天然循環する暮らし(こころ編)

天然循環の暮らし(経済)」で紹介したエントロピーの法則。

閉ざされたシステム内ではエントロピーは増え続け、エネルギーは均質になり特徴を失っていきます。ですが、外部に解放されているシステムでは、エントロピーの縮小が可能になり、エネルギーは個性を持ち強調的に振る舞いようになるのです。生命はそのようにして自らの存在を維持しています。ということは外部に無限に開かれていることが理想で、それを実現してくれるのが天の存在、無限の「ない」世界なのです。

こんな話をあわちゃん(あわりーぬ)としていると、「それは心にも当てはまるよね」というフィードバックをもらいました。そうなのです。きっと心も同じで、心を閉ざしていると、エントロピーが増大して人は無気力になっていきます。心を開いていると、外部にエントロピーは散逸させることで縮小し、人は活力に満ちていくのです。

そんなことを思っていたら、昔の文章を思い出しました。

木の花ファミリーに移住して1年が過ぎた頃、様々な滞りが続く中、自分の中に閉じこもっていく時期がありました(2010年の夏~冬)。その頃、僕のエントロピーは増大し続けていたのではないかと思います。「僕といさどんと木の花ファミリー」で書いたエピソードもその頃のものです。自分の心を開かずに閉じこもっていく。以下の文章はその頃の僕が書いたものです(2010年12月7日)。

☆彡 ☆彡 ☆彡

メッキがはがれたのだと思う。困難からは逃げて、自分の都合の良いように解釈し、嘘をつき、びくびくして、いつも自分をみんなが忘れてほしいと願う。自分は生きる資格のない人間で、本来なら死ななければならないけれど、死ぬことも許されない。だからもがき続けるだけ。そんなふうに思って生きてきた自分。
でも、ここ数年そんな思いは忘れていた。でも時々「しくしく泣いちゃう感じ」として出てきた。絶望感と無力感。僕はやり過ごしていた。
自分に別の人格を作り上げることで、最低人間の自分を超えようとしてきた。そして、超えたと思っていた。でも、今、自分が噴き出してくる。結局、僕が今までしてきたことはメッキを塗っていただけ。剥がれてくれば、最低の自分が噴き上がる。
あの苦しみはもう味わいたくない。もうこのままぼーとして無気力に生きていたい。そんな気持ちが湧き上がる。そうしたい。
でもそれはできない。僕はもうあまりにも木の花のみんなと関わりすぎた。僕の心はもうすでに僕だけのものではない。はじめからそうか。世界と僕は一つなんだから。ここでの暮らしはその事実を分かりやすくみせてくれているだけ。

僕はこの地球に対して自分ひとり分の責任を負っている。だから投げ出さない。

☆彡 ☆彡 ☆彡

心を閉ざすことで無気力になっていく。まさにそんな状態でした。

毎日嘘をつき、テストではカンニングをし、万引きをして捕まったこともある小学校時代。いつも何かに怯えていてびくびくしていました。中学校に入学する時、このままでは自分の人生はダメになると思って、「変わろう!」と決意したのをよく覚えています。嘘をつかないようにし、カンニングは止めて、万引きも当然しなくなって・・・。それからずっと「変わろう。変わろう。」と言い聞かせ、生きてきました。でも、それは本来の自分ではない別の自分を創り上げる取り組みになっていたのです。

学校の勉強には答えがあります。その答えを導きだすように思考を創り上げ組み立てていきます。同じように僕は「どんな自分であるべきか」という答えを設定し、そこに至るように思考し行動してきました。その時、本当にその時その時自分が感じていることが抜け落ちてしまっていたのです。立派に振る舞おうとしても心の奥にある絶望感や無力感が僕に影響を与え続けていました。そして、それが滞りを生み、その滞りを認めることが出来ない僕は心を閉ざしていったのです。

あれから4年以上が経過している現在。僕の中に絶望感や無力感はありません。「しくしく泣いちゃう感じ」という言葉を見て、そんな時期が確かにあったなと懐かしく感じます。

なぜ、絶望し、無力感に陥るのかと言ったら、自分の中に「あるべき自分」のイメージがあってそれと現実の自分とにギャップがあるからだと思うのです。そういう意味では絶望感や無力感は自分で創り上げているのです。でも自己イメージの延長には本当の自分はいないのです。なぜなら、本当の自分は自分の想像をはるかに超えた存在だから、そこに閉じ込めることは出来ないのです。それは価値判断(善い⇔悪い、凄い⇔ダメ、美しい⇔汚い)を超えた自由自在の存在なのです。

今の僕には「あるべき自分」のイメージはありません。ただ心を開いていればいいのだと思います。心を開いていれば、エントロピーは天に散逸し減少していきます。そして、心は活性化し僕の個性は勝手に花開いていくのです。それがどんなものかは天にお任せ。今はそんなふうに思っています。

天にエントロピーを散逸させる天然循環の暮らし。そこではすべての存在は繋がり互いに生かし合っていきます。心はみんなの中を巡り巡ります。その時、自分の心は自分だけのものではなくなり、みんなのものになっていきます。木の花ファミリーの暮らしはそんな暮らしで、その暮らしが僕を支えてくれています。心を閉ざし自分を消耗させすべてを投げ出したくなった時も、その暮らしが僕を支え、僕は踏ん張りました。そしてとても幸せな毎日を暮らしている今の自分があります。木の花ファミリーはこんな場所でこんな場所だから様々な奇跡が起きているのです。

その代表例が自然療法プログラムです。


自然療法プログラム卒業生の誕生日。みんなでお祝いをしています。


9年間原因不明の頭痛に悩み、どんな治療でも治らなかった人が、1ヶ月の滞在で頭痛が消える

統合失調症で日常のコミュニケーションもままならなかった人が、精神保健福祉士として人のために働くようになる

本気で自殺をしようと考えていた人が1時間の面談で元気になって帰って行く

上記は木の花ファミリーの自然療法プログラムの成果の一例です。千葉県船橋市で開催される出張木の花塾ではこの自然療法プログラムがテーマになっています。お近くの方は是非参加してみて下さい。そして、天然循環の暮らしが持つ力を感じてみてください。

※出張木の花塾の詳細についてはこちらをご覧ください → 5月17日出張木の花塾@船橋

ところで、ニュースではネパールでの地震が報じられています。4月の初めにはフィリピンを襲った異例のスーパー台風4号が話題になりました。昨年11月に出された国連気候変動に関する政府間パネル(IPPC)第5次報告書では温暖化について警鐘を鳴らし、温室効果ガス排出量の抜本的かつ持続的な削減が必要と報告されています。これからも様々な天変地異が起こることが想定されます。そんな中、循環型社会への取り組みや温室効果ガス排出量の削減など様々な対策が検討されています。ですが、議論は物質循環に留まっています。物質循環だけではエントロピーは増大していきます。現在の問題の解決には至らないのではないでしょうか?

必要なのは、天然循環の暮らしです。物質循環の奥にある心が天に開かれている時、それが成り立ちます。すべてを天に委ねる。その姿勢が人々に出来た時、エントロピーは縮小し想像を超える出来事が起こるのではないでしょうか?きっとこれは今、僕らが思い描く環境問題の解決を超える出来事です。それがどんなものなのか?これからの未来が楽しみです(^-^)


0 コメント:

天然循環する暮らし(経済)

4月25日、木の花ファミリーにて月に一度の食事会「恵みいただきます」が開催されました。今月は「信州手打ち蕎麦と山菜ちらし寿司」をテーマに200名以上のお客様を迎え豊かな時間を過ごしました。(当日のお客様の感想はこちら→木の花ファミリーこの話!


お客さまに提供した料理です。

毎月たくさんの準備を重ねて当日を迎える「恵みいただきます」ですが、この「恵み」の意味についていさどんは以下のように語っています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

「恵み」とは生きることそのもの。人間は何かを貰った時やご利益を得た時に「恵み」と考える傾向がありますが、人は生きることにより物事を認識していきます。その認識こそ「恵み」です。先にこの世界があり、自分という個性が組み合わさります。一人一人個性的な眼鏡でこの世界を認識していきます。人間は他の生命とは違い自由が与えられ、自己実現の願望を持ちます。そして広い視野を持ち尊く生きることも出来るし、狭い視野に陥り地獄を生きることも出来るのです。それらすべてが恵みです。

☆彡 ☆彡 ☆彡

人々の認識は初めての体験に出会うことで変化していきます。「恵みいただきます」はお客さまにそのような体験を提供することを常に目指しています。お客さまの想像を超えた料理や空間、人々の空気・・・。それは理想の世界であり未来の世界です。

思い返すと僕も、初めて木の花ファミリーを訪れてみんなと食事をした時、その料理の素晴らしさ、そして、その場の空気にとても心を動かされました。とても懐かしい感じがしましたが、それは初めての体験でもありました。魂の故郷に生まれて初めて出会った。そんな体験でした。
(※僕が食事をしたのは「恵みいただきます」ではありませんが・・・)

お客さまに多くの感動を与える木の花ファミリーの食事。それは天然生活の暮らし(経済)から生まれています。

カタカムナに出会うことによって、僕たちは自然循環と天然循環の違いを知りました。今、目指すべき社会の姿として循環型社会という概念があります。循環型社会を語る時、人々は資源の循環など物質循環に注目して語りますが、物質循環だけでは、生命エネルギーはいずれ枯渇してしまうのです。それは、熱力学の第2法則(エントロピーの法則:エネルギーは均質になっていく。熱湯+氷=ぬるま湯)に示されている事実でしょう。この状態が自然循環です。

エントロピーは増大し、エネルギーは均質になっていく(特徴がなくなり、無秩序になる)。

自然界(宇宙)はそのような法則で動いていると想定されますが、生命活動など一部の分野では、エントロピーが縮小し、複雑さを増していく(特徴を持ち、協調的に振る舞うようになる)のです。それは生命が外部にエントロピーを散逸させるからなのですが、生命はその繰り返しの中で次第に”揺らぎ”古い構造を捨て、新しい構造に変化していくのです。

生命を進化させるエントロピーの散逸。では生命はどこにエントロピーを散逸させているのでしょうか?

きっとそれが天であり、無限にエントロピーが拡大し続ける世界であり、無限の「ない」世界なのです。地球も生命です。地球も天(宇宙空間)にエントロピーを散逸させることにより成り立っています。無限の「ない」世界の支えられたエントロピーの縮小。それが天然循環です。

つまり、自然循環では世界のエントロピーは増大し、そのエネルギーは特徴をなくし無秩序になっていきます。ですが、天然循環では、世界はエントロピーを縮小し、エネルギーは個性を発揮し、協調的に振る舞うのです。

ここに今の社会の行き詰まりを解く鍵があります。

2ヶ月前の話になりますが、NHKのドキュメント72時間「金券ショップで掴む幸せは」をファミリーのみんなで観ました。番組では金券ショップに訪れる様々な人々が描かれていました。金券はいらない人から必要な人へと循環されていきますが、人々を繋ぐことはなく、人は自分の世界に閉じこもっていきます。どこか無機質な世界が展開される。これは自然循環であり人々の生きるエネルギーはいつか枯渇するのではないかと思うのです。

天然循環は天にエントロピーを散逸させます。それは人々を外に開かせ、繋がりを生み出します。循環を通して人々が繋がっていくのです。「恵みいただきます」では、自然からの恵みを収穫し、調理し、お客様に提供します。それを通して、人と人、人と自然を繋げていくのです。人々が語り合う豊かな会場がそのことを物語っています。繋がりを生み出す循環。それが天然循環です。そして、その繋がりを生み出すために欠かせない存在が天であり、無限の「ない」世界です。自分を手放し天に意識を向けることにより、エントロピーは天に散逸し、個性が花開き調和した社会が実現していきます。その雛形が木の花ファミリーであり、「恵みいただきます」は多くの人にその「恵み」を提供する機会になっているのです。

以下、当日の写真を何枚か紹介しますね。

手打ち蕎麦。大きなかき揚げが乗っかっています。

蕎麦職人のやじおさん
山菜ちらし寿司です。

会場の様子です。
外では苗も販売していました。こちらから注文も出来ますよ。
まりちゃん手づくりの麻ふんどしも販売しました。色鮮やかです。
恵み終了後はファミリーのみんなでお食事です

0 コメント:

世界のお金がみんなのお金になるように。PART.4

中国が主導するアジア・インフラ投資銀行(AIIB)の設立が話題になっています。イギリスやドイツなどのヨーロッパ諸国、韓国やオーストラリアを含む57ヶ国が参加を表明しているのに対して、日本とアメリカは静観しています。アジア・インフラ投資銀行とは何か?これからどんな存在になっていくのか?そのことを考えるために以下の記事を読んでみました。

「AIIB」は習政権の頼みの綱:急降下する中国経済-高村悟

誤算AIIB、もう一つの背景を考える

日本はAIIBに金を出さずに人を出せ。

アジア・インフラ投資銀行に米国が参加すべきなのか-岡崎研究所

AIIBへの参加問題を考える

続・AIIB問題~現実的対応を考える

AIIBに参加するには国民一人当たり3千円負担する必要がある!

現在、世界の金融秩序は、世界銀行(総裁は欧州から選出)と国際通貨基金(IMF:総裁はアメリカから選出)が中心を担っています。世界銀行が途上国への開発資金援助を担い、国際通貨基金は経常収支が悪化した加盟国に対して融資と指導を行っています。世界銀行、国際通貨基金ともに出資比率1位がアメリカで意思決定に大きな力を持っています(日本は出資比率2位)。そのため2010年、国際通貨基金では、新興国の出資比率を引き上げる改革案が承認されたのですが、事実上の拒否権を持つアメリカ議会の反対でとん挫していると現状があります。

アジアに目を向けると、アジア・太平洋の経済成長及び経済発展を助長するためのアジア開発銀行(ADB:歴代総裁はすべて日本人)がありますが、出資比率は日本とアメリカが共に15.7%で1位となっています。

このような現状の中、アジア・インフラ投資銀行が設立されようとしています。その目的としては、中国の市場拡大、中国元のドルに対する挑戦などが言われています。世界銀行やアジア開発銀行は、融資の際、相手国と政策協議や環境社会配慮などの審査に時間をかけています。そのため融資を受けることが出来ない事業も多々あるようです。アジア・インフラ銀行では、その基準が下げられる見通しになっています。中国は、そうすることにより、アジアにある膨大なインフラ需要を満たそうとしているのです。

マスコミの中には、アジア・インフラ投資銀行の融資によって実施されるインフラ事業に日本が参加出来ないことを懸念する論調もあります。ですが、中国の農村部はまだまだ貧しく、世界銀行では第4位、アジア開発銀行では第2位の債務国となっています。そして、経済成長のスピードも鈍化しています。中国経済は行き詰まりつつあり、その突破口としてアジア・インフラ投資銀行を設立している面もあります。そのような状態の中、積極的な融資を進めることにより、アジア・インフラ投資銀行は、大量の焦げ付きを抱えるようになる可能性もあるのです。この視点に立つと参加しない方が得策という結論になるのです。

経済圏を広げようとしている中国は今、シルクロード経済ベルトと21世紀の海のシルクロードの2つを包含する「一帯一路構想」を掲げています。アジア・インフラ銀行はそのための資金源であり、その他、シルクロード基金も設立しています。そして今、構想を進める第一歩としてパキスタンへの支援を決定しました(「中国、シルクロード構想を本格始動」より)。

加えて、今ジャカルタで行われているアジア・アフリカ会議(バンドン会議)開催60周年を記念する会議でも中国は影響力を高めようとしています。今回の会議は、「世界の平和と繁栄を推進する南南協力の強化」をテーマにしていますが、中国は最大の途上国としてここで存在感を示し、会議出席国にアジア・インフラ投資銀行への参加を呼びかけるようです(「バリトン会議:構図変容」より)。

積極的に経済圏を拡大していこうとしている中国ですが、それは、自国の利益(経済発展)を考えてのことであり、世界全体のバランスを考えて政策を決定しているわけではありません。そして、それはアメリカや日本も同様で、お互い自国の利益を考えて駆け引きをしているのが現状でしょう。

世界全体で地球1.5個分必要となっているエコロジカルフットプリント『生きている地球レポート2014』より)。そして昨年11月に出された気候変動に関する政府間パネル(IPCC)5次評価報告書。データは、地球環境が危機的な状況に陥っていることを示しています。それなのに各国はまだ経済成長を求め、利権争いをしている状況にあります。このままでは共に滅んでしまうこともあり得るのではないでしょうか?

なぜ、各国は自分たちの利益を追求し、経済成長を求める必要があるのでしょうか?地球環境の危機的状況が分かっていながら、それを止められないのはなぜなのでしょうか?それはお互いに対する信頼がないからだと思います。すべての国が世界全体のバランスを考えて、世界を良くするためにお金を使っていく。世界の国々がそのような実践をし、お互い信頼し合うことが出来れば、世界のどこにお金があっても問題はないはずです。信頼関係に基づきお金を循環させる時、世界のお金がみんなのお金になり、無駄な開発や消費がなくなり、世界全体を豊かにしていくことが出来るはずなのです。

世界銀行や国際通貨基金は、その扱うお金がみんなのお金となった時、はじめて潤滑油として人々を幸福にしていけるのだと思います。現状だと、人々を幸せにしているのかは疑問です。今の融資は途上国を苦しめている面もあるのです。1970年途上国の債務残高は700億円でした。それに対して、1980年から2007年までに7兆1500億円(700億円の102倍)の返済をしています。ですが、2007年の債務残高は3兆3600億円(700億円の48倍)に達しているのです(『債務・貧困・格差に関するデータ2009』CADTM参照)。途上国はたくさんのお金を返済しているのに、借金は増えていく一方なのです。

みんなでみんなのお金を使ってみんなが幸せになっていく。

僕たち木の花ファミリーの暮らしはその実践例となっています。80名近い人々が共に暮らしていますが、お互いに信頼し合っているので、誰がどれだけお金を持っているかなど気にしていません(『世界のお金がみんなのお金になるように。』を参照)。すべてのお金は自分たちの暮らしを維持し、社会や地球環境を良くするために使われていきます。僕たちは、大きな安心感の中、心豊かに暮らしているのです。

ではなぜ、そのような暮らしが可能なのでしょうか?

その暮らしを可能にする実践。それが心磨きなのです。僕たちは日々、自分に起きる出来事を心の顕れとして受け取り、自分を正し、自分の主張を手放していきます。そうすることで自他の区別を超えて人と自然と調和した心を育んでいるのです。

最近の大人ミーティングでは、僕たちは艮(うしとら)の金神(国之常立大神)さまの物語を共有しています(この内容は次回の木の花ファミリー通信に掲載される予定です)。金神さまは日本神話に登場する地の大神様です。金神さまは自由気ままに振る舞う八百万の神々に対して、世を乱さぬようにと掟を厳しく説いていました。その厳しさのために、八百万の神々に疎まれ、一度、艮(東北)の方角へ退かれたのです。この時、天の大神さまは以下のように金神さまに伝えています。

「いつか必ず世が立ちいかなくなる時が来る。その時再び現れ、この世界を立て直して下され」

世が立ちいかなくなる。今がその時と言えるのではないでしょうか?今年の1月31日、富士浅間木の花祭りにて僕たちはこの金神さまの復活を演目に加えました。そして、心磨きの大切さを再確認し、世の為人の為に生きる決意を深めました。

金神さま@富士浅間木の花祭り

金神さまは地の大神さま、つまりは地球です。これは地球の物語であり、地球に暮らすみんなの物語です。大きなスケールの物語を共有すること。そのことも人々を結びつけます。

今、地球環境は危機的な状況にあります。それは人々が自らの利益を追求してきた結果でしょう。それが国々の経済政策にも現れています。ですが、金神さまが復活し、人々が心磨きをすることで世界は立ち直るのです。その時にはまったく違った経済政策が生まれ、世界のお金はみんなのお金となりみんなを幸せにしていることでしょう。これは希望の物語。

最後に木の花祭りでの金神さまと翁の問答を紹介しますね。

艮の金神と翁の問答

翁   伊勢天照皇大神 熊野権現 富士浅間 ところは当初の氏大神。木の花の佐久夜の御庭におわします、金色(こんじき)の尊き姿の御身は、どなた様にてござりましょう。

金神      この方(ほう)は、艮の金神と申す。
時いよいよ来たれり。この度は、地球(くに)最後の天意転換(たてなおし)。一度に清める神幽顕の三千世界(みちよかい)。 汝らの宇宙(うつ)、光一つ上ぐる仕組み。今の世は「我よし、力よし」の獣の世、蛇の「あやま知」支配する、穢(けが)れ逆巻く魔釣りの世。

          艮の金神とはいかなるお方にてござりましょう。

金神      この方(ほう)は、宇宙(うつ)を創りた元つ神。こ度の宇宙(うつ)の天意転換(たてなおし)、始原(はじまり)の、時より決まりてありた事。この方隠れている間、「我よし」「あやま知」逆巻いて、神が息の出来ぬほど、穢(けが)れ汚れたこの世界、最後の最後の大仕上げ。この方再び現れたなら、光に穢(けが)れ混じること、適(かな)わぬ世となるべきなり。古き仕組みに変わりたる、新たな仕組み始まれり。
縁ある御魂引き寄せて、掃除洗濯 済みしものより、神の使える器となりて、こ度の尊き天意転換(たてなおし)、汝らご用に使うてやる。

          一度はお隠れなされた御身が、再び現れ出(いで)ると申されるか。

金神      いかにも。この世は逆さまじゃ。どうにもならぬ者どもを、今から改心させるため、世の中ひっくりかえすぞよ。これからは、神人(かみひと)、天地が一体の「弥勒の世」が始まるぞ。
故に皆々様、御魂磨いて下されよ。御魂磨かずおられては、使えるものにはならぬぞよ。
神多くの人民の、御魂目覚めて欲しいのぞ。汝ら皆々大切な、地球(くに)の日月の神々じゃ。
一なる花を二の花へ、二なる花を三なる花へ、大和の御魂を呼び覚まし、腹にまことを据えるのじゃ。
この心、天教山より日の本の、隅々にまで広げるぞ。汝らその役、引き受けられい。

          引き受けましょう。我らこれより「弥勒の世」、創らんがためありましょう。

金神      皆々様、いよいよ金神動くぞよ。さすればこの世、嬉し嬉し、愉し愉しの世となりて、真(まこと)の世が花開く。皆々笑え、愛し合え。真(まこと)次々現れくるぞ。
あっぱれ、あっぱれ、富士は晴れたり、日本晴れ。
(まこと)の神が現れる。神人(かみひと)共に現れる。弥勒の世の幕開けじゃ。

(まこと)の真釣(まつ)り始まるぞ。新たな時代へ、船出の時じゃ。幕開け祝い踊ろうぞ。

みんなで祝い踊っています。





0 コメント:

シェアリングエコノミー

昨日のNHKニュース深読みではシェアリングがテーマになっていました。シェアリングとは共有すること。車や服、空き部屋や駐車場など普段使っていないモノや空間を、インターネットを通して他人と貸し借りするシェアリングエコノミーが広がっているというのです。インターネットを通して、地域や人々の余剰と欠乏が見えるようになったこと。そして、節約の意識によってシェアリングエコノミーは広がっていると番組では分析していました。シャアリングを利用している人々は、それにより新しい人との繋がりを楽しみ、経済的メリットも享受しているようでした。

人々の間に自発的に広がりつつあるこのシェアリングエコノミーですが、社会問題の解決にもつながります。人口過密や就職難、賃金格差、高齢化などの問題を抱える韓国のソウルでは、行政が積極的にシェアビジネスを推進しています。市がシェアビジネスを認定することによって、人々に安心感を与え、利用者が増えているようです。

シェアビジネスが社会問題の解決に寄与している例ですが、例えば、ソウルでは高齢者の5人に1人は一人暮らしをしている状態にあります。その一人暮らしをしているお年寄りが大学生に部屋を安く貸すのです。大学生は部屋を安く借りられる代わりに、高齢者の世話をするのです。このルームシェアを利用する大学生には、行政は机など学習に必要な備品を提供し支援しているようです。

このような可能性を持つシェアリングですが、番組が実施したアンケートでは、回答者の87%が見知らぬ他人とのシェアリングはしたくないと答えています。シェアリングエコノミーは広がっているとはいえ、利用者はまだまだ一部なのでしょう。

シェアリングに否定的な理由として、事故があった時の対応が心配、危ないこと(犯罪)に巻き込まれないか心配など不安が背景にあるようでした。それは今の日本の人と人との信頼感の現れでしょう。

韓国のソウルのように行政が認定をすることにより安心感は増すのは事実でしょうが、認定基準を満たす必要が生じて、サービスが画一化し、魅力を失っていく傾向もあるようです。

人と人との信頼が社会全体に広がっていけば、より自由で工夫に満ちたシェアリングが広がっていくのでしょうが、そのためには一人一人の心が成熟していく必要があるのでしょう。

地球環境の有限性、現代の環境問題を考えた時、シェアリングエコノミーは時代の要請と言えるのではないでしょうか?ですが、アンケート結果は、人々の意識がそこについていっていない現状を示しています。

ソウル市のように仕組みを整えることは、それなりの効果が期待できますが、その効果は表面的なものに留まるのではないかと思います。時代は今、何を求めているのか?そのことを心から感じて一人一人が変化していくことが大切なのだと思います。

近代以降、人間は「個」というものを追求してきたのではないでしょうか?経済で言えば、私有財産が認められ、資本主義の元、人々は私財を増やすことを求めてきました。そして、自己実現という言葉は個人の夢や希望であり、それが最大限に尊重されてきました。その結果、人々は物質的には豊かになり、「個」の意識も確立しましたが、一人一人はバラバラになってしまいました。そこから、孤独や格差などの問題が生じています。それらの問題は、「個」というものを知った人々が再び繋がり一つになる必要性を示しているのではないでしょうか?

木の花ファミリーブログ「東洋の叡智が花開く時代~雑誌 世界建築より」には以下の文章が掲載されています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

私たちは宇宙を旅する地球という星の上に生きています。そして、私たちは一つの太陽・一つの大地・一つの水・一つの空気・一つの風のもとに生きています。なによりも私たちは時代を共有して生きています。つまり、私たちは一つのいのちの兄弟であり、天然循環の中で地球という一つのいのちの一部を担っているのです。このように、私たちは人智をはるかに超えた大いなる宇宙の仕組みの元に生かされています。

☆彡 ☆彡 ☆彡


すべてのものは太陽や大地、水や空気から生まれ、育まれています。意識を広げて、地球や宇宙に目を向けたら、僕たちはもともとすべてのものを共有していることに気が付きます。すべて一つなのです。みんながこのことを思い出すことがまず何よりも大切なのではないでしょうか?この意識に基づいて、自分の枠を超えて、心を開き広げていくのです。そうすると、シェアリングエコノミーは自ずから生まれて様々な社会問題は解決していくのではないでしょうか?

木の花ファミリーはみんなですべてのものを共有して一つの経済を生み出しています。それは、仕組みやルールによって生まれているのではなく、上記の世界観を共有することによって生まれています。その暮らしはこれからの社会のモデルになる。僕たちはそう確信し日々を大切に生きているのです。


木の花ファミリーのみんな。1ヶ月の真学校の受講生と。



0 コメント:

人々が再生していく場所

4月12日の統一地方選挙。上野竜太郎さんはニートとして千葉市議会に立候補し、1399票獲得したそうです(BLOGSより)。15人中12位。定数の10位以内には入れなかったものの善戦と言え、ネット上では健闘を讃える声が挙がっているようです。選挙は上野さんにとって立ち直るきっかけとなったようでTwitterで以下のようなツイートをしています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

今回の経験を通して「社会のゴミ」はリサイクルされ、少しマシになったようです。このペラペラの再生紙が、今後平凡な社会人として皆さまの社会に少しでも貢献出来れば幸いです。

☆彡 ☆彡 ☆彡

最近の大人ミーティングでも「ごみ」という言葉が話題になっていました。木の花ファミリーメンバーも一人一人癖があり世間では「ごみ」のような存在だったと言えます。ですが、この暮らしの中でリサイクルされ、個性が輝き世の為人の為に生き始めているのです。

ちなみに「ごみ」という言葉は「護美(ごみ)」とも書けます。「ごみ」がどこから生まれるかというと、例えば大量生産による無駄から生まれています。つまり無駄になっている状態が「ごみ」と言えるのではないでしょうか?それらが生かされ好循環が生まれる時、「護美(ごみ)」となってこの世界の美しさを護るものとなっていくのでしょう。

加えてカタカムナの単音思念も見てみます。「こみ」は「満ちて転がり出る」。潜象界(ない世界)から美しく転がり出たもの。そこに濁点(余計なもの)が加わることで、「ごみ」となっているのです。ということは、余分なものをそぎ落とし本来の姿に戻る時、再び美しい「こみ」となっていくのです。

共に生き、共に語り合う木の花ファミリーは人々にそのような変化をもたらします。その暮らしはメンバーだけでなく一般の人々にも開かれていて、多くのゲストの方がここで自分を知り、成長していきます。その中でも特に、うつ病や統合失調症など心身の病や偏った生活習慣などの問題を抱える方々を受け入れる自然療法プログラム(通称:ケア)では今まで様々な奇跡が起きています。

お腹に顔を描いてみんなを楽しませてくれるわけあり女さん。
もう僕の後頭部をこすることもありません。

その奇跡の事例の一つ、わけあり女さんは先日、木の花ファミリーでの滞在1年を迎え、みんなに手紙を読んでくれました(木の花ファミリーブログ参照)。木の花に来る前は、具体が悪く近所の精神障がい者向けのデイサービスにさえ行けない状態だった彼女が、今や塾の講師として立派に働いています。そして、ここに来た当初は座っている僕の後頭部をよくすっていたお腹は見違えるほどスリムになっています。

そして、あわちゃんは自らの経験を生かし、人と人が繋がるイベントを企画しています(詳細はこちらを参照)。

こんなふうに多くのケア卒業生が、「こみ」、「護美」となって自らの存在を輝かせているのです。


ケア卒業生にメンバーが送る寄せ書きです。
ところで、自然療法プログラムでは、ケア滞在者には同室で寝泊まりをするケアサポーターがつきます。僕は今まで9名のケア滞在者のケアサポーターをしてきました。そのうちの一人、しゅうくんは今、木の花ファミリーで長期滞在し自分の新たな可能性を探しています。こんなふうにケアを卒業した人たちと共に暮らし成長し合えることが嬉しいです。

ケアサポーターの経験はとても貴重なもので自分に多くの学びを与えてくれました。自然療法プログラムでは、ケア滞在者本人の自発的な成長を大切にしています。そのためケアサポーターには、良い悪いの評価を外してただ相手のことを想い、観察し続けて見える景色を伝え続けることが求められます。それは簡単なことではなく、この過程で自分の様々な癖に気づかされます。なかなか行動に移さない相手にいらだったり、なんとかしたいと思って過度に関わってしまったり。ケア滞在者はサポーターの鏡となって、その姿を映し出してくれるのです。そしてそれはその時その時のサポーターにとって必要な学びとなっています。

例えば僕は、2011年1月から10月まで、統合失調症のSくんとサポーターとして共に過ごしました。Sくんは荷物の整理をすることが出来ず、部屋中にいろいろなものを散らかしていました(6畳間の2/3は彼のスペースになっていました)。物を収集する癖があり必要のないものを次から次へとカバンに入れ部屋に持ち込んでいました。常に大きな荷物を持って動き周り田んぼ作業に行くだけのはずなのに、まるでどこかへ2~3泊で旅行に行くようでした。どんどん物を増やして整理をすることが苦手なSくん。僕が片づけようとすると勝手にいじるなと怒ります。話しをしながら一つ一ついらないことを納得させて整理をしていく必要があります。そんな状態だったので、朝1時間、夜2時間はSくんの荷物の整理などに付き合う時間となっていました。そんな感じで過ごしていると、Sくんが目を覚ますと僕も目を覚ましたり、見当たらなくなった時には、どこにいったかなんとなく分かるようになってきました。相手にどうなって欲しいとかそういう思惑を持たずにただ一緒にいて想いを寄せる。Sくんを通してそういう精神状態を体験することが出来ました。

Sくんと出会った2011年は農事組法人木の花ファミリーを設立した年でもあり、自分の能力向上が大きなテーマになっていました。積極的に仕事を増やしていき、どんどん自分の可能性を広げていました(「世界のお金がみんなのお金になるように」参照)。僕は僕の物語を生きていて、その流れの中でSくんとも出会い学びを深めました。自分の物語をしっかり生きる。それを通して僕は自分を成長させ、そして再生させていたのだと思います。この学びは当時の僕にとって本当に必要なものでした。

ですが今の僕の学びはもっと違うものになっています。なぜなら僕は今、個人の物語を必要としていないからです。時々、それが顔を出すこともありますが、常にそれを超えていくことを目指しています。

天の物語を生きる。

今はただそれだけです。なので、ケア滞在者との関係も、そこからの学びも変化しています。それは僕個人より木の花全体、そして社会全体を意識したものとなっています。

ニュースを見ると、介護・保育・障がい者福祉サービスの統合という話題が報じられています(産経ニュースより)。一般社会でそれを実現しようとすると、制度や資格など様々な縛りがあるのでしょうが、木の花ファミリーでは生活の中でそれが実現しています。「世話する/世話される」という関係ではなく、すべての人が対等な立場で共に学びあっているのです(あわちゃんブログ木の花ファミリーブログもお読みください)。この事実が社会に与えるインパクトはとても大きなものがあるでしょう。そのことを意識して日々の出来事を大切にして学びを深めているのです。

木の花ファミリーは日々、人々が個性豊かな姿で再生していく場所です。その生活を是非、体験しに来て下さいね。これからの多くの出会いを楽しみにしています。


【イベントの紹介】

この投稿でも触れているように、木の花ファミリーの自然療法プログラムでは、病院で治らないと言われた人々が自らの力で回復していきます。それはなぜか?5月17日、そのナゾを解き明かす出張木の花塾が千葉県の船橋にて開催されます!自然療法プログラム卒業生も参加します。現代医療の限界を突破するヒント、ここにあり。病気を持つ人も持たない人も、どうぞお越しください!
出張木の花塾@船橋  欝も統合失調症もプレゼント 〜 奇跡の自然療法プログラム〜』





0 コメント:

自らの意志で天の物語を生きる

一昨日の大人ミーティングにて、クローズアップ現代の『テロの拡散が止まらない~呼応するイスラム過激派~』を観ました。1月7日に起きたフランスの出版社シャルリーエブドへの襲撃事件に始まり、IS(イスラミックステート)による湯川さん、後藤さんの殺害デンマークでの連続テロチュニジア博物館ケニアの大学と世界中でテロが続いています。番組では、その中でアフリカ・ナイジェリアの北東部を拠点とするボコ・ハラムが主に取り上げられていました。200人以上の女子生徒の拉致事件を起こしたり、少女を自爆テロに利用したりとその残虐性が指摘されるボコ・ハラムですが、それもこの世界が生み出しているものです。自分たちから切り離すことは出来ないでしょう。

IS(イスラミックステート)やボコ・ハラムは国境を越えて支配地域を広げています。そして、様々な国籍に人々がそこに参加しています。国境を越えて世界が一つになっていく。そんな現象と言えるでしょう。一つになった世界で人々が表現しているのは、恐怖や苦しみとなってしまっています。ニュースを観ると暗い話題が並びます。それは人々が自我を超えることが出来ないからではないでしょうか?自我は自分に近いものに愛着を示し、遠いものを排除します。そこから対立が生まれ、対立は争いへと発展するのではないでしょうか?

自我について。そして、それを超える生き方について。いさどんは以下のように語っています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

一人ひとりに、自我がある。自我とは、自己愛。自己愛とは、宇宙の究極の姿。
この世界は全て、自己愛によって紡がれている。究極の自己愛とは、この世界を紡ぐための部品となること。それは、自我を超越した状態。自我を超越した自我の状態。
それを感じると、心が躍動する。心の躍動とは、喜びのこと。そういった世界を、ただ表現したい。

それは究極の喜びだ。そこへ到達することが最終目的であるはずなのに、人間は自我を満たすことにばかり囚われて、囚われに喜びを求めている。それでは究極の自己愛にはつながらない。

そこで、私とは何だろうと考える。それは、たくさんの人間の可能性の中のひとつである。
それは私という天の望みと、私という自我の望みが共通している点のところを歩んでいる。それは、たくさんの可能性の中のひとつ。人間にはたくさんの可能性がある。その中のひとつに過ぎない。

人間は、自らが受け取れる範囲内のものを良しとしたいもの。それが囚われであっても、それを良しとしたいのだ。しかし、そこを超えていかなければ次が観えてこない。

この広い宇宙の中で、人間たちが当たり前と思って生きている今の地球上の姿は、特殊の特殊の特殊の世界だ。人間は、そのことに気付いていない。良くも悪くも、特別の特別の特別を生きている。そこに気付いていないから、こういう形で存在していることの本当の価値がわからない。だから、人間であることを生かせない。
今のところ、それは人間一人ひとりの意志ではなく、天の采配によってしか、成っていない。本来人間は、天と協議しながら道を歩むべき者なのである。

☆彡 ☆彡 ☆彡

このブログでも何度も書いているように天の物語を生きることはとても幸せなことです。心が踊り躍動します。ですが、自我を持つ人間は自分の物語も持つため、なかなか天の物語を生きることが出来ません。天は人間に自由を与えているのです。天はなぜ人間に自我を与えたのでしょうか?それは天がより大きく躍動するためなのだと思います。自らの意志で天の物語を生きる。この意志に力が加わることで、動物などただ天に意向のままに動く存在には生み出せないエネルギーが生まれます。その時、一人の人間は天と対等であり全世界と対等となり平和をもたらすものとなるでしょう。

その境地に行きたい。だから僕は木の花ファミリーで暮らし学びを深めています。

その学びの一例を紹介すると、先の番組『テロの拡散が止まらない~呼応するイスラム過激派~』を観た感想をみんなで話している時、玲ちゃんは以下のように語りだしました。

「独裁者もヒトラーからどんどん若くなって・・・」

そこでいさどんが尋ねます。

「独裁者とは何? 若いって?」

玲ちゃんはボコ・ハラムの指導者アブバカル・シェカウの映像を観て、上記のように表現したようでした。ですが、アブバカル・シェカウが独裁者かどうかも分からないし、ヒトラーが権力を持ち始めた年齢とアブバカル・シェカウも年齢はあまり変わりません。なのに印象だけで上記のように語っていたのです。

こういう言葉をそのまま受け流してしまうと、場がぼんやりしたものになります。それが重なるとおかしいと思うことも表現出来なくなっていき、気づくと戦争やテロに巻き込まれている。そんな危険もあるのではないでしょうか?戦前の日本や地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教はそんな状況にあったのではないかと想像します。

一つ一つの言葉を吟味し大切にすること。そしてその言葉を発した人の心を観ていくこと。こんなふうに学びを深めることで自分を知っていきます。その先にあるのはきっと地上天国。

そこを目指して今日も「空飛ぶぞ♪」って呟いています(^ー^)








0 コメント:

空飛ぶぞ(^-^)

今日の大人ミーティングでは『凶悪』という映画を観ました。実際の殺人事件を扱ったこの映画は残酷で観ていて重たい気持ちになりました。そして身体が重たい。その重たい感覚から自由でありたいなと思いました。だからとりあえず椅子の上に乗って身体を動かしてみました。ちょっとずつ重たい感覚から距離がとれていきました。

こういう映画は人間の闇を見る体験になるから当然身体も心も重たくなります。しっかりと向き合うという意味でその重たさはちゃんと感じていたいです。ですが、それと同時にそこから自由でありたいとも思っています。

そんなふうに思っていると、いさどんは穏やかな表情で語っていて、きっといさどんは重たい感覚を感じながらもそこから自由なんだろうなと思いました。

昨年の12月頃から、僕は大人ミーティングでは椅子の上に立っていることが多いのです。椅子の上に立つとその場にいるみんなの様子がよく見えるし、少しだけ天に近づくことも出来ます(あくまで物理的距離ですが・・・)。だから心地よいのです。そして、その頃から僕には「天に昇っていく階段」の映像が見えるのです。こうやってみんなで語り合うことで天への階段を登っていく。きっとこの場はそういう場所になっていくのでしょう。

そんな映像を観ながら「空飛ぶぞ♪」って呟いています。

脈絡もなく文章を書きますが、今日のミーティングでいさどんは「納得が出来てから進むのは自我の道」というようなことを言っていました。納得なんていらないのです。

感じるままに進んでいく。天の意志、地の温もり、人の気持ち。
そのためにいつも心と身体を柔らかくしていたいなっと思うのです。

太陽はどんな人にも平等に光を注ぎます。痛みに苦しんでいる時も穏やかな光に照らされているのです。身体の感覚から自由でいれたら、痛みと同時にそんな光を味わえます。

戦争や紛争、テロや対立、貧困や飢餓。世界中に溢れる様々な痛み。
その現場にも光は差し込み、そこに意識を向けたら、それは希望の光となるのではないかと思うのです。

肉体としてこの世界を生きながら、心は空を飛び続ける。そして、世界を感じ続ける。

そんなことも出来るのではないかと思うのです。だから「空飛ぶぞ♪」と思うのです(^-^)








0 コメント:

「まなこい」から11ヶ月

大石寺にて
一昨日の昼間、ひとみちゃんあわちゃん、まりねえ、しゅうくん、みきちゃんと大石寺に花見に行きました。桜吹雪がとってもきれいでその中でのんびりした時間を過ごしました。
※この時の様子は、木の花ファミリーこの話~訪問者掲示板~にも書かれています。是非、読んでみて下さいね。

昨年、一昨年と木の花ファミリーのみんなは大石寺で花見をしていたのですが、僕はそれらには参加していませんでした。特別な用事があったわけではないのですが、なんとなく遠慮してオフィスで留守番をしていました。別に誰も頼んでいないし、そんな必要はなかったのですが。素直に出掛けることをせずに留守番をしていました。こんなところにも当時の僕の心が現れているなと思いました。

ところで、僕は2009年5月20日に木の花ファミリーに移住しました。もうすぐ丸6年になります。5周年となった昨年の5月20日には大人ミーティングにて僕の「まなこい」が行われました。

「まなこい」とは何か?

それは「まな板の上の鯉」の略で、僕はまな板の上の鯉のように抵抗することなく、みんなに自分を晒し料理をしてもらいました。まず僕自身が自分の分析をして、それに基づいてみんなが僕についての分析をするのです。そうすることで、お互いの認識のギャップを埋めて、みんなで客観的な視点を身に着けていくことを目的にしていました。

まな板の上の鯉を演じています。
この「まなこい」の場で僕は以下のようなことをみんなに伝えていました。

  • 自分は基本的に場を創りたくない人。
  • みんなの前で話をしようとするとただの事務連絡だけでも心臓がバクバクする。
  • この場をよくしていこうという提案に乗れない自分がいる。そのため「こんな自分はここにいてはいけないのではないか?」という考えが浮かんでくる。そして、実際に出ていくことをシミュレーションしてみる。「自分が出ていくならば、引継ぎとして最低でも1ヶ月は必要だよな~」とか「ここを出て行った場合、道義として同じような暮らしは出来ないよな~。そうすると、生きていくために適当な仕事を探して無気力で生きていくのかな~。」なんて考えて、「こんなことを考えても仕方がないので、ダメかもしれないけどやれるだけやろう」と言い聞かせて過ごしている。

そんな僕に対してみんなが見える視点を伝えてくれました。

  • こんなふうに言うことでなかのんは失敗した時のための予防線を張っている。
  • 本当は良くしていきたい気持ちがあるのに、それを推し進める力がない。ならば人に心を開いて頼ればよいのに、それもプライドが高いために出来ずにいる。
  • なかのんは無駄な思考、エネルギーを使っている。ここを出ていくことに良いイメージがないのに、そんな考えにエネルギーを使っている。湧いてきた無駄な想いを手放していくということをしているようだが、本当に高い視点を持って、その位置にい続けたら、そんな想いは湧いてくることがなくなる。そこまで自分を高めることが大切。

僕は、自分の気持ちを出さずにいたのです。そして、そのために停滞していました。「まなこい」ではそのことが確認され、自分は「出していきます」と宣言をしました。

その後、僕は変わっていこうと意識をして気持ちも出すようにしていきました。この時、僕は変わっていく自分の姿をイメージしていました。それは、「積極的に発言をして、仕事もバリバリして場に良い空気をもたらす自分」です。そんな自分を目指し努力をしました。でもこれは功を奏しませんでした。どんどん仕事量を増やすことで、いつの間にか仕事に埋没し、いっぱいいっぱいになってしまいました。そんな僕は、昨年の9月(だったかな?)みんなから「オフィス障がい者」の認定を受けました。

どうもなかのんは心磨きが苦手な様子。だから何度みんなが伝えても仕事に埋没することを繰り返している。障がい者と言っても過言ではないだろう。だが、仕事でここに貢献していることは認める。なので、大人ミーティングも出なくてもよいので、好きなだけ仕事をして、ちゃんと休むように。

オフィス障がい者の趣旨はこんな感じです。心磨きを一番の大事にしている木の花ファミリーで、その心臓部である大人ミーティングに出なくてもよいという認定を受けたのです。それぐらい僕は絶望的に変わらない人間でした。

ところが、昨年の12月頃からなぜがみんなに「変わった」と言われるようになりました。この変化については昨年末「天の物語を生きる~1年の振り返りとして」に書きました。それをもう一度ここに引用したいと思います。

☆彡 ☆彡 ☆彡

僕はこれまでずっと自分の物語を生きて来ました。

それは「世界が僕を変える」や「世界と一緒に変化を楽しむ」に書いた英雄物語だったり、「僕といさどんと木の花ファミリー」に書いた「虐げられた状況から逆転する物語」だったりします。その自覚はずっとあって、それを意識的に変えようと努力を重ねてきました。ですが、それらの努力は功を奏しませんでした。僕は変わりませんでした。

そんな中、今年の9月24日、このBLOGを立ち上げました。タイトルは「木の花ファミリーの経済から世界を見る」。「世界を見る」とタイトルをつけたからには、そこに書かれるものは、世界を意識したものでなければならない。そんなふうに思いました。そして普段から世界で起きていることと木の花ファミリーの暮らしを繋げて考えるようになりました。そうすることで、この暮らしの意味をあらためて感じることになりました。そして、その意識を保つために一定のペースでこのBLOGを書き続けました。

すると大人ミーティングが今まで以上に面白い場となってきました。そこから世界が見えるのです。
そんな大人ミーティングの場で、12月の初め不思議な体験をしました。その時、いさどんがみんなに向って語っていたのですが、僕は天から暖かいエネルギーが降り注ぐのを感じたのです。いさどんの話が天の扉を開き、そして、天からエネルギーが降り注いでいたのです。そのエネルギーはとても大きく暖かいものでした。僕はこの時、初めて天の存在を感じました。ずっとあることを知っていた天の存在をリアルに感じたのです。この日から僕は天に意識を向けるようになりました。

天に意識を向けると、自分の感情や枠を超えることが出来ます。自分から自由になって、天の温かさを感じることが出来ます。それがとても心地よく毎日がとても幸せなのです。そんなふうに過ごしていると、周りから「変わった」と言われるようになりました。

このBLOGを立ち上げた時、僕は別に「変わろう」とは思っていませんでした。ただ広い視点を持つことを心掛けて毎日を過ごしていました。その結果、僕はとても幸せになりみんなに変わったと言われます。一方、僕が意識的に変わろうと努力した時、僕は変われなかったし、あまり幸せにもなれませんでした。

その違いは何か?

僕が意識的に変わろうとした時、僕は自分の変わる姿をイメージしていました。評価される自分、出来る自分をイメージしていました。要は自分がかわいかったのです。そして、自分に囚われていました。その囚われが僕の変化を邪魔していたのでしょう。

今は自分に対するイメージは持っていません。「どうなりたい」という思いもありません。ただ、天を意識し感じ続けること。それが僕の一番の望みで、それだけ出来ればよいのです。だから僕はこれから何があってもずっと幸せだろうなと思います。

僕を変えて幸せにしてくれたのは世界であり、天です。
自分では幸せになれませんでした。
だから、これからは天の物語を生きていきます。
それは僕を幸せにし、そしてみんなを幸せにする物語になるのだろうなと思っています(^-^)

☆彡 ☆彡 ☆彡

今も昔も世界中で様々な対立や争いが起きています。多くの人々が平和を願い努力をしているのに、変わらずに戦争や紛争が起こり続けています。それは多くの人々が自分の物語を生き、思い描いた「平和な世界」を実現しようとしているからかもしれません。その「平和な世界」はそれぞれの人にとって都合の良い世界で、みんなが幸せになる世界ではないのかもしれません。多くの人々が天に委ねて天の物語を生きる時、きっと大きな変化が起きるのではないでしょうか?

どんな変化が起きるのか?

それもすべて天に委ねて、ただただ心を世界に開いて生きていく。そんな生き方をする人たちが増えたら、きっと世界は変わっていき、一人一人の個性が生かされた平和な世の中が実現するのだろうなと思います。

そんなふうに思っている今の僕から、「まなこい」当時の僕について振り返りをしてみたいと思います。

仕事に没頭して人との交流がない状態だと、人と関わるのが億劫になります。話をするのも面倒になります。こういう心の状態だと、確かに「ただ事務連絡をするだけ」で心臓がバクバクすることがあります。そして、他人からの働きかけも煩わしくなります。

僕は2月~3月に掛けてとても忙しい時期を過ごします(「世界のお金がみんなのお金になるように」を参照して下さい)。そのため人との交流も少なくなります。「まなこい」をした昨年の5月はその状態を引きずっていたのだと思います。これは心に薄い膜が貼っている状態で、すべての言葉が表面的になって深まっていきません。「まなこい」当時、僕は他人と以下のような会話をしていました。


Aさん : なんて場を創りたくないの?

なかのん : 場を創りたくないから。

Aさん : 話すことに苦手意識があるのかな?

なかのん : 別に苦手意識があるわけではない。

Aさん : 失敗することを恐れているのかな?

なかのん : 失敗することを恐れているのではないと思う。


自分から何かを語りだすことはなくて、相手から質問をされても一言で終わってしまう。自分自身を見ていこうという気持ちがないのです。こんな状態でいくら言葉を交わしても無駄で、中身のない言葉を重ねるだけなのです。

今年の2月も物理的にはすごく忙しく仕事に集中する必要があったので同じような精神状態になりかけました。ですが、みんなの支えの中でなんとか持ちこたえることが出来ました。それでも天との繋がりは薄くなってしまいました。今はその繋がりを再び強めることを意識して生活しています。

毎日1つ。いつもと違う行動が出来たらいいなと思っています。その行動は頭で考えるものではなくて天から降りてくるものです。そんなふうに行動していられたら、ずっと変化を楽しんでいられるでしょう。

ということで最後に再び、大石寺の桜の写真を紹介します。桜は命の儚さ、美しさ、潔さを現わす花です。美しく咲いて潔く散っていく。そして、それは大いなる循環(変化)の中にあります。その心を忘れずに生きていきます。













2 コメント:

働くことがそのまま生活であり娯楽でもある暮らし

4月3日、「ホワイトカラー・エグゼンプション」(残業代ゼロ制度)を盛り込んだ労働基準法改正案が閣議決定されました。(【残業代ゼロ法案】閣議決定 労基監督官の過半数は「反対」していた参照)

この法案が成立すると、高度な専門的知識があり、平均年収を3倍「相当程度」上回る人は、労基法の労働時間規制(1日8時間、週40時間など)から除外され、時間規制がなくなるため「残業」の概念がなくなり、深夜労働や休日労働への手当も出なくなります。その上で、働き過ぎを防止するために以下の措置をとるようです。

  1. 年間104日の休日
  2. 1日の中で一定の休息時間を確保
  3. 在社時間に上限を設ける

この法案について、塩崎厚労相は「働きすぎを是正し、働く人の多様なニーズに対応するもの」と説明していますが、労働組合や労働基準監督官の過半数は「長時間・過重労働がいっそう深刻化する」と反対しています。

労働時間、そして給与(残業代)は多くの労働者にとってとても大切で切実な話題でしょう。多くの方がどうなるか気にしていることと思います。

ところで、僕たちは農業を主な収入源をしていますが、農業は元々、労働時間や休日の定めがありません。労働基準法で適用除外になっているのです。(農業雇用改善推進事業ホームページよくある質問Q&A参照)。加えて、僕たちは、農事組合法人との間で雇用契約を結んでいないので、最低賃金も守られる必要がありません。ということで、僕たちは、時給換算にしたら100円以下の金額で、毎日休みなく元気に働いています。(『不可能を可能にする暮らし』も読んでみて下さい。)労働時間も残業代もまったく気にしていません。

それは僕たちにとって、働くことがそのまま生活であり娯楽でもあるからです。多くの人が労働時間や給与を気にするのは、仕事の時間以外にプライベートな生活があり、その生活を成り立たせるためにお金が必要だからでしょう。そのため、「お金のために働く」という状態も生まれます。それでは純粋に働くことを楽しめないのではないでしょうか?ですが、僕たちは仕事とプライベートな生活が分かれていません。それらが一体になった暮らしをしています。なので、無心で働き、傍(はた)を楽(らく)にしていくことが出来るのです。

そんな僕らの暮らしから生まれたイベント、木の花茶会が4月4日(土)に開催されました。

1,500円で提供した料理について、木の花茶会に参加したみへちゃんの友人は、「ホテルで1万円以上の価値がある」と言っています(木の花茶会に参加したみへちゃんからのメッセージ)。長期滞在中のあわちゃんは「こんな料理、食べたことがない。美味しすぎる」と言っています(木の花茶会の奇跡の軌跡)。僕は物販担当として会場にいたのですが、そこにいるだけで、その空気に感動して涙が出そうになりました。そんな木の花茶会の様子を写真で紹介しますね。






















※より多くの写真を観たい方はfacebook木の花ファミリーページをご覧ください。

こんなふうにたくさんの奇跡を生み出すこの暮らし。是非、多くの方に体験していただきたいなと思っています。きっと今までの常識を超えた体験が出来ますよ。


2 コメント:

やっぱり天の物語を生きる ~オウム真理教の事件から~


オウム真理教の教祖である松本智津夫死刑囚。その三女である松本麗華さんの手記「止まった時計 麻原彰晃の三女・アーチェリーの手記」〔講談社)が出版され話題になっているようです。

僕はこの話題をきっかけに、松本麗華氏へのインタビューなどいくつかの記事を読み、動画を見ました。そのうちの一つ、池本孝慈さんのブログ記事、『止まった時計 麻原彰晃の三女・アーチェリーの手記』松本麗華〔講談社)はとても良質なもので共感出来ました。


☆彡 ☆彡 ☆彡 ちなみに動画に関しては以下の4つのものを観ました。☆彡 ☆彡 ☆彡

【地下鉄サリン事件から20年】麻原彰晃の三女・アーチェリーが語る (聞き手:田原総一郎)

麻原彰晃の三女「アーチェリー」が本名・松本麗華としてニュースzeroに顔出し出演

麻原彰晃の三女”アーチェリー”の告白『オウム・父麻原・事件』ウェークアップぷらす

地下鉄サリン事件20年 松本死刑囚の四女に話しを聞きました。(FNNNewsCH)

☆彡 ☆彡 ☆彡            ☆彡 ☆彡 ☆彡            ☆彡 ☆彡 ☆彡

松本麗華さんは、オウム真理教が起こした一連の事件について、教団が行ったことは認めながら、父親が指示を出したことについては、判断を留保し、「分からない」と述べています。松本智津夫死刑囚の四女、聡香さん(仮名)は、この麗華さんの態度に対して疑問を呈し、麗華さんが語っていることに関してデタラメだと批判しています。これはどちらかが嘘をついているというわけではなくて、同じ場所にいて二人はまったく違う現実を経験したのだと思います。

一つの出来事に対して受け止め方が人によって違うのはよくあることです。その時のその人の立場、心の状態、性格。それによって一つの出来事も全く違って表現されることはよくあります。当時、11歳の麗華さんと、5歳の聡香さんが全く違った体験をしていたとしても不思議なことではありません。

たとえば、僕たちは豊かな日本で暮らしています。ですが、感じるものは人それぞれで、物質的豊さを享受し楽しむ人もいれば、そこに虚しさを感じ生きる意味を探求する人もいます。自分を知り心穏やかに暮らす人もいれば、道を踏み外し見失う人もいます。そんな日本社会の中でオウム真理教も生まれています。

僕は麗華さんも聡香さんも自分がリアルに感じたことを語っているのだと思っています。そこには父親に対する愛情もしくは憎しみというバイアスが掛かっているとは思います。ですが、そこには嘘はないと思います。そして、経験者が持つそのバイアスがそのまま表現されることで、そこで何が起きたのか、オウムとは何だったのかをより深く知ることが出来るのではないかと感じました。

今の麗華さんの態度について、色々な識者が麗華さんを批判していました。道徳観念からしたら、父親の事件への関与を保留にし、遺族に謝罪をしていない麗華さんの態度は非難されるものなのかもしれません。ですが、立派な道徳観念通りに行動できる人間がどれだけいるのでしょうか?その道徳観念は人間の本質を掴みきれているのでしょうか?

日本社会が生み出したオウム真理教。その存在は、アレフとなって今も続いています。何がそれを生み出しているのか?それを突き詰めることは大切な取り組みです。松本智津夫死刑囚の娘であることを受け入れ、実名を公表し、表に出て語り続ける麗華さん。これからもオウム真理教や地下鉄サリン事件、そしてその被害者や遺族の方々に向き合い続け続けることになります。それはとても重く厳しい道のりでしょうが、今後の麗華さんの人生により、オウムを生み出した日本の闇に光が当たり、人々がそれを乗り越えていく。そんな可能性も感じます。

麗華さんは、「オウム真理教と一般社会にそれほど違いはない。そんな中でなぜ事件が起きたのかを考える必要がある」と述べています。そして、田原総一郎さんは、地下鉄サリン事件と太平洋戦争とを重ね、かつて日本全体で同じような状況が起きたと話しています。

おかしいと思いながら、誰も反対出来ずに間違えた方向に進んでしまう。

集団や社会はそのような特徴を持つことがあるようです。例えば今、地球環境の悪化が叫ばれる中、多くの国の政策で経済成長が大切にされています。大きな視点で見れば、これも同じような現象と言えるのではないでしょうか?この状態を超えるにはどうしたらいいのでしょうか?

☆彡 ☆彡 ☆彡

木の花ファミリーの暮らしは、この質問の答えになっています。
ここから少し僕や木の花ファミリーのことを書いてみようと思います。

今年の正月。「やっぱり天の物語を生きる~新年の挨拶として~」を書いた僕ですが、日々の忙しさの中で、天を感じるゆとりをなくし、「困難を克服する」「すごい人になる」という自分の物語を生きるようになっていました(「世界のお金がみんなのお金になるように。」を参照)。3月16日、確定申告書類を税務署に提出し一息ついた僕は、さっそく滞りを頂きました(「世界のお金がみんなのお金になるように。PART.2」を参照)。わかりやすいなと思いました。

木の花ファミリーブログ「宇宙を生きる子供達へ」にも書かれていますが、天とは宇宙のことです。宇宙の運行が季節をもたらし、時代の流れをもたらします。そこに心を開き、流れをいただくことで物事はスムーズに進んでいくのです。

自分の願いが叶う。それは嬉しいことかもしれませんが、自分の想像の枠を超えません。ですが、天の物語を生きる時、何が起きるか想像をすることが出来ません。自分の想像をはるかに超えたわくわくする出来事に出会えるのです。

物事がスムーズに進み、しかもわくわくする。

そんな天の物語を生きるためには自分を手放す必要があります。自分の物語を生きるようになってしまっていた僕は、それを手放し、天に心を向けて、その感覚を少しずつ取り戻しています。

そして、僕と同じテーマが木の花ファミリー全体にも言えるのです。一人一人のメンバーが、自分の感覚や感情に捕らわれて全体視点を失っているとその場は停滞します(その様子は、木の花ファミリーブログ「真夜中の女子会」に描かれています)。みんなが心から「それでいいね」という状態にならずになんとなく物事を進めていく。そういう状態に陥ることもあります。この延長に「おかしいと思いながら、誰も反対せずに間違えた方向に進む」ということが生まれるのだと思います。

一人一人が天に心を向けることで、全体でこの状態を超えていくことが出来ます。はっきりと意志を示し、みんなで一つの方向に進んでいくことが出来ます。僕たちは何度かその一体感から生まれる喜びを味わっています。今のところすぐに忘れてしまうのですが・・・

僕たちはみんなで自分を超えられることを知っています。まだまだ未熟ですが、そこを目指し続けています。そんな僕たち木の花ファミリーの暮らしは、これからの時代の希望となり、多くの人々を幸せにしていく。そう確信しています。


木の花ファミリーのみんな




0 コメント:

Your left Slidebar content. -->