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木の花の暮らしについて書いた記事

木の花ファミリーの暮らしとは・・・・

木の花ファミリーでは9月10日に稲刈り神事が行われ、13日に新米をみんなで食しました。人は自然の恵み、お米という命をいただき自分の命を次へと繋げていきます。それは自然の大いなるサイクルの一部となることであり、そこに意識を向けることで自分の心は大いなる循環へと開かれ自然と一つになっていくのです。

人は自然や他者に生かされているのです。

木の花ファミリーではそのような心を大切に育んでいます。
それではそのメンバーになるとはどういうことでしょうか?

木の花ファミリーメンバーになるということは自我(エゴ)を超える道を歩むことです。今、多くの人は自我の赴くままに暮らしているので、自我を意識することはあまりありません。ですが自我を「超える」と決めることにより、その人の自我は浮き彫りになります。浮き彫りになることで自分と向き合うことになるのです。

行動基準~死の向こうまで伴える価値を積み上げていく」に描かれているように、過去には木の花ファミリーを離れていくメンバーがいましたが、彼らはその時点では自我のままに生きることを選び、自分と向き合うことを止めました。

自我を超えることを選び、浮き彫りになった自我に苦しみ、そしてそこから離れていく。

そこには一人の人間の物語があり、彼らを知ることは人間の業の深さを知ることに繋がります。そして今、社会には様々な問題が起きていますが、そこにも人間の業の深さが現れています。これらの出来事から浮かびあがる人間性、その業の深さ。その奥に時代の流れを感じます。今の時代、人間の自我は以下のような状態にあるのです。

☆彡 ☆彡 ☆彡

我思う、故に、我あり。(コギト・エルゴ・スム)

私が存在するのは、私が思考しているから。

自分の存在基盤を自分の思考に求めたこのデカルトの言葉は、自我による自然からの独立宣言で、他者の存在なしでも自分は存在出来るという幻想を生み出しました。

自然から独立した自我は、自然をただの物質と捉え、切り刻み利用していきます。それは自我による可能性や欲の追求で、その結果、物質文明は発展しますが、自然環境は限界を迎え、人々は離れ離れとなり、自我は孤独になっていきました。

孤独となった自我は、不足感を持ち、それを埋め合わせよう努力します。不安から必要以上に求めるようにもなります。それは自然から離れた自我の生み出す矛盾です。矛盾した努力は天の法から外…

みんなの真ん中で生きていく

1月30日は富士浅間木の花祭りが行われました。今年で4回目の開催です。

昨年の木の花祭りでは、思い切り踊った後疲れ果て、
その2日後インフルエンザに掛かってしまったのですが(「病をいただく」を参照)、
今年はそれほど疲れを残さず翌日も普通に起きていつものように仕事をしました。

昨年の10月からほぼ毎日、坂道を30分ぐらい散歩して、
カタカムナの5首6首を取り入れた「クニツクリ奏上」をしていました。
事前の練習も重ねていたので、心も身体も準備が出来ていたのだろなと思います。

鬼の心を育む」に書いているように、木の花祭りで僕は鬼の役割をいただいています。

「金神の舞」です。
鬼はこの世界の道理を伝える存在であり、木の花祭りでは主役となっています。
鬼が怒っているのは、相手の心が汚れているからであり、鬼はそれを教えてくれているのです。
日々の生活の中で湧き上がる自分優先の心や気持ち、余計な感情。
自らが鬼になることによりそれらと向き合い当日を迎えました。

鬼の舞ではアップテンポで舞い踊るシーンがあるのですが、
頭を空っぽにして身体の力を抜いて、太鼓や笛の音、
みんなの掛け声に身を委ねると楽に動くことが出来ます。
それがただただ心地よいのです。

ずっと動き続けることが出来る。

そんなふうに思えました。

ところで、僕は昨日、ある人から以下のメッセージをいただきました。

☆彡 ☆彡 ☆彡

この世界に降りてくる前に、神さまはあなたに3つの名前を用意していました。
3つの中で真ん中にあったものが「善文」であなたはそれを選んできたのです。
それは正解でした。

善悪の善。善が先に来ます。だけれども少し間違えると悪にもなります。
そのことを心に留めておくことです。

そして、あなたは「中野」の性を選んで両親のところに来ました。
真ん中の「中」。そして野原の「野」。山ではなく広く広がる野原なのです。

みんなの中の「なかのん」

みんなの真ん中でしっかりと固めていくのです。

中(なか)を守るのです。

でも目立つ必要はないのです。
目立つのではなく深く深く沈みこんでいく。
奥で自分を広げて固めていくのです。

☆彡 ☆彡 ☆彡

僕はずっとどちらかというと端っこにいることを好んで来ました。
あんまり自分が真ん中にいるという意識を持ったことはありません。
その意識を転換させる時が来ているのだなと感じています。

真善美を兼ね備えた人間になっていく。
その誓いとして真ん中の字をとって「善(よし)」と付け、
そして卯年の守り本尊である文殊菩薩から字をいただき「文(ふみ)」と付ける。
※僕は卯年生まれです。

これは僕が勝手に創っていた名前の由来ですが、
「善」は真善美の真ん中の字となっているのです。

僕はみんなの真ん中を生きる。

でもそれは目立つことでも際立つことでもなく、みんなの中に溶けていくことなのだと思います。
目立とうとすると、きっとすぐに偽悪醜の方へと転げ落ちていくことでしょう。

鬼の舞にて、太鼓や笛、みんなの掛け声と溶け合っていったように、
日々、みんなの心の中で溶け合っていくことが大切なのだと思います。

溶けていく。その中で天と繋がり柱も立てていく。

これからそんなふうに変化していきます。

木の花祭りでは茂吉鬼も演じ、
湯葢(ゆぶた)にある”お宝”が詰まった「蜂の巣」を払い落しましたが、
子どもたちに囲まれて、真ん中でみんなと溶け合っていくことが出来ました。
みんなが茂吉鬼を演じる僕を活かしてくれたのです。

そしてそのことが僕を変化させます。

「茂吉鬼」です。老眼のため眼鏡を貸して貰いました。


こちらも「茂吉鬼」。もう少しで蜂の巣が落とせそうです。


カタカムナの6首には「ユエヌオヲ」という節があります。

「ゆ」れて、「え」み割れて、「ぬ」れていく。

その結果、「お」=この世界全体に広がり、「を」=不必要なものをそぎ落としていく。

それはまさに木の花祭りを表しています。

みんなで舞い踊り、揺(ゆ)れ動き、みんなが微笑(え)んでいく。
そんな中、神仏が宿る湯釜の蒸気が会場を濡(ぬ)らしていきます。

それは人々の心を宇宙のへりまで広げ(=「お」)、余分なものをそぎ落としていくのです(=「を」)。

そして、それが日常へと繋がり毎日が祭りとなっていきます。

みんなの真ん中で常に揺れ動き、微笑み、濡れていく。

そして変わっていく。何も固定させずに。

頭を空っぽにして。

ただただこの道を歩みます(^-^)

そして、それは木の花祭りも同様です。

この世界の真ん中で揺れ動き、笑みを提供し、濡らしていく。
それが宇宙のへりまで広がり、余分なものをそぎ落としていく。

その繰り返しの中で世界を反映しながら変化していくのです。

うれし たのし のよろこびをもたらしながら。

頭を空っぽにして。

世界と溶け合って。

祭りのクライマックス「湯ばやし」の様子です。








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