みんながみんなの真ん中で溶けていく

僕の机の前には電話が置いてあります。僕は学校事務職員時代から電話が鳴るとぱっと反応する習慣があり、お金を数えている途中でも電話に出てしまうことがあります。そういう時は、電話を取り次いだ後、お金を一から数え直すことになります。

それだけならまだいいのですが、時には人を探しにいくように頼まれる時があります。そういう時は、一度お金を片づけてから探しに行くので、仕事に大きなロスが発生することになります。

僕の仕事のロスはみんなのロスです。なので、状況に応じて電話に出るまでに少し時間をおくように心掛けています。時間をおくと、他の人が電話を取ります。その時、その電話が僕宛だったりしたら、「はずした!」と思うわけです。相手の人を無駄に待たせて、他の人が電話を取り次ぐ手間も発生しているので。こういう時、天と呼吸があっていない自分を知ります。

電話のベルは常に天からのお試しです。それをどう判断しどう応じるか?これは天との呼吸合わせ。天は身近なところから僕と遊んでくれています。それに気付けば、なんでもない日常に鮮やかな彩りを見出すことが出来るのです。

この世界のものはすべて同じ法則の下、天から生み出されています。その中で特別に与えられた自分という意識。それは恩寵でもあり牢獄でもあります。自分に囚われていたら、広い世界を自分の中に閉じ込めてしまいますが、自分を超えたら、この世界のすべてを天からのメッセージとして認識することが出来るのです。するとすべての瞬間が祝福へと変化します。

ところで、1月28日は水瓶座の新月、旧暦の正月であり、すべての惑星が順行していました(詳しくは天下泰平ブログ「すべての惑星が応援してくれる水瓶座新月と2017年の本番」を参照して下さい)。天体の節目の日である1月28日、木の花ファミリーでは富士浅間木の花祭りが開催されました。新しい宣言をするに相応しい日に行われた地球のお祭り。そこにはとっても大きな意味があると思っています。
※富士浅間木の花祭りは立春前の土曜日に行われます。新月に行われたのはたまたまです。

木の花祭りは今年で5年目になりますが、昨年の木の花祭り後、僕は以下のような文章を書いていました。


☆彡 ☆彡 ☆彡

鬼の心を育む」に書いているように、木の花祭りで僕は鬼の役割をいただいています。
鬼はこの世界の道理を伝える存在であり、木の花祭りでは主役となっています。
鬼が怒っているのは、相手の心が汚れているからであり、鬼はそれを教えてくれているのです。
日々の生活の中で湧き上がる自分優先の心や気持ち、余計な感情。
自らが鬼になることによりそれらと向き合い当日を迎えました。

鬼の舞ではアップテンポで舞い踊るシーンがあるのですが、
頭を空っぽにして身体の力を抜いて、太鼓や笛の音、
みんなの掛け声に身を委ねると楽に動くことが出来ます。
それがただただ心地よいのです。

ずっと動き続けることが出来る。

そんなふうに思えました。

ところで、僕は昨日、ある人から以下のメッセージをいただきました。


- - -

この世界に降りてくる前に、神さまはあなたに3つの名前を用意していました。
3つの中で真ん中にあったものが「善文」であなたはそれを選んできたのです。
それは正解でした。

善悪の善。善が先に来ます。だけれども少し間違えると悪にもなります。
そのことを心に留めておくことです。

そして、あなたは「中野」の性を選んで両親のところに来ました。
真ん中の「中」。そして野原の「野」。山ではなく広く広がる野原なのです。

みんなの中の「なかのん」

みんなの真ん中でしっかりと固めていくのです。

中(なか)を守るのです。

でも目立つ必要はないのです。
目立つのではなく深く深く沈みこんでいく。
奥で自分を広げて固めていくのです。


- - -

僕はずっとどちらかというと端っこにいることを好んで来ました。
あんまり自分が真ん中にいるという意識を持ったことはありません。
その意識を転換させる時が来ているのだなと感じています。

真善美を兼ね備えた人間になっていく。
その誓いとして真ん中の字をとって「善(よし)」と付け、
そして卯年の守り本尊である文殊菩薩から字をいただき「文(ふみ)」と付ける。
※僕は卯年生まれです。

これは僕が勝手に創っていた名前の由来ですが、
「善」は真善美の真ん中の字となっているのです。

僕はみんなの真ん中を生きる。

でもそれは目立つことでも際立つことでもなく、みんなの中に溶けていくことなのだと思います。
目立とうとすると、きっとすぐに偽悪醜の方へと転げ落ちていくことでしょう。

鬼の舞にて、太鼓や笛、みんなの掛け声と溶け合っていったように、
日々、みんなの心の中で溶け合っていくことが大切なのだと思います。

溶けていく。その中で天と繋がり柱も立てていく。

これからそんなふうに変化していきます。




☆彡 ☆彡 ☆彡

木の花祭りは、日常が凝縮して現れる場。みんなの真ん中で溶けていく場です。今年もそんなふうに祭りを楽しみました。

みんなの真ん中で生きる。それは僕だけではなく誰にとっても当て嵌まることなのだと思います。みんな天から生み出された存在であり、天そのものです。すべてが天。ならば、すべての存在はいつも世界の真ん中にあるのです。自我で生きると真ん中で際立ちます。そしていつの間にかそれが端っこになっていく。自我を超えて自らを溶かしていけば、みんながみんなの真ん中になっていくのです。

木の花祭りでもそれぞれの人がそれぞれの役割を担い、全体の中に溶けていきました。みんなが主役となって、そして全体の中に溶けていって大きなうねりとなっていきました。

でもそれは祭りだけでなく日常のすべての場面がそうなのです。電話のベルのように天は常に僕たちと遊んで下さっています。天はこの世界に遍満すると同時にこの世界の中心でもあります。つまり僕らは常に世界の真ん中と共にあるということです。

鬼の心を育むのも同様です。鬼の心とは道理に従い道理を伝えていくこと。祭りに合わせて鬼の心を育むのではなく、毎日の生活の中で、天との遊びの中で、常に鬼の心を育み続けていけるのです。

木の花祭りは過去から未来へと続く物語の中での一つのアクセント。それは毎年開催され日常の中に溶け込んでいきます。みんながみんなの真ん中で溶けて一つのうねりを生み出していく。それは分断が進むこの世界を一つに溶かしていく希望の光となっていくことでしょう。それがささやかなものであったとしても。僕らは喜びと誇りを広げていきます(^-^)


木の花祭りクライマックスの湯ばやしの様子です。

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