにしていきます。心を爆発させ空っぽになっても器は残ります。空っぽになった器には新しいものが沢山入ってきます。その時、自然に湧き上がる感情やインスピレーションは天からのものであり、世界と人を幸せに導いていくのです。

心を爆発させ空っぽになっていく。それは自分を克服することです。

サティシュ・クマールさんの『君あり、故に我あり』の中でイスラムの思想家マウラーナー・ワヒドゥディン・カーン氏は聖戦(ジハード)とは葛藤なのだと言っています。以下、その言葉を要約します。

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我々の敵とは誰か?
それは欲望、貪欲、自己中心。
勝利とはこれら心にうちに秘められた敵に対する勝利。
絶え間なく続く自我との戦い(葛藤)。
それが聖戦であり、それは非暴力へと繋がっていきます。
非暴力は偉大であり、非暴力の実践はどんな時も人生に祝福をもたらします。

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例えば、世界平和など崇高な志を持っていたとしても、虚栄心や嫉妬心など個人的欲望に負けてしまっていたら、その志は個人の欲望を叶える手段となっていくでしょう。

元日からトルコのイスタンブールで銃の乱射により39名が死亡するテロ事件が起きました。イスラム過激派によるテロ事件は世界中で多発していますが、彼らは自爆テロに聖戦という言葉を使っています。聖戦という言葉から崇高な志を感じさせますが、個人的欲望に負けてしまっているため暴力的な存在になってしまっているのでしょう。

崇高な志が個人的な欲望に負けている。それはアメリカや日本にも当て嵌まるのではないでしょうか?アメリカや日本が平和という言葉を使う時、それは自国の利益に基づく平和のことであり、それにより抑圧される人々のことは意識されていません。そして、それは国民一人ひとりが日常の中で個人的欲望を克服していないことの顕れなのです。

我欲は個人を際立たせることにより、人々を切り離し、その結果、世界に分断をもたらします。それが今の世界の姿であり、自分の姿でもあるのです。だから今、心を爆発させ空っぽをするのです。空っぽになった心に理に適った感情や高い志を育んでいくのです。木の花ファミリーの生活はみんなで共に暮らすことにより乗り越えるべき自我を浮き彫りにしその取り組みを加速させます。つまりは人を幸せに導く暮らしなのです(^-^)

最後にそんな木の花ファミリーのお正月の様子を写真でお伝えしますね。


アメリカの学生さんたち20名を迎え、ウェルカムコンサートをしています。


おせち料理。2日の夕食です。

2日の夕食です。
3日の昼食はお餅つきでした。

3日の夕食。ゲストで来ているマイケルの誕生日を祝っています。



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