カタカムナ文明はどこにあったのか?

雨に地球の心を感じる」で紹介した網野善彦さんの話をもう少ししたいと思います。毎日新聞の書評では網野さんの研究について以下の3点の特徴を挙げています。

(1)日本列島社会論

国号日本が出来たのは七世紀末頃から。縄文弥生の時代には、日本も日本人もいませんでした。日本列島には列島人がいるだけで、アイヌ、琉球、西国、東国、畿内など地域によって多様な社会を形成していました。近代の日本国の概念で日本史を観ることは出来ません。

(2)水田農業中心史観への批判

列島人の生業(なりわい)は稲作だけではありません。海山では漁業商業・採集があり、関東では大半が畑作でした。水田農耕が進んだ畿内が先進地で、東北、関東、九州など周縁は後進地と言うことは出来ない。

(3)海民の日本論。

日本には海山の民がいる。江戸時代の鎖国の影響により、日本列島は海で守られた孤立した完結社会との固定観念が生まれていますが、海で大陸など外界と活発に交流していました。日本国の境界を曖昧にし、地域が直接に列島外と繋がっていました。北海道産の多い昆布が沖縄で最も食べられているそうです。

網野さんは上記の問題提起により日本認識そのものを世に問うていました。日本国という国家の枠からではなく、もっと広い人類の視点から物事を見ていたのです。

これを読んだ時、カタカムナ文明のことを思い出しました。そして、それがどこにあったのか疑問になりました。地域により多様な列島社会。それらすべてにカタカムナは浸透していたのでしょうか?

8月24日、25日と木の花ファミリーではカタカムナ研究会が開催されていました。丁度良い機会だったので、僕は上記の質問を講師の芳賀さんにしてみました。芳賀さんは以下のように話してくれました。

カタカムナ講師の芳賀さん


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カタカムナ文明はアシヤ族と言われています。アシヤ(芦屋)市は、兵庫県にあります。もしくは、アシヤ(芦屋)町というのが九州の福岡県にあります。カタカムナ文明があった場所は、そのどちらかでしょうが、楢崎皐月が平十字に出会い、巻物を写し取ったのは兵庫県六甲山です。それを思うと兵庫の可能性が高いとも言えます。この地域でカタカムナ文明は発展しました。ただ、これはこの場所で8鏡文字が生み出されたということであり、カタカムナの精神、波動は広く伝わっていったと思われます。網野さんが言う通り、この時代、国家という概念はありませんでした。国家など関係なく地域毎に交易し、それによりカタカムナの精神も広がっていきます。カタカムナは中国にも伝わり、レベルダウンし老荘思想となっているのです。列島内にも当然伝わっていたのです。※ちなみに木の花ファミリーの近くにも大鹿窪遺跡という当時の遺跡があります。

余談ですが、この時代、勾玉というものがありましたが、勾玉があのような形をしているのは、重なることにより交易が成立することを示すことにありました。勾玉は最初丸い形をしていたのですが、交易の発展の中であのような形になったのです。地域と地域が国家という枠組みを超えて繋がっていたのです。

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カタカムナは宇宙物理学です。それはこの世界の発生と消滅のプロセスを表現している普遍的な法則です。カタカムナを生きる時、群れとなる(人と人が協力し調和する)必要があり、それは一つの地域での実践となります。ですが、カタカムナが実践される時、その精神は地域を超えて宇宙に広がるものなのです。

一昨年の11月、楢崎皐月さんが復活させたカタカムナに木の花ファミリーは出会いました。カタカムナを学ぶ人は増えていますが、実際に群れで暮らしているのは今のところ木の花ファミリーだけなのではないでしょうか?

カタカムナの実践は波動となり世界中に広がり宇宙へ達します。それは一人一人のエゴのより歪んだ流れを元に戻すことであり、時代の流れを促進するのです。その精神は普遍的なものであり、それを通して人は今持っている枠組みを超えていくことが出来ます。当然、国家という枠組みも超えていきます。

今の思考の枠組み、常識を超えていく。

それがカタカムナを生きるということであり、網野さんの研究の姿勢でもありました。
木の花ファミリーで暮らすことにより僕はその実践をし続けようと思っています。
その先にある未来はきっと僕の想像ははるかに超えたものです。
それがどんなものか? とっても楽しみです(^-^)

8月24日、25日に開催されたカタカムナ研究会の様子(詳細はこちら


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